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森の中で木刀を振っていると、徐々に自分が空っぽになっていくことが分かる。そこにあるのは、剣と自分だけの世界だ。
この3週間剣を振り続けたせいか、最初の頃と比べれば、少しずつ剣速も上がり、重心のブレも少なくなってきた。
通常であれば、筋肉痛を治すのには2日はかかるものだが、ポーションのおかげかそれも1時間あれば直る。傷ついた筋肉が治る際に体内のたんぱく質を使い強くなる。
そういった現象のおかげなのか、元々持っていたエルザの天分のおかげなのか、彼女の身体能力はすでに3ヶ月の訓練を経た新兵並みにはなっていた。
ふと手を止め、彼女は自らの小さい掌を眺める。3週間前のその小さい掌には、まだ肉刺一つない柔らかいそれだった。が、既に、何度も肉刺を作っては破り、作っては破りを繰り返したせいで、柔らかさとは無縁の掌になりつつあった。復讐のために剣を振るっているとはいえ、それはどこか寂しくもあり、またどこか誇らしくもあった。
エルザはもう一度いつものように木刀を正眼に構え、上段に振り下ろそうとする。が、ふと手を止める。トウゴから受けた指示は、剣を振ることであった。だとしたら、トウゴの動きを真似て剣を振ってみてもいいのではないか?そんな疑問が生まれたためである。それは、通常ではあり得ない鍛練と、天分のおかげで、剣を振る筋力が充分に付いたという証左にもなり得る。
彼女は木刀を腰紐につけると、目を閉じ、勢いよく抜き放ち振りぬく。が、彼女は小首をかしげる。トウゴの動きのイメージと重ならないのだ。今度は、剣を左耳の前に持ち上げ、走り出し振り抜く。また、小首をかしげ、今度はゆっくりと何かを確かめるようにその動作を行う。彼のイメージと自分の体の動きを重ねるように。
パクリ、真似、あるいは、模倣。それは、自らの剣を獲得するための第一歩だ。もともと、トウゴはそのために彼女に自らの鍛錬を見せていた。本来、彼の鍛錬をエルザが見ても、目で追うことすら叶わない。6歳程度しか年齢的には離れていないトウゴとエルザであったが、剣においてトウゴは遥か先にいる先達でもあった。
現在、彼女の周りには誰もいない。森の中でも奥まった所にある洞窟の前である。周辺の魔物はあらかたトウゴが既に駆除しているが、安全ということはない。それでも、安全である街の近くにいるよりかは、王国の兵士に出会う確立の低いこの場所の方がエルザにとっては安全である。
彼女たちの旅路は大分進んだとはいえ、未だ王国の中だ。
トウゴは街へ倒したモンスターの換金と、旅の補給に向かっている。彼が持っているのは、普通の袋だった。だからこの時間は、彼女にとっては鍛錬の時間でもある。
また、木刀を腰紐に納め、振り抜く。今度はゆっくりと、である。そして、また左耳の上に辺りに木刀を構えた。
「ゲギョ」
エルザは動きを止め、構えを解くと、その鳴き声が聞こえた方向を見る。そこには2匹のゴブリンがいた。無意識に彼女は舌なめずりをする。未だ、トウゴから稽古をつけてもらうことはない。だが、だからこそ自分がどれだけ強くなったのかを少し試したい欲望が彼女の舌を動かしたのである。
彼女はニヤッと少し笑った後、自らを戒めるように表情を引き締め、木刀を左耳の上の辺りに構えた。
娼館プッシー・キャットの一室。
その娼館においては、7番目という中途半端な人気のソフィの前に現れたのは、時々フラリと現れる、少し影のある冒険者の無口な青年だった。
だいたいにおいて彼は、夕方にやってくると夕方から朝にかけての自らの料金を払い自分をゆっくりと何度か抱いて帰っていく。チップはいつも多めだ。
一度、娼館の主に聞いたところ、彼はどうやら凄腕の冒険者らしい。時々しか現れない理由は、お金の有無ではなくて、単純にこの街を時々しか利用しないためのようだった。
自由に色々な街を行き来出来る冒険者という職業と彼を、ソフィは羨ましく思った。
娼婦に自由はない。幼少の頃に、家が貧しかったせいか売られて、この街にやってきた。そのため、5歳の頃からここで働いている。ゆえに彼女は、この街と、生まれ育った村しか殆ど知らない。
最初は、掃除や洗濯や料理の雑用が殆どだったが、初潮を迎えると、客をとるようになった。13歳の頃だった。嫌なことも沢山あったが、料理を作るのが楽しくて、今でも時々、娼館の主に頼んで娼婦達の料理を全員分準備したりしている。
評判もよかった。一昨年流行り病で亡くなった先輩の娼婦には、「ソフィちゃん。いつか食堂でもやりなさいよ」と言ってもらった。皆、それに同調して「うん。絶対うまくいくって」といって、捲くし立てていた。でも、皆分かっているのだ。それは出来るかもしれないが、それこそ遠くから針の穴を通すように難しいことを。
このペースならば借金を返し終えるのは、20代の後半になる。そこから、この仕事で食堂の資金を稼ごうとすれば、もう30代の半ばに手が届くだろう。もう人気も落ちている。何より、娼婦は病気になりやすく、軽い病気であったなら医者も呼んでもらえるが、重い病気であったらもう見捨てられる。娼館の主は冷たい訳ではないし、どちらかといえば暖かいといった部類には入るだろうが、それでも彼も商売なのだ。大きい損を出すくらいなら、自分たちは見捨てられる。
運よく、食堂の主や食堂を開きたい人と出会えれば、話も別だが、それは難しい。13~18歳位までは、そんなことも夢想したものだが、20歳を過ぎると、もうそんな夢も見なくなる。それでも、そんなことを夢見てしまうのは、この場所が男も女も夢を見る場所だったからなのかもしれない。
その日は珍しく昼間に現れた青年の肩に首をもたげながら、ソフィはそんなことを考えた。
青年に抱かれるのは嫌いではなかった。だいたいの男は、短い時間の間に何度も求めてくるものだし、実際に何度も果てていく。だが、青年はゆっくりと時間を使い、やさしくしてくれる。
実際問題として、高ランクの冒険者は娼婦にとって優良物件だったりする。安定性の低い職業ではあるが、見返りも大きく、またよく利用しているせいか娼婦という職業に対する差別意識も少ない。貴族や商人の妾というパターン以上に、冒険者の結婚相手という方が娼婦の未来としては堅実なよくあるパターンであり、いい条件でもあった。冒険者の妻になれれば、家庭が持てる。自分にも家庭を持つ、という望みが無い訳ではない。そして、それがこの青年ならば、という思いもないといえば、嘘になる。
「私ね」
ソフィはふと自分の夢を口にする。それは虫の報せなのかもしれなかった。
「いつか、食堂をするのが夢なの」
青年は無言で彼女を見る。彼女の手入れの行き届いた白い指が、青年の胸をやさしく、少し挑発するようになでる。
「まぁ、出来るかはわからないけどね」
そういって彼女は笑う。
青年の静かな黒い瞳が彼女を捉える。
青年はソフィの髪をやさしくなでると、彼女をどかせ、魔法で暖めたお湯で濡らした布で自分の体を拭い始めた。
ソフィは小さいため息をついて、「もう帰るの?」とたずねた。
自分でも驚くほど乾いて、硬い声だった。
「ああ」
青年は答え、青年の瞳が自らを捉える。静かな、深みのある黒だった。
ソフィは青年の着替える姿をやや憂いの見える視線でぼんやりと眺めた。
青年は着替えを終えると、
「朝までゆっくりするといい。チップは机の上に置いておく」
という言葉を残して部屋から出て行った。ソフィは青年の背をぼんやりと見送ると、枕に顔を落とし、ややあって、天井を見上げた。
「夢の話なんてするんじゃなかったな」
そんな呟きが漏れる。もう少しここにいて欲しかった。もう一回でいいからゆっくりとやさしく抱いて欲しかった。それが彼女の慎ましやかな願いであった。
何となくではあったが、彼がもう二度とここには現れないような気がした。もしかしたら、女が出来たのかもしれないし、仕事の関係で物理的にこの街にはこれなくなったのかもしれない。
嫉妬にも悲哀にも似た感情が彼女の中をゆっくりと闊歩する。それを堪えるように、あるいは、目を逸らすように、彼女はゆっくりと目を閉じ、夢の中に入っていった。
堪えること、目を逸らすことには慣れているのだ。
いや、慣れなければやっていけない職業なのだ。
目を覚ますと、部屋の中は既に暗くなっていた。
ぼんやりと、月明かりが青白く照らしている窓の方を見ると、窓の傍にある机の上にやや大きな麻で出来た袋が置かれていることに気が付いた。気だるげにベッドから抜け出た彼女は何の気なしに、それを全て机の上に出した。
じゃらじゃらと沢山の硬貨の音がした。銀貨かな?相変わらず気前がいい、と思いながらも、その硬貨を一枚手に取り、月明かりに照らしてみる。月の淡い光を受けながら、その硬貨がやさしく金色に輝いているように見えた。彼女は慌てて魔法で部屋に明かりを灯した。その、彼女の目に飛び込んできたのは、机の上に乱雑にばら撒かれた大量の金貨だった。それはぱっとみただけでも、彼女の五年分の稼ぎにも匹敵する額のように見えた。彼女は呆然とその場に立ち尽くし、考え直したように明かりを消すと、ベットの中にのそのそと戻っていた。
二年後、借金の返済と貯蓄を終えた彼女は、生まれた辺境に戻り、領主の住む街で「トウゴ」という食堂を始めるのだが、それはまた別の物語である。
貨幣価値
白銀貨 100万G 100万円程度
金貨 1万G 1万円程度
大銀貨 5000G 5000円程度
銀貨 1000G 1000円程度
大銅貨 500G 500円程度
銅貨 100G 100円程度
大鉄貨 50G 50円程度
鉄貨 10G 10円程度
物価は日本の約10分の1くらいです。