74 死闘! ゴリラVS忍者
俺とセラスは、流石に絶叫を聞いておきながら放置を決め込むわけにもいかず、恐る恐る忍者の元へと向かった。
「わたくし、嫌な予感しかしないんですけれど……」
ドレスを振り乱して走る中、セレスは不安そうにつぶいやいた。
「安心しろ、俺もだ」
何の励ましにもならない台詞を、俺は堂々と言ってのけるのだった。
そして、俺とセレスの不安は的中していた。
※※※※※
「なんだこりゃ……」
玄関ホールに辿り着いた俺の第一声はこれだった。
横にいるセレスの表情から察するに、同じ事を心の中で思っているようだった。
美しく装飾されていた玄関ホールは、もはや過去のものだった。
並べられていた壷は無残にも台座から落ちて割れ、絵画にはどうみても鮮血と思われるものが飛び散っていた。そして床には、ゴスロリ衣装の破片のようなものが散乱していた……。
鮮血の理由は、すぐにわかった。
いまだに、向日斑に抱きしめられた状態のままの忍者が、延々と脇腹をクナイで突き続けていたのだ。向日斑の脇腹からは、大量の血が流れ落ちているにもかかわらず、まるで天にも登らんばかりの恍惚の表情を浮かべていた。
どうやら、愛しの忍者と対面してスーパーゴリラ人となった向日斑には、忍者の攻撃はまるで意味を成していないようだ。
忍者は焦っていた。焦りの極地に達していた。瞳には涙が滲んでいた。
「くそぅ、くそぅ、なんでこのゴリラは、こんなに頑丈なんだよー!」
もはや、女性としての演技など、どこかに飛んでいってしまったようで、完全にいつもの忍者の地が出ていた。
「あっはっはっはー! 七桜璃さんは、軽いなぁー。まるで羽毛のようですよー!」
「そんなこと言ってないだろ! 早く、早く降ろせ! この糞ゴリラ! この変態ゴリラ!」
「ありがとうございます!」
忍者の向日斑に対する罵倒は、確実に逆効果だった。罵倒されるたびに、向日斑は目と口元をとろけさせていた。そのうち顔面から落ちるんじゃないのか、目と口……。
「あ、あらららら、さすがにこれは七桜璃がかわいそうですわね……」
セレスはかわいそうと言いながらも、どうすることも出来ずにただ見守るしか無かった。
俺もあの中に飛び込んでいく勇気は持ち合わせていない。
そして、この場を収集できる力を持つ老紳士ブラッドさんは、腹を抱えて大笑いをしていた……。
「ふぉふぉふぉっ、こんなに面白いことは久々でございますよ。あのいつもクールに振舞っているシュラウドがあんなに狼狽して……。これはBDに録画して永久保存でございますよ」
「はいな! そこは怠りないっすよ!」
ブラッドさんの横で、これはまた嬉々としてデジタルビデオを構えるのは、青江虎道さんだった。
「ほら、今の顔はズームで抑えておきなさい」
ブラッドさんが指をさして指示を出す。
「はい!」
青江さんは、すぐさまカメラをズームに切り替える。
「こ、この二人……。完全に楽しんでいやがる……」
「わたくし、あんなに楽しそうな二人を見たことがありませんわ……」
被写体の忍者は、完全にこの二人の玩具だった。しまいには『シュラウド、そこはもっとこうのけぞってください!』とか『ああ、そこ! そこでもっとカメラに向かって絶望した表情を!』などと、演出家のように指示を出し始める始末だった。
必死にもがき苦しむ忍者に、そんな指示が耳に入るわけもなく……。
「ボクは、ボクは何でこんな目に合わないといけないんだーーーーっ!」
すみません、全部俺のせいです。
と、心の中で忍者の絶叫に答えておく。
忍者はなんとかして向日斑脳での中から逃れようと、身体を左右に振り続けるのだが、忍者の身体を締め付ける腕はまるで万力のようで緩んでくれはしなかった。
「七桜璃さん! 愛しています! 俺はあなたを愛しています!」
ゴリラの愛の咆哮、もとい告白は、忍者の鼓膜と心に多大なるダメージを与えた。
「ゴ、ゴリラに愛の告白をされてしまった……。人間にだってされたこと無いのに……」
自暴自棄になった忍者は、手に持っていたクナイを地面に落としてしまう。そして全身から力が抜け失せていき、ダラーンと脱力した形になってしまった。そして、その瞬間を向日斑は見逃さなかった。即座に、忍者の身体を自分の方に引きつけると、そのまま自分の顔を忍者に近づけ始めたではないか……。
ゴリラの野性的な口臭が、忍者の思考を取り戻させた。
「な、何を……。ボクに何をするんだー!」
「決まっているじゃないですか! 七桜璃さん、愛のくちづけですよ」
向日斑の唇が、刻々と忍者の唇に近づいていく。今回は、あの喫茶店とは違い、確実に口に向かって進んでいる。もう、ほっぺたなどですむ状況ではなくなっているのだ。
忍者の顔から、一気に血の気が引いて青ざめていくのが、遠目からでもハッキリ見て取れた。
後十センチ、後八センチと、向日斑の顔が迫っていく。なんという恐怖。なんという絶望。俺ならば、いっそ気を失ってしまったほうが楽だと考えるかもしれない。しかし、忍者は違っていた。死中に活を求めようとしたのだ。
後五センチと迫り来る向日斑の分厚い唇に対して、忍者はなんと、自分から近づけていったのだ。
「正気なのか!」
俺は思わず叫んだ。
「最高のシーンですぞ!」
ブラッドさんは叫んだ。
「鼻血でそうです!」
青江さんは鼻血を出した。
「七桜璃、あなたの犠牲は忘れませんわ……」
セレスは十字を切った。
そして、忍者は……。
向日斑の唇に触れる瞬間、軌道を修正して、首筋にその小さく可憐な唇を持っていったのだ!
「うほっ!?」
向日斑の口から、痛みとも喜びとも付かない言葉が漏れた。
忍者は向日斑の首筋に噛み付いたのだ。それだけではなく、強靭な顎の力で首筋の肉を削ぎ落したのだ!
向日斑は脱力した。それは痛みによるものではない。忍者の唇、本当は歯なのだが……。それが己の肉体に触れたことに歓喜したゆえの脱力だった。
そのチャンスを逃す忍者ではなかった。
緩んだ腕の中に出来た僅かな隙間で寸勁を放つ。一発、二発ではなく、力の続く限り連打で放たれたその寸勁は、雨粒が石に穴を開けるように、向日斑の身体のバランスを崩させることに成功した。
そして、遂に忍者は向日斑の拘束から逃れることに成功したのだ。
「七桜璃やりましたわ!」
セレスがその場でピョンピョン跳ねながら喜びの声を上げた。
「まぁ、俺たちは何もしないで見てたわけだけどな……」
実際そうなのだから仕方がなかった。
「プッ」
忍者は口の中から肉片を吐き出す。肉片とともに血しぶきが床を染め上げた。
「今度は、ボクの番だ……。ボクの奥義で、このゴリラを血祭りにあげてやるっ!」
忍者の目は燃えていた。復讐の炎に燃えていた。って、奥義ってなんだよ! なんとか神拳の伝承者かなんかなのか!?
「七桜璃さん、唇が恥ずかしいからって、僕の首筋にキスをするなんて……なんて可愛らしいんだ! 僕の愛の炎は更に燃え上がりましたよ!」
向日斑は燃えていた。愛の炎に燃えていた。って、本当にポジティブだな! 恋は盲目というが、コイツの場合は盲目というよりも、キチ◯イと呼ぶべきだろう。
向日斑はもう一度ハグをしようと距離を詰めようとする。
忍者は、距離をとったまま奥義とやらと叩き込もうとする。
張り詰めた緊張感が、玄関ホールを満たした。
そして、今まさに両雄が動き出さんとした時……。
「まぁ、今日はここまでということに致しましょうか」
さっきまで横にいて、青江さんに支持を出していたはずのブラッドさんが、いつの間にか向日斑の横に立っていた。
そして、向日斑の首筋に向かって、軽く手刀を浴びせると……。向日斑は白目をむいてその場にゆっくりと崩れ落ちていった。
「シュラウド、あなたはまだまだ修行が足りませんねぇ……」
「ボ、ボクだって、いっぱいいっぱいだったんです! ふ、普通に戦えばあんなやつ!」
「まぁ、それはさておき、そのような格好では失礼に当たりますから、着替えてきなさい」
その言葉が指す通り、忍者の格好は酷いものだった。スカートは無残にも切り裂かれ足が露出し、胸元も血しぶきを浴びて真っ赤の染まっていた。髪の毛もぐしゃぐしゃに乱れており、頭につけていたヘッドドレスはどこかに飛んでいってなくなっていた。
「わ、わかりました……」
忍者はすごすごと肩を落としてその場から去っていった。まるで飼い主にきつく叱られた犬のように……。
そんな忍者の後ろ姿を威厳なる態度で見送ったブラッドさんは、忍者の姿が消えた途端に、すぐさま青江さんのもとに駆け寄って、ビデオカメラの映像を付属のモニターでチェックしては、満足そうに頷いていた。
「うんうん、良い絵が取れました。今日は徹夜で編集作業をすると致しましょう」
「はい! ブラッド様、わたしも手伝いますよ!」
青江さんが手を上げて、編集の手伝いを願い出る。
「あなたは、そんな事より、お客人の手当をおねがいしますよ」
「えぇー!」
ブラッドさんは、ぶっ倒れたまま動かないでいる向日斑の手当を青江さんに頼むと、ビデオカメラを手に持ってどこぞに消えていった。
「しゃあない、この青江様が秘術の限りを尽くして手当してやっかー」
青江さんは、渋々ながら向日斑を軽々と持ち上げて肩に担ぐと、これまたそのままどこぞに消えていった。
こうして、俺とセレスは玄関ホールにぽつんと取り残されたのだ。
「セレスの執事さんとメイドさんはとんでもない人ばかりだな……」
「わ、わたくしも存じ上げてなかったんですのよ……。今まではごくごく普通にお仕えしてくれてましたし……。こんな奇妙なことが起こるのは、神住様と出会ってからですわ」
「俺だって、こんな突拍子もない出来事が起こりだしたのはつい最近からだよ」
そう、思い返してみれば、とんでもない出来事が起こりだした起点は、あの渡り廊下……。桜木姫華と出会ってからなのだ。あれからというもの、俺の一日の密度は今までの数百倍の濃さになっているような気がする。
「でも、わたくし、こういうの嫌いじゃありませんわよ?」
「俺も結構楽しんでる。まぁ、忍者はかわいそうだけど……」
「それはそうですわね」
セレスは笑った。俺も笑った。何処からともなく、チョコがこちらに走ってきて『ワン』と鳴いた。
この後、俺とセレスとチョコは、向日斑の手当が終わるまで、屋敷の中を散歩したり、取り留めもない会話をしたり、チョコにボールを投げて取らせに行ったりと、楽しい時間を過ごした。




