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青年は顔についた血を、黒い布で拭い。小さく息をついた。
その静謐ともいえるような姿を両の眼から眺めていると、ふいにエルザの眼から涙が一雫流れた。その雫が茶色い地面に落ち、小さなシミをつくる。一雫涙が流れると、あとは洪水のように彼女の瞳からは涙が溢れた。
自らが生き残った安堵と、父と母を失った悲しみ、無力な自分への悔しさ、おそらくはこのような命令を与えたであろう王国に対する怒り。年頃の少女が涙を流すには充分な理由が揃っている。
青年は澄んだ瞳で、エルザを眺めていた。その瞳は騎士を切り伏した時と全く同じような瞳だった。
青年はエルザをしばし眺めていると、ややあって後ろを向き、その場から離れようとする。それに気が付いたエルザは慌てて、声を上げた。
「あのっ」
慌てたせいか、少し裏返った声を気にする余裕は少女にはない。彼女は必死だった。追っ手はまだいるかもしれないのだ。カオスともいえるような感情の渦の中にありながらも、ほんの少しの冷静さが彼女に声をあげさせた。
青年は立ち止まり、振り返る。
彼女は、自らの涙を拭い、なんとか動揺を抑えると、
「ありがとうございました」
と、なんとか搾り出すようにいった。
「礼をする必要はない」
青年はそう短く答えた。
確かに、彼にエルザを救う気はなかった。騎士を殺したのも、相手が剣を抜いたからであり、騎士を1人切ったのなら全員切らねば自らが狙われる可能性があったからという理由に過ぎない。それが、彼のルールであり、彼の生き方だった。
「では」
そういうと彼は、もう用はないとばかりに後ろを向いて、また去ろうとする。
エルザは自らの心をなんとか形だけでも落ち着けて、今度こそ力を込めて声をあげる。
「お待ちください」
青年は立ち止まり、またふりかえる。その瞳には、少しの訝しさが宿っている。が、声を出す気はないらしい。
エルザは意を決して、声を出す。
「見たところ、相当な剣の腕のお方とお見受けしました。不躾なことではありますが、わたくしに是非、その剣を御教授願えないでしょうか」
少女の出す声としては、力のこもった声だった。元々、凛とした印象を与える声の彼女であったが、肚に力を込めて声を出していたせいか、それは雪の中から顔を出した新芽のような生命力が感じられた。
彼女が身に纏っていたフリフリの白とピンクのドレスは、すでに土に汚れ見る影もない。彼女が誇りにしている、毎朝母のお手製で仕立てられたくるくると巻かれた美しくセットされた髪も、今では所々ほつれからまり、ぼさぼさになっている。そのような姿で凛とした印象を与える彼女は、見様によっては滑稽でもあったが、そう見えないだけの力が彼女の一言一言には宿っているように思える。
一瞬、青年の瞳に好奇心と侮蔑の色が写る。が、それも直ぐに消えた。
沈黙が流れた。青年は、真意を探るように少女をその澄んだ瞳で見た。彼が何を考えているのかは、エルザには分からない。恐怖が彼女の背筋を震わせようとする。だが、それを表に出すようなことはしない。青年にとって自分は路傍の石に過ぎない。切ろうと思えば、切り殺されてしまう。
少し前の自分であれば、恐怖を感じることはなかったかもしれない。だが、今の自分は、公爵令嬢のエルザではない。ただの少女という脆弱な存在だ。身一つで、弱者が強者の前に立つのは恐怖という感情が常に付き纏う。だがそれでも、彼女はそれを気力でねじ伏せる。自らの意志で、それを見せてはいけないという直感が彼女にそうさせた。
「なぜだ?」
青年は端的に、しかし、はっきりとそういった。
彼女に迷いが生まれる。理由は、青年の発言が余りにも端的だったからである。彼が尋ねた真意は、なぜ自分がお前に剣を教えなければいけないのか?なのか、なぜ、剣を覚えたいのか?なのかがわからなかったからだ。だが、彼女は青年の瞳に、好奇心と似た感情が宿っていることに気が付く。それは、一つの希望である。だが、それにすがることしか今の彼女に選択できることはない。そして、意を決したように答えを出す。
「わたくしは、元ロッセンハイム公爵家長女、エルザ・ロッセンハイムと申します。わたくしの父と母は先程王国の凶刃によって倒れました。我が家は、遠からず取り潰しとなるでしょう。ですから、今のわたくしは、エルザ・ロッセンハイムではなく、ただのエルザです。わたくしはどんな理由があろうと、父と母を殺した王国を許すことができません。いつかこの手で復讐をと、思っております。ですが、わたくしには力がありません。わたくしから、公爵令嬢という看板を取り外せば、ただの1人の無力な女に過ぎませんから。ですが、だからこそ、一人の女として、父と母の娘として、一人の人間として、わたくしは王国に復讐がしたいのです。ですから、どうかわたくしにその剣を御教授願えないでしょうか」
ぼろぼろの姿でペコリと一礼する彼女の凛とした瞳には、憤怒と憎悪が宿っている。
青年は、一瞬何かを懐かしむように目を細める。その瞳には、もう侮蔑も好奇心もやどっていなかった。そこにあるのは、郷愁と慈しみであった。
「王国を敵に回すか」
青年がいう。
「はい。ですが、わたくしが復讐したいのは、この命令を出した王家と大臣たちのみです」
エルザは答える。
「だが、その道にはいく千もの無関係なものの死がある」
青年はいう。
「覚悟の上です」
エルザは答える。
青年は、エルザの覚悟を図るようにじっと彼女の両の眼をみる。そして、口元を歪め小さく笑った。
「冥府魔道を行くか」
それは呟きだった。しかし、エルザの耳にそれは届いた。彼女は小さく頷く。
一瞬、森の木々の間から青年と少女の間に太陽の光がさす。ぼろぼろの少女と向かい合う黒尽くめの青年。その光景はまるで古の物語に登場する一枚の美しい挿絵のような神々しさがあった。
男は、小刀をエルザに投げ渡すと、
「今日より師匠と呼べ」
といった。
慌てて、小刀を受け取ったエルザは、
「ありがとうございます。師匠」
といった。
「まずは、その小刀で、長い髪を切れ。その髪は邪魔だ」
「はい」
短く答えると、彼女は鞘から刀を抜くと、躊躇なく自らの誇りともいえる髪の毛を小刀で切り落とした。赤いぐるぐると巻かれた残骸が、地面に落ちる。
エルザが髪を切り終えると、青年は、
「髪を燃やしておけ」
といった。髪が短くなったことを知られないためだろう。
「ファイア」
と彼女は呪文を唱える。すると、その赤い残骸が、深紅に燃えがる。あたりに、嫌な匂いが立ち込める。それは、エルザ・ロッセンハイムという公爵令嬢の葬送だったのかもしれない。
「行くぞ」
そういうと青年は、歩き出す。エルザもその姿を追う。彼女は、短く振り向くと、小さい声で、「ありがとうございました。ご冥福を」と呟き、また青年の後を追う。
「あの、師匠名前を伺ってもよろしいでしょうか」
少女は、青年の背中を追いながら、尋ねる。
青年は短く答える。
「トウゴだ」
やがて、冷たいが雨がしとしとと降りはじめる。時折、冷たい雨が木の葉に当たりピッチャンと音を立てる。それは、やがて全ての物事を洗い流すように、大きなザーという音に変わり、世界を塗りつぶしていく。だが、さしもの強く冷たい雨も、彼女の感情までは塗りつぶすことも、洗い流すこともできなかったのだった。