181 知らない母親の顔。
そして、デートの待ち合わせ時間十五分前……。
「むにゃむにゃ……もう食べられないよぉ……」
姫華はベッドの上でヨダレを垂らして眠りこけていた……。
一体どんな夢を見ているのだろうか? 幸せそうな顔で身体を丸めて眠る姿は、子猫のように愛らしいものだった。
準備万端だった姫華がどうしてこんなことに陥ってしまったのか? それにはきっちりと原因が存在する。
姫華が起きた時間は朝の五時だといったが、実のところ姫華は殆ど眠ってはいない。緊張とドキドキのあまりベッドに入ったは良いが、眠りの世界へと落ちていくことはできないでいたのだ。つまり朝の五時までベッドの中で眠ろうと努力していたが、それを諦めて起きたのが朝の五時というわけなのだ。
そしてデートの準備が完成した時、姫華の緊張の糸はプッツンと切れてしまった。
それがこの姫華の今の状態なのだ……。
しかし救いの神は居た。
「姫華、そろそろお出かけの時間じゃなかったの?」
ドアをノックして声をかけたのは、姫華の母だった。
デートが決まって浮かれてしまった姫華は、ついつい母親に今日のお出かけの話をしていたのだ。それなのに、待ち合わせ時間が近くなっても部屋から出てこないので、どうしたのだろうと部屋に様子をうかがいに来たのだった。
声をかけても返事がないのに不信感を感じた母親は、娘のプライベート空間に入るのは悪いとは思いながら、部屋のドアを開けた。
そして目にしたのは、スヤスヤと寝息を立てて眠る娘の姿だったのだ。
「姫華?! 寝てていいの? もう待ち合わせの時間なのよ!?」
力強く身体を揺さぶっては、姫華を眠りの国から呼び戻そうと必至になって声をかけた。
その甲斐あって、深い眠りの中から目を覚ました姫華は、とろーんとした目で母親を見ては、口を半開きでよだれを垂らしながら、ゆっくりと部屋簿中を見回した。
「むにゃむにゃ……おかあ……さん……? 待ち合わせ? 時間……」
――時間ってなんだろう?
寝ぼけている姫華は、唐突に哲学的な考え方を始めてしまった。
しかし、そんなお寝坊な姫華の頭も、部屋に置かれている置き時計を目にして吹き飛んでしまった。
「ふわぁぁぁぁぁぁぁ!! 時、時、じかぁぁぁぁぁん!! お、おか、おか、おかあさあああああん!」
慌てふためく、そんな言葉がこれほどまでにマッチする事もそうはなかった。
小学生のように、オロロとして、さらには涙ぐむ娘の姿を見て、母の心に炎が灯った。
「お母さんに任せなさい!!」
「ふぇ?」
母親はポケットから車のキーを取り出すと、ニヤリと笑ってみせた。それは姫華が一度も見たことのない、母の表情だった。
「待ち合わせは駅前よね? 十分あれば余裕よ!」
「え?」
「え? じゃありません。早く身支度を整えなおしてきなさい!」
「は、はい!」
※※※※
「さぁ行くわよ! しっかりとシートベルトをしなさいよ」
超高速で身支度を整えなおした姫華は、母親の車の助手席にチョコンと座っては、言葉通りに急急とシートベルトを締めた。
その時姫華は目にしたのだ、レーシンググローブをはめる母の姿を……。
「ふふふ、久々に血がたぎるわ……。峠の女豹とよばれたあの時代の血が……」
母親の目が、獲物を狙う肉食動物のそれに変わっていた。
義理の母親であるこの人のことを、姫華はよく知らなかった。いや、こればかりは義理かどうかなんて関係なく、知るはずもないだろう、下手をすれば父親すら知らないかもしれない。
まさか、義理の母親が峠の女豹と呼ばれていた凄腕の走り屋だったなどと……。
軽自動車が、ホイルスピンをさせて車庫から飛び出していく。その急加速に、姫華はシートに身体を押し付けられてしまった。
――この車って、こんなにパワーあったの!?
もともとの軽自動車にこんなパワーは勿論ない。実はこの母親がコッソリ改造していたことは、家族の誰にも秘密なことだった。そんな秘密を解禁してまでも頑張るその姿は、母親の鏡と言っても良いのではないだろうか?
車は速度を殆ど落とすこと無くコーナーを曲がっていく。これは母親がドリフトを決めているせいである。勿論足回りの改造もバッチリだ!
シートベルトにしがみつきながら、姫華は恐る恐る母親の顔を見た。それは母親ではなく、一人の女性、いやさ少女と呼んでも良いような、眩しいほどの輝きを放っていた。
「お母さん……」
「何?」
「お母さんって、すごいんだね!」
「お父さんには内緒よ?」
そう言って、口の前に指を一本突き立てて、秘密の合図をして笑みを浮かべると、すぐさま峠の女豹の顔へと戻っていった。
――そっかぁ、お母さんにも色いろあるんだ……。それって当たり前のことなんだよね……。そっかぁ、そっかぁ……。えへへへっ、なんだか嬉しい。
この時姫華は忘れかけていた、大事なデートの待ち合わせまでのタイムリミットを……。
※※※※
待ち合わせ場所である駅前に、一番最初に到着していたのは、久遠でも姫華でもなく……。セレスと里里だった。
「本当にこれ大丈夫なんでしょうね?」
「バッチリなのです!」
人通りの多い休日の駅前で、身を隠す場所は殆ど無いのに、二人の姿は誰に目にも見えはしなかった。それは黄影里里の開発した、光学迷彩マントを身に着けていたからである。
「これは周りの風景をリアルタイムで映し出すことにより、完全に風景に溶け込むことが出来るものなのだ。えっへん!」
里里は胸を張って自慢気に言ったが、その姿は風景に溶け込んでいて誰にも見えなかった。
「えぇい、里里の姿も見えないから、わかりづらいこと甚だしいですわ!」
お互いの姿を視認することが出来ないので、二人はインカムを通して会話を続けていた。
「痛っ! 痛いですわ! 誰ですの! この金剛院セレスに肩をぶつけておいて、知らん顔で行く無礼者は!」
セレスは通行人に何度となくぶつかられた。自分が見えていないのだから、それはしかたのないことなのだが、嫉妬心と相成ってセレスの苛々は高まるばかりだった。
「それにしても、待ち合わせ十五分前だというのに、二人共姿を表さないなんて……。もしかして、待ち合わせ場所の情報を間違えたのかしら……」
セレスのその思いは杞憂に終わった。しばらくしてひょっこりと久遠が姿を表したからだ。
「お嬢様、観察対象があらわれましたのです! 取り敢えず、発信機を取り付けておきますー」
里里の手の中には、テントウムシが一匹。これは一見普通のテントウムシだが、精巧に作られたインセクトロイドである。
手のひらから飛び立ったテントウムシは、幾らか風に流されながらも久遠の元へとたどり着くと、ピタリとズボンのポケットの中に取り付いた。
「これで人混みに紛れられても、見失うことはないのです! 里里は天才なのです!」
「はいはい、天才ですわね。凄いですわよー」
心のこもっていない賛辞の言葉を送り終えると、セレスの視線は久遠へと釘付けになっていた。
ソワソワと落ち着きのない様子で、きょろきょろと周りを伺う久遠の姿を見ているだけで、セレスの苛々は怒髪天を衝きかけていた。実際セレスの金髪ツインテールは、まるでアンテナのように垂直にぴーんと伸びてしまっていた。
「い、いけません。落ち着くのよ、落ち着くんですのよセレス! 神住様は、わたくしの彼氏なのです。たかだか別の女に少し遊びに誘われたくらいで、何があるはずもありませんわ! ……ありませんわよね……?」
それから時間が立つこと十分。
けたたましいエンジン音を鳴らしながら、軽自動車がコーナーを垂直に曲がって駅前へと突っ込んできた。
「なんと、見事なドライビングテクニック……。勝負してみたいです!!」
それをみた里里は興奮した。機械を操ることにかけては、右に出るものがないと言われた里里がそこまで言うのだから、このドライバー(姫華の母)の腕は本物である。
そして最後にスピンターンを決めながら、久遠の前へと車を停車させると、そのドア開けて目をまわしかけた姫華が顔を出した。
「時間ギリギリね!」
姫華の母親は時計を見て安堵の息をついた。
「か、神住さぁぁん。お、遅くなってごめんなさいですぅぅ……」
平衡感覚を失い、フラフラと左右に身体を揺らしながらも、姫華はなんとかデートの待ち合わせに間に合うことができたのだ。
それを見届けると、姫華の母親はそのまま颯爽と去っていった。