介錯人 2
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↑の小説の流れを汲む短編です。
「…波賀さん」
そう名前を呼ばれて、震えていた手が止まりハッとする壮年の男性の手には、
一本のペンと紙切れが一枚あった。
その紙に書かれているのは介錯を行う為の要件と同意に関する注意事項。
そして、介錯に関する要件への委任をする為の署名欄…
彼の手は最後の署名欄まで来て、完全に止まっていた。
「今ならまだ、介錯を行わないという選択肢も…」
「…い、いえ……。」
ちらり、とその男性が視線を送るその先にいるのは、彼の母親。
波賀しずか…80歳。
5年前にアルツハイマー型認知症を発症し、家族の懸命の介護も虚しく
彼女は独り言をぶつぶつとつぶやきながら徘徊をするようになってしまった。
ほんの数年前まで自身の身の回りの全てを自分で行っていた彼女だが、
今となっては家族の助けなしでは生活などできるものではない。
母一人、子一人の家庭…最初の内は、介護生活もやっていけると思った。
しかし、時が経つにつれ進行していく病状。
終わりの見えない介護生活。減り続ける資金…やがてついに、限界を迎えた。
もちろん利用できるものや制度は全て利用した。
…施設へ入れる、という選択肢をたどることもできないことはなかったが、
母親がまだ健康であった頃、もし仮に自分が人の手を借りずして生活できなくなったとしても
施設に入って、他人に尻を拭ってもらってまで生きていたくはない…という会話をしていたこともあり、
その選択肢は母親が病気にかかった時点で、なかった。
同時に、息子である彼は、母親がとてもプライドの高い人であることを誰よりもよく知っていた。
そんな彼女の意向を汲めば、自分が最後のその時まで面倒を見続けることができたなら
それが最善の選択肢であったはずなのだが…それも、適いそうになかった。
…もはや彼と彼女が縋りつけるものは何も無かった。
とうとう彼は、介錯人へ…母親であるしずかに対する介錯を依頼することになった。
だが、たった一枚の紙切れが決める母親の命の行方。
その最後のひと押しである署名は彼にとって容易なことではない。
たった数年で、まるで別人のように変わり果ててしまった母親の姿を横目で見る彼の眼には、
涙が浮かんでいた。
走馬灯のように蘇る幸せな日々。平穏な日常。何もない日々の中にこそあった幸せな時間。
まるで別人のように変わり果ててしまったとしても、彼の母親は彼女だけなのだ。
「波賀さん…やっぱり、やめましょうか…?」
「いえ……す、すみません…。今、すぐ…すぐ、署名を…しますので…」
止まらない涙、震える手。それは普通の親と子であれば当然であろう。
「もし仮に署名なされるとしても、今すぐである必要はありません…。日を改めましょう。
決して後悔されることのないよう、結論を急がないでくださいね…。」
「すみません…」
「一度、お母様と一緒にお出かけなどされてみては…。」
介錯人は、紙幣を懐から取り出すと目の前の男へ差し出した。
「受け取れませんよ…」
「いいえ。このお金で、是非良いものを食べて。
そして…思い出を作ってください。」
バタン。
ドアが閉まると、部屋には母親の独り言だけがぶつぶつと響いていた。
家に二人きり、というのは今までにも普通にあった光景。
母親が独り言を呟いているのも、最近では普通になってきていた光景…。
ただ一つ、昨日までとは違っていたのは…テーブルの上に置かれた紙切れ。
その紙切れの存在だけが、今までにも見た光景を全く違ったもののように見せていた…。
「母さん…。」
気がつけば、先ほど介錯人という職業の少女から手渡された紙幣を手に呟いていた。
「はい」
これまでも、辛うじて呼びかけに対して応えることはできていた。
ただ、それが誰からの呼びかけなのか。目の前の人は誰なのかまでは分からないようだった。
そんな母親に、息子は呼びかける。
「ごめんね…母さん。」
「はい」
もうお金もないし、二人で生きていくの難しいんだ。
ごめん…ごめん……俺がもっと頑張っていれば。
こんなことにはなってなかったかもしれないのに
…
もっと頑張ってお金貯めて、貯金いっぱいあったら
もっと違ってたのに。
何を言っているのか分からない、といった様子の母に
それでも話しかける。気がつけば涙が頬を伝い、
声には嗚咽が混じっていた。
なんて情けない息子だろうか。
もっと自分がしっかりした息子だったら。
もっと頑張っていたなら。こんな選択肢以外にも道はあったのに。
後悔してもしきれない、もう二度と返ってはこない時間。
あったかもしれない、今とは違った今。全ては自分のせいだという自責の念は尽きない。
「こんな子供で、本当にごめんね…」
「しょうがないね」
そう一言発した母親の目には、涙が滲んでいた。
母の涙を見たのは何年ぶりだろう。
…自身が認知症であると診断された、あの日以来だろうか…。
「母さん…」
「ごめんな…」
自分のせいで息子が泣いていると思ったのだろうか。
母親はそう言うと、泣きだしてしまった。
できることなら最後のその時まで面倒を見たかった息子。
女手一つで息子を育て、そして息子に支えられてきた母親はいつしか、
息子に支えられるようになり…今となっては支えなしでは生きられなくなってしまった。
己の無力さを痛感する息子。そんな息子に申し訳なさでいっぱいの母親。
ただただ、泣いた。泣くことしかできなかった。
笑いもあり、喧嘩もあった親子ふたりの家は今、悲しみだけで満ちていた。
翌日。
改まってどこかへ出かける、というのは本当に久しぶりだった。
近場へ買い物へ行くとしても母親は一緒ではなかった。
その買い物ですらも、最近は頻度が減りつつあった…
そんな自分たちの置かれた境遇を、人に対して介錯を行う彼女は察したのだ。
そう思うと惨めさを感じずともいられなかったが、
今はわずかな惨めさよりも、使うことを許された紙幣がもたらしてくれた喜びの方が大きい。
母親は綺麗な服を身にまとい、化粧をした。
した、とはいってもしたのは息子である。
息子もまた、よそ行きといった出で立ちで二人して出かける。
二人で何度も通った道を。
二人で何度も行った、近所のスーパーマーケットへ。
二人で何度も食事した、何の変哲もないファミリーレストランで。
時には車で送り迎えをした、かつての母親の職場を。
思い出をひとつひとつ噛みしめるように。
昔のことは覚えている母親と。
まるで昔のように。
久しぶりに心から笑った。母もまた、笑っていた。
本当に穏やかな一日。
本当に幸せな一日。
その日は母と、布団を並べて二人で眠った。
本当によく眠れた。母もまた、久しぶりによく眠っていた。
初めて介錯人がその家を訪れてから2日。
介錯人は再び、その家を訪れていた。
先日は一枚だけだった紙切れが、今日は二枚に増えていた。
これまでずっと一緒に生きてきた母と息子。
息子は母親と共に、自身もまた介錯をしてほしいと申し出たのだ。
本当にそれでいいのですか…?と問う介錯人。
「あなたのお母様にとっては、息子であるあなたには生きて、幸せになってほしいはずでは。
これは余計なことであって、私情からの意見ですが…。」
母親になったこともない介錯人であるが、きっと自分が母親であったなら、
という仮定で思わず私情から意見してしまう。
それほどまでに、この息子の選択はズレていると感じたのだ。
「私はこれまで、母と共に生きてきました。
母が健康なまま長生きしてくれれば、最期のその時まで面倒を見るつもりでした…」
でも、それは叶わなかった。
後悔ばかりの人生で、今も後悔していることがいっぱいあります。
そう続ける息子の目には、また涙が滲んでいた。
「でも、この母親のもとに産まれてきたことだけは後悔してません。
そして、私の生きる意味が失われることで、私も共に命を断つことにも後悔はしません。」
いつか再び、母のもとに産まれてくることができたなら、その時は…
今とは違った今を目指して頑張ろうと思います。
息子の決意と覚悟に、これ以上の説得は野暮というものだった。
生きる意味…いわゆる”いきがい”というやつだろうか。
そんなものは生きている内に探せばいいだとか、生きてさえいれば生きる意味が見つかるだとか、
最早そんな綺麗事が通用する段階では無いのだ。
むしろ、そういう生き方も、そういう最後もあるものなのだと感服した。
十人十色。まさにその言葉の意味を実感せざるを得なかった。
それに、”死にたい”という強い想いを拒むこと、否定することは、
介錯人としての立場上あってはならない。
分かりました。と、漏れなく記入された書類を預かった介錯人は、
それでは手続きに入らせていただきます。とだけ二人に伝え…
母親と息子を車へと案内する。
介錯を行う為の施設へと向かう車中。
母親のか細い手を、息子は握って離さなかった。
母親もまた、息子の手を握って離さなかった。
そして、その翌日。
母親と息子は、介錯によってこの世界から旅立った。
次の人生でもまた、親子になれるといいですね…
でも、そもそも来世というものはあるのかな…。
介錯人はそんなことを考えながら、安らかに眠る二人の亡骸を手厚く葬る。
仮に来世があるとしたなら、と前置きした上で
この親子二人が、来世で幸せな結末を迎えられますようにと、願いながら…。