188 四者四様。
唇と唇と重ねあわせる。こんな単純な行為が、二人の体温を太陽よりも熱く燃え上がらせる。それと同時に、身体の芯にある部分に、優しく暖かな炎をともらせる。
そして二人は思うのだ。
『ああ、これはきっと幸せだ』
と。
※※※※
「それでは、また明日ですわ」
「おう、また明日な」
二人は別れの挨拶をすると同時に、明日の約束も取り交わす。
憑き物の落ちたかのような穏やかな表情の二人は、ゆっくりと手を降った。
車の後部座席のドアが開いては、ドレスの裾を少し捲り上げてセレスが乗り込んでいく。車の運転席に座っていた、黄影里里が、久遠に向けて、軽く会釈を交わすと、静かにエンジンをスタートさせて、その場から去っていった。
久遠は、その車のテールランプが見えなくなるまで手を振り続けた。いや、見えなくなっても数分の間は手を振り続けていた。
そして、やっとのこと手を止めると……。
「えっと……これは夢じゃ……無いんだよな?」
と、頬を強くつねってみせる。
しかし痛みはあまり感じられなかった。
「あんまり痛くない……ってことは、夢? 夢か? 夢オチなのか!!」
今度は自分の家の塀を蹴り飛ばしてみる。
グキッ
嫌な音がすると同時に、激痛が久遠の右足を襲った。
「イテェェェェェェ!! ってことは、現実かァァァァっ! てか、まじいてぇェェェ!!」
と、痛みにのたうち回る久遠に
「アンタいつまで外で大騒ぎしてるの! 近所迷惑でしょ!」
玄関のドアが開いて、母親からの罵声の声が飛んで来るのだった。
「お、おう!」
久遠は痛めた足を擦りながら、家の中へと戻る。その時、久遠は見たのだ! 母親のニンマリとした表情を!
――いま、『いつまで大騒ぎしてるの!』って言ったよな。いつまで? いつっていつからだ……。 いつがいつで、いつの時に、いつだから……。
久遠の中で『いつ』と言う言葉がゲシュタルト崩壊しかかりかけた時に、たどり着きたくなかった結論にたどり着いてしまう。
――まさか、俺とセレスのやり取りが聞こえていた……。
一気に耳たぶが真っ赤になる。足が前に進まなくなる。めまい、吐き気、息切れ、動悸が大挙して押し寄せてくる。
親に告白シーンを聞かれる。これ以上の恥ずかしいイベントがこの世にあるだろうか? いや無い!!
こんな時、男子高校生が取る行動とは……
1 笑ってごまかす。
2 開き直る。
3 全力で逃げる。
久遠がチョイスしたのは
「あ、あぁ、急に走りたくなったわぁ。町内をランニングにしたくなっちゃったわぁ!! だから、俺ランニングしてくるわ!」
三番だった。
「ちょっと、夕飯もう出来てるんだから……」
と、母親が呼び止めようとした時には、既に久遠の姿は無かった。残されたのは、玄関先にあちこちに散らばった靴たちだけだった。その有り様だけで、どれだけ久遠が焦っていたのは手に取るようにわかる。
「あれまぁ、息子の恋路を見て見ぬふりするくらいの、心遣いは出来るつもりなんだけどねぇ……。あのバカ息子は、何処まで走っていくことやら……」
ヤレヤレとため息を付きながらも、母親の表情は満足そうなのだった。
※※※※
そしてこちらは、黄影里里が運転する車内。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、わ、わたくしに起きた先ほどの出来事は、夢! 夢じゃありませんのかしらァァァァ!」
セレスは車のシートの上をゴロゴロと転げまわりながら、叫び声をあげていた。
「里里! わたくしの頬をつねってくださいまし! 夢かどうか確かめたいの!」
セレスは運転席のシートをがっしりと掴みながら、里里の方に向けて頬を差し出した。
それを里里は一瞥もせずに、
「セレスお嬢様、里里は今運転中ですので―。でも、こんな事もあろうかと、頬つねりマシーンを用意してありますのですよー」
白衣の袖の中からマシーンを取り出す。そのマシーンはテクテクと可愛らしく自力で歩いて行くと、『エイサッ!』と気合の入った声を出してセレスの頬に向かって突進した。そしてセレスの頬に取り付くと、全力で頬をつねってみせる。
「い、痛い! 痛いですわ! 確実に痛いですわ! ということは、今の出来事は現実に間違いありませんわァァァ!」
「おめでとうございますお嬢様。パチパチパチなのですー」
ハンドルから両手を話すことが出来ないので、里里は気の抜けた声で拍手の擬音を口で言う。
「正式にお付き合いすることになりましたのですから……。これからは、あんなことや、こんなことも……」
だらしなく大口を開いて、妄想の絵柄を脳内に浮かび上がらせてる。その時の表情は、決して人に見せてはいけないレベルに達していたのだが、幸せパワー全開状態のセレスはそんなことに気にもならなかった。
「いやぁぁぁ、どうしましょう、どうしましょう! まだわたくし心の準備が出来ておりませんわァァァァあ!」
先程よりもさらに強烈なスピンをくわえて、セレスは後部座席を転げわまるのだった。
「お嬢様、楽しまれているところ悪いですけれど―。お屋敷に戻りましたら、ブラッド様からお話があるそうなのですよ―」
その言葉に、セレスの回転が止まる。
「ブラッドから……?」
車はスピードを上げて、屋敷へと向かうのだった。
※※※※
一段一段と、神社の境内に向かう石段を登る。顔を伏せて、ゆっくりとしっかりと踏みしめながら登る。
登り切るまで、後三段。気合を入れるように、ふぅ〜と肺の中の息を全部吐ききる。顔の筋肉をひきしめる、無理矢理に表情を作る。それが出来たのを確認してから、そこでやっと顔を上げる。
「ちーちゃん、やほー!」
月明かりの下、神社の境内で佇んでいた契に向けて、姫華元気よく手を振った。
契がその呼びかけに答えようとした刹那、姫華は堰を切ったように走りだした。そして言葉もなく、契の胸の中に飛び込むと、顔を凹凸のない胸の中に埋めた。
「え? え? 姫どうしたの? そんな急にこんな事して……う、嬉しいけどさ」
契が媛華の身体に手にそっと手を添える。その時に、契は気がついた。姫華の身体が小刻みに震えていること、必死に嗚咽をこらえていることに……。
姫華は契の胸から顔を上げると、大粒の涙をボロボロとこぼしながら、必死に笑顔を作り口を開く。
「ちーちゃん、あのね……わたし振られちゃった、えへへっ」
その言葉に、契は返す言葉がなかった。ただ優しく『頑張ったね』と髪を撫でた。この腕の中にあるものが、愛しかった。愛しているのだと、あらためて認識した。
姫華がここのやってきて、わたしに会いに来てくれた。その想いにわたしは答えなければならない。わたしは、わたしらしく、わたしの出来ることで、全身全霊の愛をこめて、答えてあげなきゃいけないんだ!!
契は姫華の肩を掴んで少しの距離を取る。そして一番男前の顔を作ると軽くウィンクをしてみせる。
「姫、正拳突き教えてあげる!!」
「ふぇ……?」
「正拳突きを教えてあげる!」
「ちーちゃん、何言ってるの……?」
姫華は目をパチクリとさせた。
「こういう時はね、身体を動かして発散するの!」
契は、三段跳びの要領で、境内を飛び跳ねると、肩幅に足を広げて少し腰を落とした。そして左拳を弓のように引き絞ると
「セイッ!!」
風をきるような拳を突き放つ。
「セイッ! セイッ! セイッ!」
二度、三度、と契は渾身の力で正拳突きを続ける。ただ前を見据えて、迷いのない拳を、虚空へと打ち続ける。
「綺麗……」
境内で月明かりに照らしだされながら、一心不乱に正拳突きを続けるその姿が、何者よりも美しく見えた。純粋な、透明な、ただ流れ落ちる汗が、宝石のように輝いて見えた。
だから……。
姫華は契の横に並ぶと、慣れない動きで正拳突きの構えを取る。
「え、えいっ! えいっ!」
蚊が止まるような、スローモーションな拳が突き出された。拳を振るうたびに、涙が流れ落ちていく。何度も繰り返すうちに、涙は流れ切ってしまう。頬に伝っていた涙の跡も消えいていく。
「セイッ! セイッ!」
「えいっ! えいっ!」
二人の声と、風をきる拳の音だけが、静寂な夜の中に溶け込んでいった……。
言葉もない。慰めもない。
そこには不器用で、不格好な、契の姫華に対する愛の形があった。