45 ゴリラは笑顔でウホウホ言ってこそゴリラ。
「おい、大丈夫か?」
俺はそれが花梨の言っていた怪我によるものだと理解するのに数秒の時間を要した。
「お、おう。なーんちゃってな。冗談だって、騙されたか?」
向日斑は、何事もなかったかのように立ち上がると、俺におどけてみせる。
けれど、俺は見逃さなかった。あのいつもゴリラのような表情な向日斑が、苦痛に顔を歪めたのを……。こいつが他の奴ならば、冗談だって可能性もあったかもしれない。けれど、こいつはゴリラであり向日斑なのだ。こいつが、人を心配させる類いの冗談をいうはずがない。
「膝大丈夫か? 病院に行ったほうがいいんじゃないのか?」
「いや、だから冗談だって……」
そこまで言いかけて、向日斑は言葉を止める。きっと、俺の表情を見て、嘘がバレていることに気がついたのだろう。鏡がないから確認はできないが、今の俺はきっとそうそう見せない真剣な表情をしているはずだから。
「……まぁあれだ。痛いわ。うん、痛い。でも、病院に行くほどではない。これは本当だ」
向日斑は、後ろ頭をポリポリとかきながら、観念したかのようにゆっくりと言った。
「立てるか? 無理なら座っててもいいけど」
「こんな巨体がこんな所に座ってたら迷惑だろうからな」
「まぁ、俺が知り合いじゃなかったから、ビビるだろうな。お前迫力あるから」
「正義のゴリラは、世のため人のために生きてるからな。迷惑かけるわけにゃいかないわ」
向日斑は両手を地面について、腕の力で身体を持ち上げるようにして立ち上がろうとした。奥歯をかみしめている様子が、こいつの身体の痛みを俺にまで実感させる。
「ほれ」
俺は立ち上がる手助けをしようと、手を差し出した。
「すまんな」
向日斑はその手をしっかりと掴む。痛みによるものだろうか、手に汗が滲んでいるのがわかった。
瞬時に、俺の腕には向日斑の体重がのしかかってくる。そうか、自重を支えることが辛いほどの痛みだったんだな……。
やっとのことで立ち上がった向日斑は掴んだ俺の手を離すと、壁に手をついて身体を支えた。
「よくこんなんで部活の練習に出てたな……」
「うん。俺は我慢強いからな。頑張れば何とかなるもんなんだ」
我慢で怪我がどうにかなるのだったら、医者は頑張れの言葉を投げかけるカウンセラーだけで事が足りてしまう。
「やっぱりお前、部活に復帰するのはやめたほうがいいぞ」
「……」
「何で黙ってるんだよ」
「期待されてるとさ、答えないといけなって気持ちになるよな?」
「何の話だよ」
「俺はさ、そういうの弱いんだよ。今回はたまたまちょっと具合が悪くなったけどさ、テーピングしたりとか色々すれば結構持つもんでさ」
「そんな問題じゃねえだろ!」
俺は無意識に叫んでしまっていた。
その声に反応して、通りかかった本屋のお客が、嫌なものを見るような目で足早に通り過ぎて行く。
「おいおい、本屋では静かにしろよ。迷惑になるだろ」
向日斑は口元に人差し指を立てて、静かにしろの仕草をする。
「そうだな。俺が悪かったよ」
俺は言葉の音力を最小限まで落とした。
「この話はまた今度にしよう。先輩たちが待ってるからさ」
「歩けるのか?」
「うん。問題ない」
向日斑は、太ももの辺りを両手で叩く。パンパンと小気味良い音がする。
「あるだろ、問題」
「問題あるけど、問題ないようにしてみせる。あれだよ、いま俺が膝をついちまったのも、あれだ、お前の顔を見たせいだ」
「何で俺の顔を見たせいなんだよ」
「お前の顔は、なんかさ、気を抜かせてくれるんだよ。張り詰めていたもんを、ふわーっとさせてくれるっていうかさ」
「それって、褒めてんのかけなしてんのか?」
「勿論……両方さ」
向日斑は一度頬を軽く平手で叩いて気合を入れると、自分の二本の足で身体を支えて立った。
「ほら、大丈夫だろ」
向日斑は両手を掲げて、ゴリラがウホウホするようなポーズをとってみせる。
「そんじゃ、また明日な」
俺はゆっくりとした歩調で歩いていく向日斑の後ろ姿を見送った。
外で待っている柔道部の先輩たちの前では、きっと怪我のことなどおくびにも出さないようにするのだろう。そして、何くわぬ顔で明日の練習にもでたりするのだろう。怪我な治るどころか悪化していくことだる。花梨は悲しい思いをすることだろう。
この負連鎖を止めるのが、俺に与えられた使命のような気がした。
いいや、そうじゃない。
使命とかそんなカッコイイことじゃない。
俺がやめさせたいだけなのだ。
俺のワガママ、俺の傲慢、そんなもので、あいつの部活復帰を阻止する。
けれど、出来るのかそんなことが?
俺みたいな奴の力でどうにかなるのか?
俺は適当に小説を一冊手に取ると、レジカウンターに持っていった。
別段この小説がすごく読みたかったわけではないが、本屋にすごい迷惑をかけたような気がして、手ぶらで店を出るのが忍びなかったのだ。
「ありがとうございましたー」
本屋の若い女店員さんが明るい声で応対する。
『こちらこそ、お騒がせしました』
と、心の中で謝罪しつつ、軽く会釈をして店を出る。
店の外には、もう柔道部員たちの姿はなかった。勿論、向日斑の姿もだ。
俺は買った本を鞄にしまうと、自転車にまたがる。
※※※※※
「良い考えなんてまるで浮かばねぇ……」
俺は帰宅すると、いつもの様に部屋のベッドに横になっては、天井を見上げていた。
天井のやつも何時も見つめられて大変だな、そのうち俺に惚れるんじゃないだろうか。
そんな余計なことを考えてしまうくらい、俺の考えは混濁したままで、何一つとして形になった答えを出してはいなかった。
あいつは人の期待に応えたい。
あいつは何かに打ち込んでいないといられない性分だ。
その二つを部活動以外で満たしてやることができれば……。
答えが喉元まで出そうになっている気がするのだが、それが何なのかわからないままでいる。
俺が天井が妊娠してしまうくらい見つめ続けていると、ポケットの中にスマホがメールの着信を知らせた。
俺は上半身を起き上がらせて、メールの内容を確認する。
『今日酷い目にあったのは、アンタのせいなんだからね! アンタがあんなやつを連れてきたりするから、おかげで姫にも変な誤解されちゃったじゃない! 反省しなさいよね! あと、姫がバスの中でアンタの話を色々してきたんだけど、わたしから離れて二人っきりになった時に。変なことしてないでしょうね? もししてたら……わかってるよね?』
毎度ながら、メールの差出人を確認する必要の無い内容だった。
二人の時に、変なことをしたかしてないかで言えば、おパンツを覗いたわけなので、したことになるわけなのだが、勿論このことは秘密に決まっている。
誰だって自分の命は惜しい物なのだ。
「ふぅ、相変わらずだなぁ冴草契は……」
ともあれ、このメールを見たことで、俺の煮詰まった心は一息つくことが出来た。
メールはインターネットで飛んでくる。
インターネットっての電波みたいなもんだろ。これこそ、現代科学の創りだした電波と呼ぶべきものなんじゃないだろうか。
こう考えれば、今の世の中の人間のほとんどは、電波で繋がっていることになる。なるほど、みんな超能力者だ。そのうち、科学が発展すれば、スマホみたいな端末を持たないでも、電波が使えるようになるんじゃないだろうか。
まぁ、そうなったらそうなったで、プライバシーがどうこうとなるんだけどな。
人と繋がる。
人と話をする。
こんな単純なことで、人は救われたりする。
「そうか、俺が救うんじゃなくて……。救ってもらえばいいんじゃないのか?」
何かが閃いたような気がした。
俺の脳内でシナプスがスパークして弾けては輝き始める。
俺はベッドの上に立ち上がる。
そして、冴草契に電話をかけた。
「もしもし、俺だ。神住だ」
「な、何なのよ! メールの返事ならメールでしなさいよ! いきなり電話とかビックリするでしょ!」
「メールより、言葉で話したほうが良いような気がしてな」
「何よそれ、気持ち悪いんですけど」
「明日秘密結社FNPの集会をするぞ」
「……は? 何いってんの、頭大丈夫?」
「ああ、むしろ今は頭は爽快な気分だ。桜木さんにもよろしく言っておいてくれ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「力を貸して欲しいんだ」
自分の口からこんな言葉が出ることが信じられない。
どうやら、その言葉を聞かされた冴草契も同じようなリアクションのようで、暫く考えこむような間ができた。
「――なんだかわからないけど、本気そうだから伝えとく……」
「ありがとう」
「……お礼とか気持ち悪いからいらない! んで、他に要件は?」
「ん? 詳しいことは明日会った時に話すよ」
「わかった」
「それじゃ、明日な」
「……電話切る前に一つだけ。姫に変なことはしてないんだよね?」
一瞬にして、冴草契はドスの利いた口調へと変化した。
「……また明日な!」
「ねぇ! 何で答えないの! ねぇ、ねぇってば! ぶっ飛ばすよ!」
冴草契の言葉が、まるで拳のように殴りかかってきては俺の耳にダメージを与える。
俺は慌てて電話を切った。
途中までいい話の流れだったのに、危うくミスをしてしまうところだった。
一人でどうにか出来ないことならば、二人でやればいい、二人でどうにか出来ないことならば、三人でやればいい。
昔の俺には一人でやること以外の選択肢が無かった。
だが今は、選ぶことが出来る。選択肢は一つじゃない。
これはきっと、嬉しい事だ。喜ぶべきことなのだ。




