179 どきどきテレフォンタイム。
「え、えっと、あの、その、神住さんのお宅でしょうか!!」
姫華は緊張のあまり、声が裏返ってしまっていた。言葉も一言一言がまるでスタッカートのように強調されて、ガタガタになってしまっている。
「あの、お宅っていうか、これ携帯だからさ……」
「あわわわわ、そ、そうでしたぁ! 携帯だから、お家がどうとかそういうんじゃないですよねぇ……。えっと、神住久遠さんですよねぇ? 違ってたらごめんなさい。土下座して謝りますぅー!!」
既に電話機の向こうでは、正座をしていた姫華が土下座を始めてしまっている始末で、ペコリペコリという効果音が、受話器越しに聞こえてきそうなほどだった。
「いやいやいや、なんで土下座するんだよ! ――と、ところで、き、今日は一体何の用?」
「はい! えっと……その……」
本題に入って姫華の背筋がぴーんと張り詰めたように伸びる。受話器を持っている手は汗でびっしょり、もう片方の手は握りこぶしを作ったり、開いたりと、落ち着きなくグーとパーを繰り返していた。
この時、流石に鈍感な久遠でも、これが恋愛絡みの電話であることには気がついていた。そうでなければ、この姫華の動揺の仕方に説明がつかないからだ。それなのに、一体何のよう? などとう切り返し方は、すこしばかり意地が悪かったのではないかと、心の中で反省していた。とは言え、久遠も姫華ほどではないにしても、言葉はどもり気味になるわ、膝の上を人差し指で十六ビートのリズムを刻むくらい高速で叩いてしまうわ、受話器を耳に押しつけすぎて痛くなってしまっているわ、そんな感じにテンパっていたのだ。
そう、二人共恋愛というものに、慣れてはいないのだ。
「勇気! 勇気を出すんだよ、姫華!」
自分の心を自分の言葉で鼓舞する。ただこの時の問題は、この言葉が久遠に筒抜けだったことと、それに気がつく程の心の余裕がなかったことである。
……聞こえてんだけどなぁ。こんな時は、聞こえてないフリをするのがマナーってもんなんだろうなぁ。
受話器の向こうで、大きく息を吸い込む呼吸音が聞こえる。きっと、姫華が深呼吸をしているのだろう。それに合わせるように、久遠も大きく深呼吸を一つして、次に来るであろう言葉に備えた。
二人の呼吸音が止まってから、十秒ほどの時間が流れた。
久遠の耳には、姫華が口を開いて言葉を発する空気の流れすら、電話機越しに伝わってくるような気がして、静かに耳を澄ませる。
「わたしと日曜日、一緒にお出かけしませんかァァァ!!」
言葉の最後は、もうやけっぱちで叫び声のようなものになってしまっていた。それでも、相手にきっちりとわかるように、はっきりくっきりと言葉を口にしたのだ。
その言葉を聞いて、なぜだか久遠は感動してしまっていた。少しウルウルとしてしまっていたかもしれない。
わかるのだ。どれだけ勇気を振り絞って今の言葉を出したのか、姫華自身の葛藤がまるで目の前に居るかのようにわかってしまったのだ。心に素直になれない、そんな生き方ばかりしてきた久遠だからこそ、自分の気持を言葉にして相手にきちんと伝えることの、大変さに共感することが出来るのだ。
「お、おう。日曜なら別にいいぞ」
「……は、はい! はい! ありがとうです! それじゃ!」
ここで唐突に電話は切れてしまった。
「え?」
久遠は電話機を握ったまま、
「え? え?」
と、虚空を見つめて疑問符を繰り返した。
「日曜日の何時に何処で待ち合わせで、何処に行くんだよ……全く」
聞き返すために電話をかけ直そうかと思ったが、久遠も既に一杯一杯だった。
「シャワーでも浴びてくるかな……」
緊張した気持ちを熱いシャワーでほぐそうと言うのだ。
そして、緊張の糸と共に、電話を切ってしまった姫華は……。
「やった! やったよ! デートの約束オッケーしてもらったよぉ〜!」
姫華はベッドの上に飛び乗ってバンザイ三唱をした後、『でへへへっ』と、口元をこれでもかと緩ませた笑いを見せながら、枕を抱きかかえてトランポリンのようにピョンピョンと跳ねまわって全身全霊で今の嬉しい気持ちを表現するのだった。
しかし暫くして、あまりのドタバタ騒ぎに、母親から何を騒いでいるのかと怒られては、ドアから顔だけを出して『ごめんなさい』と平謝りをすることになる。
「あは、あははは、怒られちゃった……。でも、デートが決まったんだし、少しくらいはオーバーに喜んでも……。あれ? そう言えば待ち合わせ場所は……待ち合わせ時間は……あれれれれ〜〜〜〜」
ようやく待ち合わせ時間も場所も決めていないことに気がついた姫華は、『はわわわわ〜』と右へ左への大慌てをする羽目に陥り、またしても母親から怒られてしまうのだった。
そして数時間後……またもや久遠に電話をするボタンを押すか押すまいかの葛藤が始まることになる。
なんとか電話をかけ直すことに成功して、デートの約束をキチンと取り付けた終えた時には、姫華は精も根も尽き果ててしまい、そのままベッドの中で泥のように深い眠りへと落ちていくのだった。