40 夕暮れ時の公園には無口な妖精が居る。
「ちーちゃん、大丈夫なのかな……」
桜木さんは、俺の背中に隠れたまま、顔を少しだけ出しては引っ込め、出しては引っ込めをピョコピョコと繰り返していた。どんだけ臆病なんだよ……。
「きっと、大丈夫なんじゃないかな……。根拠は何一つとしてないけど」
「うぅぅ、それって大丈夫じゃないってことなんじゃ……」
桜木さんは泣きそうな顔で俺を見つめる。その表情には、俺にこの場をどうにかして欲しいとの懇願が含まれていた。そんな顔で見つめられたら、どうにかしてやりたくなるというのが男心というものだが、どうにかしようにも、明らかにあいつら二人のパワーは俺の許容範囲を大きく上回っている。ちなみに、俺の許容範囲は幼稚園児のいさかいをなんとかぎりぎり収めることが出来るくらいだ。小学生になるとちょっと辛い、あいつら群れるとかなり厄介だ。スライムが合体してキングスライムになるくらい強敵だぜ……。逃げ出さないだけマシだといったところだ。
「おーほほほほほ、無様ですわ、惨めですわ。戦うまでもなく、勝敗が決してしまいましたわね。想い人の前で、地面の上に這いつくばるなんて、みっともないにも程がありますわ」
地面にうずくまって亀のようになっている冴草契を見下ろすように、金剛院セレスは、声高らかに勝利を宣言するように笑った。
「だーかーらー! そうじゃないって言ってるでしょー! 勘違いだって!」
顔を地面に伏したまま叫んだ声は、アスファルトに反響して拡散されていった。
「またまた照れ隠しですの? もう、そういうのは聞き飽きましたわ。素直に自分のお気持ちをお認めになって、そして敗北もお認めになりなさいな。貴女は、恋も、戦いも、美しさも、バストのサイズも、おパンツも、全てにおいてわたくしに劣っていることをお認めになると良いのですわ」
後半まるで関係ないことを言っているように思えたが、こいつはアホっ子なので仕方がない。
その時、俺は何か張り詰めていたものが切れる音が聞こえたような気がした。その音、いやこれは音ではない。気配、オーラ、そういう類いものだ。そう、それはきっと、冴草契の堪忍袋という袋がブチ切れる音に違いなかったのだ。
「はぁ……」
冴草契は大きく息を吐きだしながら、ゆっくりとゆっくりと立ち上がった。
「ああ、わかった。わたしわかっちゃったよ……」
顔を上げて正面を見据えると、肩と首をほぐしながら、金剛院セレスに向かって歩み寄っていく。
「あらあら、ご自分の無様さをわかってしまいましたんですの?」
「アンタをぶっ飛ばす以外に解決方法がないってことをね……」
冴草契は金剛院セレスに真正面に対峙し、腰を落として猫足立ちの構えをとった。戦闘態勢に入ったのだ。
「神住、すまないけど、姫を連れて少しの間、そこら辺をぶらぶらしてきて。すぐ終わらせるから」
「お、おう」
「え? え? どういうこと?」
状況をまるで理解できないでいる桜木さんは、俺と冴草契を交互に見ては、オロオロと戸惑うばかりだった。
俺はそんな桜木さんの手を強引に取る。一瞬ビクッとして桜木さんは手を離そうとしたけれど、それを俺は強引に握り直した。そして、俺は走りだしたのだ。どこともない方向へと……。
「神住様ー!」
背後から、俺に向かって何かを叫ぶ金剛院セレスの声が聞こえたような気がしたが、そんなものは無視して走った。
※※※※
「あ、あの……。手……離してもいいですか……」
桜木さんの声に、やっと俺は走るのをやめた。あまりにも無我夢中で、俺はその時まで手を繋いでいることをすっかり忘れてしまっていた。
「あ、ごめん」
俺は慌てて繋いでいた手を離す。手には熱がこもって汗が滲んでいた。
気が付くと、俺達は小さな公園にたどり着いていた。
立地が悪いのか、いまどきの子供は遊具で遊ばないのか、この公園には人っ子一人いなかった。
滑り台とブランコとシーソーが、遊んでくれる相手もなくポツリと寂しそう影を落としていた。
「ブランコ……」
桜木さんが小さな声で言った。
それがどういう意味なのか、俺にはわからなかった。ブランコに乗りたいのか、ただ目に見えたものを子供のように口に出しただけなのか。それとも、もっと深い意味がこめられているのか。
「ブランコ乗る?」
俺の言葉に、桜木さんは小さく頷いた。なぜだか視線は俺からそらされていた。
俺と桜木さんは二つ並んでいるブランコに、隣合わせに座った。
ああ、ブランコに乗るなんて何年ぶりだろうか、少し懐かしくなって、俺はゆっくりとブランコを漕ぎだした。キィーキィーとメンテナンスの行き届いていないブランコは、錆びついた音を立てて動き出す。
一方、桜木さんはブランコを漕ぎもせずに、ただ公園の風景をまるで何かを懐かしむように見つめていた。
そう言えば、俺と桜木さんが二人っきりになったことは一度もない。いや、あの渡り廊下での遭遇を二人きりだということに入れるのならば、一度だけあるってことになるけれど。
桜木さんの側には、絶えず冴草契がついてまわっていたから、会うときはいつだって三人だった。
俺と桜木さんは何一つ言葉をかわすことなく、お互い向き合うこともなかった。
そのまま時間はただ過ぎていった……。
俺は少し気不味くなって、不意に漕いでいたブランコを地面に足をつけてブレーキを掛けて止めた。
俺の横には、夕日の光を浴びた桜木さんが、まるで風景の一部に溶けこむようにしてそこに居た。ここはただの公園だというのに、その風景はまるで異世界のように見えた。
ああ、そうだ。これは初めてあった時とおなじ感覚だ。まるで彼女を妖精だと思ってしまった時と同じだ。時間が止まってしまったかのように、俺は瞬き一つせずに暫くの間その妖精を見つめ続けていた。気がつけば、俺の精神は現実というしがらみを忘れて、妄想世界へと羽を広げて羽ばたきだしていた。
憧れた、夢見た、異世界に行くことを、こんな日常が壊れてくれることを……。何の期待もできなかった、目を覚まして、学校に行って、眠る。目を覚まして、学校に行って、眠る。そして、目を覚まして、会社に行って、眠る。それに変わるだけの人生。そんなものだと、自分に言い聞かせて諦めてしまっていた。恋も夢も冒険も、あるのは、本の中、テレビの中、パソコンの中にだけで、手に触れることなんて出来ない存在だと思っていた。けれど、今そうではないような気がしている……。
「あ、あの……」
妖精が俺に向かって、すまなさそうに言葉を投げかける。……あれ、妖精? 妖精じゃなくて、桜木さん?
「うわああ」
俺は驚きのあまりバランスを崩してブランコからケツをずり落としかけたが、既のところで体勢を持ち直した。
うわぁ、完全に妄想世界にトリップしちゃってたよ。もしかして変なことを知らず知らずのうちに口に出してたりしてないよな? してないよな? してないでいてください。
「ごめん、ごめん。なんか考え事したまま固まっちゃってたみたいだ」
俺は精一杯取り繕ってみせた。
「ず、ずっと見つめられてたから……。わたしの顔に何か付いているのかなって……」
桜木さんは俯向いたまで、ブランコを少しだけ漕いだ。キィーキィーと小猿が鳴くような音がして、ブランコは四往復ほど動いた。
「あ、あの、その……。見つめていたというわけじゃなくて……。あの、その……。うん、やっぱり見つめてたってことになるのかな……あ、あははは」
俺は誤魔化しの言葉ひとつ思い浮かばず、諦めて自分の行動を素直に認めてしまい、観念したかのように笑った。
「……どうして……ですか?」
それはきっと、どうしてわたしを見つめたりなんてしたんですか? の意味に間違いないだろう。
「あの……桜木さんって、なんか妖精さんみたいだなぁーって思って、それでつい……」
またしても、俺は素直に本音を言ってしまった。
「わたし、そんな風に見えるんですか? それって喜んでいいのかなぁ……」
「あ、それは俺の中では確実に褒め言葉だから安心して! 可愛いっていうのの最上級系みたいなもんだから!」
「か、かわいい……」
桜木さんは、ブランコの鎖をギュッと握りしめて顔を伏せると、そのまま数秒間、石のように固まって動かなくなってしまった。
一体どうしたのかと、俺は顔を覗きこもうとした刹那……。桜木さんをは突如として凄い勢いでブランコを漕ぎだしたのだ。




