87 向日斑のファーストキス。
先日、動物園の檻の中で見たゴリラと、今俺の斜め前に居るゴリラ。距離からすれば、動物園の時のほうが近かったかもしれない。なのになんだこの圧倒的な威圧感は…‥。
檻に守られているという安心感が、これほどまでに動物の恐ろしさを緩和されてくれていたとは……知りたくなんてなかった……。
ゴリラは手の中にある飴玉を不思議そうな顔で見ていた。
ゴリラは大きかった。向日斑と同じくらい大きかった。
ゴリラは毛むくじゃらだった。向日斑以上に毛むくじゃらだった、もじゃっていた。
ゴリラはたくましい胸板と、丸太のような腕を持っていた。向日斑も人間離れした肉体だと思ったが、それを上回っていた。
鼻をつまみたくなるような獣臭と、緊迫した空気が周囲に立ち込められ、俺たちは身動き一つできないでいた。
動けばやられる……。そんな気がしてならなかったのだ。
身なが息を殺して、この場をどう乗り切るか思案していた時、頬をフグのように膨らませ、顔を真赤にして苦しそうにしている人物が居た……セレスだった。
「限界ですわ! わたくしこのような臭いに耐えられませんわ!」
どうやら、セレスはゴリラの臭いを嗅がないために、さっきから息を止めていたようで、遂に息が続かずに、ぷはぁ〜と大きく息を吐きだしたのだった。
それで終わってくれるならばまだ良かった。
セレスはツカツカとゴリラのもとに歩み寄り、説教を始めたのだった。
「あなたねも女性ならば、身だしなみというものにお気をつけなさい! そのような体臭では殿方に失礼だというものですわ!」
勿論、ゴリラがこちらの言葉の意味を理解しようはずもないのだが、どうやら罵倒されているということはわかってしまったようで……。
「ウホォー!」
雌ゴリラは腕をおおきく振りかぶって、セレスに向かい襲いかかったのだ。
周り風景がスローモーションに見える。振りかぶった腕が、コマ送りにようにセレスの身体に振り下ろされていく、止めなければ、どうにかしなければセレスの命が危ない。
今から動いても、セレスの盾になることも、ゴリラの動きを止めることも出来ない。嫌な光景が頭の中に浮かび上がる。吹き飛ぶセレス、血まみれになるセレス、動かなくなるセレス。
――ダメだ! 絶対にダメだ! どうにかしないと、俺が、俺がどうにかしないと! 俺の中に、隠された力があるならば、目覚めるのは今を置いて他にないんだぞ! だから……。
俺の中にある秘めた力は、都合よく目を覚ましてなどくれなかった。
眼前に悲劇が起こる、そう思った刹那。
それは空からやってきた。
街路樹から高速で舞い降りたそれは、セレスを抱きかかえるとすぐさま飛翔して、数メートル離れたところに着地したのだった。
そんなことをやってのけるのは誰か、そんなのわかっている!
「お嬢様、大丈夫でございますか?」
忍者だ! いや、あれ、ちょっと待て忍者じゃない! 今日は忍者装束ではないのだ。
「ありがとう、七桜璃。ゴリラは森の紳士だななんて言いますのに、意外と乱暴ですのね」
ゆっくりと地面にセレスをおろした忍者。
その出で立ちは……。
「七桜璃さん! 七桜璃さんじゃないですかーっ!」
向日斑がすぐさまに食いつく。
食いつきたくなるのも無理は無い、
忍者は、フリルをあしらえた黒のミニスカートに、ノースリーブの白いシャツという、ゴスロリサマーバージョンと変化していたのだ!
ミニスカートから伸びる真っ白な足に、足首までのソックス。
――舐めまわしたい……。
いかん、いかん、俺は何を考えているのだ。
横を見ると、向日斑の瞳が雄弁に語っていた。ペロペロしたいと!
それだけではない、ノースリーブゆえにあらわになる忍者の腋……。勿論、毛など一本も生えているはずはない、生えていてたまるものか! 少し汗ばんだ腋を……舐めまわしたい!!
横を見ると、向日斑の口元が雄弁に語っていた。もうベロンベロンしたいと!
俺と向日斑の視線に気がついたのか、忍者は脇を閉め、太もものあたりを手で隠してしまった。
それと同時に、俺の脳天に衝撃が走る。
「かーみーすーみーさーまー! 何をみていらっしゃうるのかしら……」
セレスの踵落としが俺の脳天に炸裂したのだ。うむ、セレスの足も悪くない……。
「お嬢様に狼藉を働いた、このゴリラは、ボクが何とかします!」
忍者はクナイを取り出して、ゴリラに向け構える。
ゴリラもその殺気を感じ取ったのか、低い唸り声を上げて威嚇をし、忍者を睨みつける。
今まさに一人と一匹の戦いが巻き起ころうとしたその時。
「七桜璃さぁん! 俺は、俺はもうぅぅぅ! 好きじゃァァァァ!」
ゴリラなど完全に無視で、忍者に向けて土煙を上げならば爆走するは、モチのロンで向日斑だった。こいつ、本当に忍者をペロペロする気だ……。
こうなってくると、対立の形式が変わってくる。忍者は、二匹を相手にしなければいけないのである。
「ってか、なんで忍者は寄りにもよって今日はあんな格好を……」
「わたくしがさせましたわ! 似合ってますでしょ? いつもの服装だと暑くて可愛そうだと思いましたので」
似合っている、可愛い、ペロペロしたい、と三拍子がそろっている。
この衣装をチョイスしたセレスに拍手を送りたいところだ。
「七桜璃さぁん!」
向日斑の突進と止める為に、七桜璃はクナイを向日斑の足元に向けて投げつける。向日斑の野生の反射神経が、そのクナイに反応して足を止める。
どうやら、周りの状況全てを無視して、無尽蔵のパワーを発揮するスーパーゴリラ人、スーパー向日斑状態にまでは達していないようだ。それだったならば、全身にクナイが突き刺さろうがなんだろうが、そんなものは無視して忍者をペロペロするに違いないからだ。
こうして、忍者を頂点として二等辺三角形のような形で、三人は対峙するのだった。
自体は膠着状態に陥るのかと思ったその刹那、予想外の動きを見せた。
ゴリラが、忍者ではなく向日斑に向かって攻撃を繰り出したのだ。
「ウホ?」
普段の向日斑ならば、野生のパワーで軽く避けてみせるところなのだが、忍者のみに全意識を集中させていた向日斑は、完全に不意をつかれてしまい反応することが出来なかった。
そしてその振り下ろされた腕は、無残に向日斑の身体を破壊……することなく、型を掴むとそのまま自分の方に引き寄せたのだ。
そして、両腕を向日斑の背中に回すと、熱烈に抱きしめたのだった。
「は……?」
「な、なんなんですの……」
そこで雌ゴリラの動きは終わりはしなかった。さらに、向日斑の顔を熱いまなざしで見つめると、あっけにとられている向日斑の唇をおのれの唇で塞いだのだった。
「ふ、フゴォォォォ!」
口をふさがれ、声にならない向日斑の絶叫が世界中に響き渡った。
それでも雌ゴリラは唇を離しはしない。さらに、舌を挿入して……。
「恐ろしい光景ですわ……」
「流石に向日斑が可哀想になってきた……」
「う、うわぁ……。キスしてるよぉ……」
桜木さんは、顔を手で隠しながらも、その指の隙間からキスシーンを興味津々の眼差しで見ていた。
「姫! 姫は見ちゃ駄目だから! 目が汚れるから!」
冴草契は慌てて桜木さんの目を、自分の手で完全に覆い隠した。
「ふざけんなぁ!」
叫び声と共に一陣の風が駆け抜けた。
それは風ではなく、一人の少女。
そう、花梨だ。花梨は地面を飛ぶようにかけると、その勢いを利用して雌ゴリラの背中に渾身の蹴りを放つ。通常の人間であるならば、数メートルは吹き飛ぶほどの威力の蹴りだったが、相手は人間ではない、雌ゴリラだ。打撃に対する耐久力は、人間のそれをはるかに上回っている。それでも、花梨の強烈な蹴りは、雌ゴリラの身体を大きく揺さぶった。
そして、その隙をついて、向日斑は雌ゴリラの腕の中から脱出することに成功する。
「ウボォォォ!」
雌ゴリラが吠えた。愛するものを奪われた怒りで吠えたのだ。
「大丈夫お兄ちゃん?」
花梨は、精神的ダメージによって朦朧としている向日斑のもとに駆け寄る。
「お、俺はもう駄目かもしれん……」
倒れかかる向日斑の身体を、花梨の細い腕が軽々と支えた。
向日斑は白目をむいて口から泡を吐いていた。ファーストキスを、雌ゴリラに奪われたのだ。しかも、自分の愛する人の目の前で……精神的ダメージは計り知れないことだろう。
「花梨のお兄ちゃんに、なんてことするんだこのゴリラ! 天が許しても、この花梨が許さないよ!」
花梨はどこぞの変身ヒーローのようにポーズを決める。
支えていた手を失った向日斑の身体は、そのままアスファルトに叩きつけられた。
ここに、花梨VS雌ゴリラをという、新たな戦いの火蓋が切って落とされたのだ。




