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元公爵令嬢、エルザ・ロッセンハイムがその男に出会ったのは不幸な出来事が原因であり、また幸運な偶然からでもあった。
彼女は11歳から12歳になったその誕生日の日に、婚約者であった王子から、いわゆる婚約破棄をされたのである。元々、ただの貴族としては発言力が強過ぎた公爵家の力を弱めたかった王の思惑と、口うるさく、事あるごとに執政者としての在り方を注意し続けるエルザを邪魔に思った王子の思惑が重なった出来事だった。
エルザは王子に糾弾された。理由は、彼女が平民であるリリアを、エルザが公爵家の権力を使って虐げたというのが理由だ。ロッセンハイム公爵家に対して、王家から長女であるエルザの廃嫡が厳命された。当然、一人娘であるエルザの廃嫡は、ロッセンハイム公爵としても、簡単に受け入れられるものではない。
その廃嫡という沙汰に対して、エルザの父は猛然と王へ抗議した。
エルザの父の怒りが混じった抗議は、王を恐れさせた。ロッセンハイム公爵領は広い。クライン王国の国土の8分の1を保有しているのである。もし、その公爵領が、反旗をひるがえして独立、あるいは、隣国であり敵国でもあるペルシ連邦へと寝返ったならば、王国の混乱は凄まじいこととなる。王は、事あるごとに国是に口を出す公爵の発言権を弱めることのみを考えていた。だから、その時の王には公爵から領地を奪うことも、爵位を落とすことも考えていなかった。娘の不始末によって、ロッセンハイム公爵の発言権が弱まることのみが目的だったのである。だが、公爵は娘への糾弾も、廃嫡も許さなかった。公爵にとって、しっかりとした考え方を持ち、常に誇り高く、貴族としての矜持を大切にする娘は、愛すべき、そして、誇るべき存在だったのだ。
決定を覆さない王に対して、ロッセンハイム公爵は決定が覆らないことを鑑みて、ひとまず自ら妻と娘を連れ、ロッセンハイム領に帰ることにしたのだった。
しかし、その判断が裏目に出る。王は公爵が領地に戻るのを、反乱のためだと判断して、王国騎士を暗殺に向かわせたのである。
時は現在に至る。
エルザは全力で森の中を走っていた。いや、全力で追う者から逃げていたのだった。
彼女のトレードマークである深紅の縦ロールが揺れる。その縦ロールを、フルアーマープレートを着た男たちが追う。今、彼女の心中を表現するのであれば、憤激・憎悪・悲哀・恐怖、これらがごちゃまぜにされたカオスのような心持、といったところだろうか。
父が殺された。母も殺された。
死んだ場面を目撃していた訳ではないが、父と母は自分を逃がすためにあの場に残って殿を行っていた。生き残っている確立は非常に低い。というよりも、それは絶望的なものだった。彼女は少女と呼ぶに相応しい年齢ではあったが、少女と呼ぶには余りに聡くもあった。
彼女は孤独だった。彼女は自らの死を恐怖した。彼女は父と母を殺したものを憎んだ。彼女は世界の理不尽さに怒った。
エルザと男たちとの距離が縮まる。彼女の方が身軽だとはいえ、エルザの肉体は普通の女の子と同じものだった。常に鍛えている男たちとの差は明確である。
やがて、男たちに追い付かれ、彼女の深紅の縦ロールを掴まれ、力任せに転ばされる。
「ヤッッ」
乾いた叫び声が響いた。エルザは転ばされ、顔をあげて男たちを睨む。憎悪と憤激と恐怖に彩られた彼女の視線が、男たちを捉える。整えられていた髪を振り乱され、なおも男たちを睨む彼女の視線に男たちは一瞬躊躇するが、「すまない」と小さく呟いた1人の男が剣を振り上げる。
流石の彼女も、目を閉じて、自らに迫る現実から目を背けようする。が、次の瞬間、ガサガサという乾いた木々の擦れ合う音が森の中に響いた。
兵士の男たちは動きを止め、音がした方向、具体的には自分たちの後ろに振り向く、そこに一人の青年が立っていた。黒い外套を羽織った、少し痩せ、どこか陰のある印象を受ける青年だった。
エルザも来るべき現実が一向に来ないのをいぶかしみ目を開ける。彼女もその青年を見た。黒い目と、黒い髪の青年だった。
しばしの沈黙。
「去れ」
騎士たちの中で、一番年長であろう男が言う。
黒い青年は、無言で背を向け、歩き出す。
「しかし、隊長。目撃者は処分せねば」
その声が聞こえた瞬間、男は立ち止まり、振り返る。熱くなる騎士たち。隊長と呼ばれた男は少し困った心持になった。これだけ、異常な光景を見たにもかかわらず、青年の目には感情の揺れが全くといっていいほど感じられなかった。相当な修羅場を若くして何度も潜り抜けている青年だと、その男は思っていたからだ。が、若い騎士の言葉にも無理はなかった。目撃者は処分せよ、といった言明がされていたからである。公爵領に戻る途中で、賊により公爵一家は殺された。それが、今回の件で王と宰相が準備したシナリオだったのだ。
「助けてください!」
エルザの叫び声にも似た声が響く。エルザは12歳の少女であったが、年齢よりも賢い女であった。だからこそ、先程までの憎悪と憤激と恐怖に彩られた瞳に、希望という光がさす。
相変わらず青年の瞳に、揺れはない。静かな湖畔のような瞳だった。
隊長が迷っている間に、青年に目線を向けたまま若い騎士が剣を抜いた。青年の眉がピクリと震える。
「抜いたな」
少し乾いた低い声が響く。キンッという乾いた金属音が響いた。青年はゆっくりと、剣を抜く。瞬間、ギャアギャアという鳥の鳴き声と、鳥達が一斉に飛び立つ羽ばたきの音が森の中に響いた。
見慣れぬ剣だった。その剣は、片方にしか刃がなく、その形状は直線ではなく、ゆるやかな曲線を描いている。そして、それは剣よりも分厚い。
「刀か。それにしては、厚い」
隊長と呼ばれている男が呟く。
「よく知ってるな」
青年はそういうと、その刀を右側の耳の上あたりに構えた。瞬間、男の姿が消え、剣を抜いていた若い騎士の体がフルプレートごと真っ二つに穿たれる。
おそらく、隊長と呼ばれていた男のみが、その青年が何をしたのかを認識できた。逆に、他の誰もが、何をしたのかは認識することができなかったともいえる。青年の行動は刀を構えると走り出し、相手に向かって袈裟懸けに刀を振り抜いたに過ぎない。ただ、それが異常に速かっただけである。隊長と呼ばれていた男が一連の動作をかろうじて眼で追えたのは長年真面目に鍛錬してきた賜物だろう。
「待て、戦う気はない」
隊長とよばれている男の慌てた声が響いた。青年は自らが真っ二つ穿った若い騎士を見下ろしもせずに、ゆっくりと、声をかけられた方向に目を向けた。
「もう、遅い」
騎士を1人切った時点で、もうその騎士たちを見逃がすという選択肢はない。すでに、彼は罪人なのだ。見逃がせば、狙われる確率が高い。
そのまま、その場にいた騎士たち6人は、全員一刀の下に下される。後には、その動きに全く反応できないまま縦に真っ二つに穿たれた男たちの死体と、青年の動きに唯一反応できた男の持っていた半ばから見事に断たれ、地面に突き刺さった剣だけが残った。
エルザはその光景を呆然と眺めた。実は、隊長と呼ばれていた男は、この国でも10本の指に入るとされている強者であった。そのことを知っていたエルザであったが、それを一振りで切り殺した腕前は相当のものだと思われた。
青年は刀を一度振り血糊を落とすと、白い紙でその刀と呼ばれていた武器を拭う。白い紙が深紅に染まっていく。そして、その紙を投げ捨てると、緩慢な仕草で刀を腰につけている木の筒の中に仕舞う。乾いたキンッという音が響いた。その仕草はどこか神々しくエルザの目に映ったのだった。