94 いつでも電波は受信していない。
「えへへへ、パフェ食べてました」
口元に甘い香りをプンプンさせて、桜木さんがファミレス店内から出てきた。
冴草契が『チッ』と舌打ちをしながら後ろをついてくる。どうやら、桜木さんとの二人っきりの時間を邪魔されてお冠のようだ。しかし、それに続くように、不満たらたらな少女が一人。
「花梨が必死に戦ってる最中に、パフェ食べてるとかズルすぎるんだけどー!」
ぶーぶーと口先を尖らせてのブーイング。ケーキの時もそうだったが、どうやら花梨は甘い物に目がないようだ。
「しょうがないな、パフェなら今度兄ちゃんが奢ってやるから機嫌直せ」
「え? ホント? お兄ちゃんパフェ奢ってくれるの? 一番でっかいやつだよ?」
「あぁ、でっかいやつ奢ってやるよ」
「わぁい、お兄ちゃん大好きー」
花梨は勢いをつけてジャンプして、向日斑の腕を掴むと、そのまま鉄棒のように一回転してみせた。そして着地を決めると、今度は背後から向日斑の大きな背中にピョンと飛び乗った。
向日斑の背中に押しつぶされる大きなオッパイ。ああ、出来ることならば、向日斑の背中に生まれ変わりたい……。
ファミレスの中にいて、事の状況を知らない桜木さんと冴草契は、この二人を見ても仲の良い兄妹だとしか思わないだろう。しかしてその実態は『ガチでお兄ちゃん愛している妹』なのだ。
「しかし、なんで二人ともファミレスの中に居たんだ?」
「それはその……。ちーちゃんが……」
助けを求めるように、桜木さんは冴草契に目配せする。
「姫に、あんな喧嘩なんて野蛮な行為を見せるわけ無いでしょ! 姫はあんたらと違って、平和主義者なの!」
まるで我が子を守る教育ママのような口調。銀縁眼鏡とザーマス口調がとても似合いそうだ。
冴草契は騎士として、守るべき姫を、危険が及ぶ場所には置きたくないのだろう。あと、二人っきりになりたかったというのもあるのだろうけれど……。
「何はともあれ、一件落着かな?」
と、口に出してみたものの。一件どころか、何一つとして落着などしていないのである。
花梨の衝撃発言を聞き。忍者の象さんをアレしてしまい。何故かセレスのスカートの中に住み。雌ゴリラは金剛院家に……。
問題は増えはすれども、解決したことは一つもないのだ。
なのに胸がわくわくするのは何故だろう……。
俺は最近、トラブルを楽しめるようになってきている。
「なにニヤニヤしてんだ?」
「なんでもねぇよ」
いや、なんでもない日は、もう無いのだ。
いつだって、何処からともなくトラブルはやってきて、俺の日常を騒がしくさせてくれる。
夢に描いたファンタジーの世界はなくとも、冒険は日常に大量に転がっているのだ。
夕日が山に沈んでいく。
「ほら見ろよ、夕日が綺麗じゃねえか!」
『俺たちの日常はまだ始まったばかりだぜ!』
完。
※※※※※
で、終わるわけがない。
日常だからこそ、いつまでも続いていくのだ。
場所は学校、そしてお昼休み。
母親が寝坊をしたせいでお弁当のない俺は、仕方なく混雑極まりない購買に向かった。だが、なんとか惣菜パンを手に入れることに成功したのだが、なんということでしょうー、俺の飲みたかった特濃ミルクコーヒーが売り切れているではないか……。
今日の俺はすでに特濃ミルクコーヒー気分になっている。他のものを飲むなんて考えられない。今の俺にとって、特濃ミルクコーヒー以外の飲み物は水となんらかわりはないのだ!
「こうなったら……」
俺は百円玉を握りしめて、一階の渡り廊下へと向かう。
そう、桜木姫華と初めてであった自販機。
俺の日常物語のスタートラインに。
もしかしたら、なんて気分で俺は向かった。
その予感は的中した。
渡り廊下の先には、桜木さんがあの時と全く同じように、胸の前で手を組んで、電波を送っている。
色んな事があって、色んな一面を知っても、桜木さんが妖精のような存在であることに変わりはなかった。少し天然で、少し恥ずかしがり屋で、とっても可愛い動物が大好きな、そんな妖精さんだ。
声をかけようかと思ったが、この場合はこの電波を受信したってことにして、喋りかけるのが正しいのだろうか? 桜木さんの電波を受信できる設定になっている俺としては、どう話しかければ良いのか悩みどころだった。
俺が言葉を探している間に、桜木さんは電波を送信し終わったのか、ゆっくりと目を開ける。
そして、俺と目があってしまう。
いまだに俺の役立たずな脳みそは的確な言葉を弾き出してくれない。
「よ、よう」
俺は手を上げて、ありきたりな言葉を投げかけた。
「こんにちは、神住さん」
ゆったりとした笑顔、クルクルとしたくせ毛、穏やかな言葉。そう言えば、二人で会うのは、俺が自転車で迷子になった時以来だ。
「わたしね、もう大丈夫ですよ?」
「え、な、何が?」
咄嗟に答えてしまったが、今の答えはまずい。俺は桜木さんの電波を受信できるわけなのだから、何が大丈夫かわかっていなければならないのだ。
「だから、もういいんですよ。電波が聞こえるふりをしなくても」
「は? な、何を言って……」
何かが音を立てて崩れていく。
「気がついてましたよ。だって、神住さんは全部顔に出ちゃう人なんだもん。えへへっ。でもね、必死になってくれて、それだけで嬉しかった。もしかしたら、いつか本当にわたしの気持ちが通じるんじゃないかって思っちゃったりしてました」
「いや、あの、その、アレは、アレで、あのアレ?」
今まで確かにあった地面が、まるで地割れでも起こしたかのように消えてしまう。
「でも、もう大丈夫です。わたしには、ちーちゃんがついていてくれますから。今までだってね、本当はわかっていたんです。でも、わたしって、わがままだから……。でも、神住さんにはセレスさんがいますもんね。ホント、わたしってわがままですよね。えへへ」
言葉が震えている。あの時と同じ。俺にはじめて電波の事を話した、あのファミレスの時と同じ。違うのは、あの時は自分の気持を素直にぶつけようとしていた。今は、自分の気持を偽って苦しんでいるようにみえるのは気のせいだろうか。
「いや、待って……なに言っているのか本当にわからないんだけど……」
「セレスさんと仲良くしてあげてくださいね」
瞳に光るのは涙だろうか。笑っているのに泣いているのは、嬉し泣きなのだろうか。それとも、ゴミでも入ってしまっただけなのだろうか。わからない、今の俺にそんな思考能力はない。
「お、おい! 待てよ! なぁ!」
桜木さんが自分の教室に戻っていく。走って追いかければすぐに追いつく。教室に入る前に呼び止めて、電波は本当に受信できているんだって、嘘をつけばいい。そうすれば、今までと同じ関係が……。
一歩、また一歩と、桜木さんの姿が遠ざかっていく。
まだだ、まだ間に合う、まだ間に合うんだ。
俺の楽しい日常、その日常の中に、桜木さんはしっかりと根を下ろして、ずっしりとした存在感をもっているんだ。それが消えてしまう……。
どうすればいい。
時間はない。
考えている暇もない。
走って、呼び止めて……そして嘘をついて……。
失いかけて、初めて気がついた。俺を取り巻く環境ってやつが、どれだけ薄氷の上に作られたものだったのかを……。
俺が踏み出した足は、二歩ほど進んだところで止まってしまった。
桜木さんはもう教室の中へと戻ってしまっている。
「だ、大丈夫さ。俺が電波が受信できないってわかっても、きっと今と変わらない日常が待っているに決まってる。そう、それだけで人間関係が壊れたりなんて……」
そうさ、俺たちには《秘密結社FNP》だってあるんだ。
あれだけノリノリだった桜木さんが、こんなことで……。冴草契だって、なんだかんだ言って今の状況を楽しんでいるだろうし……。
俺は、足元が崩れ落ち宙ぶらりんになってしまった心の中を、大量の言葉で埋め尽くそうとした。
しかし、無重力の宇宙の中に放り出されたような不安感は拭えはしなかった。




