84 三歩進んで二歩下がる。
「の、喉渇いてないか?」
「へ?」
セレスの口元が文字通りへの字に曲がった。
「い、いやさぁ、喉とか渇いてないかなぁーって、ほら、そこに自動販売機あるし!」
俺はセレスの肩から手を離し、直ぐ目の前にある自動販売機を指さした。
「そ、そうですわね。ありますわね、自動販売機」
セレスは自動販売機に視線をやることもせずに『だからなんなんですの……』と言わんばかりの表情を俺にぶつけてきていた。
俺だって馬鹿じゃない。今言うべき言葉が何であるのか、セレスの求めている言葉が何であるのか、わかっている。わかっているけれど……それを口に出来るかどうかは別問題なのだ!
「セ、セレスなに飲む? 紅茶とかでいいのかな?」
「……」
セレスは答えなかった。
「よーし、俺はコーヒーにしようかなぁー」
「……」
セレスは答えなかった。
「神住様……。わたくしをからかって遊んでいるんですの?」
半分怒っていた。そして、半分泣いていた。口元を引き締め、奥歯を噛み締め、爪が突き刺さるほどに拳を握り、足元は震えていた。
ああ、勇気が必要なのは、俺だけだと思っていた。
そうじゃない。お互いが気持ちをぶつけるのだから、必至なのは、逃げ出したいのは、セレスも同じだったの。それなのに、俺は……自分だけが苦しんでいると、悩んでいると、恥ずかしいのだと、思ってしまっていた。
女の子はただ、告白を待っているだけの受け身などではなくて、そのための覚悟をちゃんとしているのだ。
いま、それがわかった。
俺は自動販売機のボタンを押す。二回押す。セレスの分の紅茶と、俺の分のコーヒーが落ちてくる。それを俺は掴むと、セレスに紅茶を手渡そうとした。
「……」
セレスは差し出した紅茶を掴みはしないで、俺の手に指を絡めた。紅茶の缶は俺の手を離れて地面に落ちていった。セレスの手は震えていた、汗をかいていた、熱を帯びていた。その熱が、セレスの手から俺の手に伝わっていく。身体が心が震えていく。
その振動と熱が、俺の心の中にある、壁の一つを壊してくれた。
俺はもう片方の手に持っているコーヒーから手を離す。コーヒーの缶は重力に従って地面に落ちていく。そしてその手をセレスに向ける。
恥ずかしい、照れくさい、死んでしまいたい、爆発してしまいそう。
痛いとか、苦しいとか、そんな痛覚ではないものが、俺の身体を充満させて、命を奪おうとしているように思えてならない。簡単な単語を伝えるだけで、人はこんなにも死にそうになってしまうものなのか……。
俺とセレスは再度向かい合う。
両手は繋がれたままだ。
もし、ここに誰かがやってきたら、俺たちの事をどう思うだろうか。
もし、ここに誰かがやってきたら、俺たちはこの手を離すだろうか。
きっと、この二人だけの時間は、あと数分しか持ちはしない。
だから、今しかない。
何が? 何を? どうして? 何のために? 意味があるの?
大量の疑問符が俺の頭を襲っては、逃走経路以外の道を塞ごうとする。けれど、俺は一人じゃない。セレスが導いてくれた。俺が進むべき道を……だから。
「セレス! 俺はお前のことが!」
「はい!」
遂に、俺は決心をして、あの二文字をセレスに告げる。
そして、二人は……。
その時だった
「神住さーん。キリンさん、すっご〜っく、首が長かったですよ~!」
「姫、恥かしいから! そういうこと叫びながら走らないのっ!」
休憩所に向かって、叫びながら走ってきたのは桜木さん。その後ろを、保護者のようについてくるのは冴草契だ。
《タイムオーバー》
どこからかそんな声が聞こえたような気がする。
俺とセレスは、大慌てで繋いでいた手を離すと、その手をテーブルの下に隠してしまう。
俺の手にはまだぬくもりが残っていた。
「神住さん、キリンさんの首の長さと、可愛さは比例しますよね!」
「そ、それは限度があるんじゃないのかなぁ……」
「ふむふむ。確かに、キリンさんの首が長すぎたら倒れちゃいますもんねー。可愛いどころじゃなくなっちゃう!」
桜木さんは、首が十メートルを超えたキリンを想像しては、眉を歪めて悩みだしてしまっていた。
「はぁ…‥。もう、どうして姫は、動物のことになるとそんなにパワーアップするの……。体力的にはわたしのほうがあるはずなのに……。わたしのほうが先にへばっちゃうとか……」
冴草契はまるで、桜木さんにパワーを吸われたかのように弱っていた。
今なら、俺が戦いを挑んでも勝てるかもしれない。
と、やってきた二人に目をやっている場合ではなかった。
セレスはといえば、あからさまに不機嫌な顔をして、人差し指同士をツンツンと突き合わせては、そっぽを向いていた。
俺は床に転がってしまった紅茶とコーヒーの缶を拾い上げると、シャツの袖でプルトップの部分を拭きとって、セレスに渡した。
セレスはいまだにふくれっ面だったが、それを受け取ってくれた。
「そう言えばー、お二人はここで何してたんですかー?」
桜木さんのなんの気なしの質問に、俺とセレスの背筋はピシっとまっすぐに伸ばされてしまった。
「え、えっと、あれだ。セレスが体調悪くて倒れちゃってさ」
「そ、そうですわ。わたくしちょっと体調が悪くて」
俺とセレスは話を合した。といっても、これは本当のことなのだから問題ない。
「そうだったんですか。今は大丈夫ですか? なんだか、お顔が赤いみたいですけど?」
「えっ!? あ、赤いかしら?」
セレスは自分の頬を触って確かめてみていた。
「そう言えば、神住さんもお顔が赤いみたいですよ?」
「えっ!? あ、赤いかしら?」
俺は咄嗟に、セレスと同じ女言葉で答えてしまった。
「二人っきりなのをいいことに、変なことでもしてたんじゃないでしょうねー」
冴草契が茶化すように、会話割って入ってくる。
何時もならば、こんな言葉は軽く流して終わるのだが、今日はそうはいかなかった。
「へ、変なコトとかしてねえよ!」
俺は口に含んだコーヒーを吹き出しながら叫んでしまった。
「そ、そうですわ! わ、わたくしたちは至って健全にですわね……」
セレス、そんなに紅茶の缶を高速で上下にシェィクしながら答えるのは不自然だと思うぞ……。
「な、何を二人ともムキになってんのさ。冗談に決まってるでしょ、冗談! あんたらが変なことなんてしてるわけ無いでしょ」
お前が帰ってこなかったら、変なことをしてたかもしれないんだけどな……。とは、口が裂けても言えなかった。
「ねぇねぇ、ちーちゃん。変なことってどんなことなの?」
冴草契の肩の隙間から顔をひょっこりと出して、桜木さんはクエスチョンマークを頭に浮かべていた。
「え? あのその、変なことっていうのは……。神住どんなことよ!」
「どうして俺に聞く!」
何時もながらの、冴草契のキラーパスだった。コイツのキラーパスは、文字通り相手を殺しにかかってくるからたちが悪い。
「じゃ、そこの金髪ツインテールどんなことよ?」
今度は、セレスに向かって唐突に問いかける。こいつ、自分で答える気ありゃしねえ……。
「どうして、わたくしに聞くんですの! 知りませんわそんなの! あと、髪型で呼ぶのはどうかと思いますわ!」
セレスの金髪ツインテールが意思を持ったかのように、冴草契に襲いかかりそうになる。
そこに……。
「おう、どうだ、金剛院さんは目を覚ましたか?」
向日斑は、のっしのっしと威風堂々とこちら向かってきた。うん、どこからどうみても、ゴリラの檻から抜け出してきたように見えるな。
「もぉー! お兄ちゃんのお説教ってば長いんだからー! 動物園のど真ん中で、お説教とかすっごい恥ずかしかったんですけどー!」
花梨は、向日斑の背中をポコポコと殴りつけながら、ご機嫌斜めのご様子だった。
「さて、みんなも揃ったことだし。全員で動物園回るか」
「そうだな」
「そうですわね。よくよく考えたら、わたくし全然動物を見ておりませんでしたわ」
「みんなで動物さんをみてまわりましょー!」
「ひ、姫、今度はゆっくり回ろうね……。走るの禁止ね……」
「象見に行こうよー! 象! パオーンって!」
花梨が、腕を鼻に見立てて、象のマネをしてみせる。
こうして、花梨先導の元、一同象のコーナーへと向かうことになったのだった。




