169 意外な来訪者。
久遠の膀胱はパンパンに膨れ上がっていた。
時折腰をクネラせてその辛さをアピールするのだが、皆の視線はバトルに集中されており、それに気がつくものは皆無だった……。
――こりゃ冗談抜きでヤバイ……。持って後一分……。
久遠は想像してみた。本当は想像などしたく無いのだがしてみた。
二人の勝負の決着がつき、勝者が喜び勇んで景品である久遠の元へとやってくる……。すると久遠は泣きそうな顔で下半身とテーブルを尿で濡らしているわけだ。お漏らしする愛する人を見た女子の心中はいかようなものであろうか……。
――ああ、死のう……。もうそれしかない。
もはやその状況は社会的に死んでいるようなものである。
ならばいっそのこと肉体的にも……などと考えてしまうのも仕方がないことと言えなくもない。
久遠が尿意がマックスに達しようとするのと同時に、姫華とセレス、二人の戦いもまたクライマックスを迎えていた。
「行きますよ、セレスさん」
自分の攻撃タイミングを、わざわざ口で教える。まさに素人のすることだったが、姫華にとってこれは正解なのだ。自分の能力を言葉でブーストする姫華は、今まさに行く! 事を強調することによって、その能力を底上げすることができる。
「ええ、いつでも来るが良いですわ。返り討ちにしてさし上げますわ」
セレスの言葉は、カウンター攻撃の意図を指し示していた。
勝負の決着は、姫華の攻撃を回避した時点で体力切れという形で幕を閉じるに違いない。それなのに、敢えての高難易度のカウンター狙い。それは、姫華に対する敬意の表れてもあった。
尿意という悪魔と闘いながら、久遠は二人の姿を朦朧とする意識の中で見つめていた。
そして思うのだ。
――桜木姫華とは、あんなにも凛々しい顔を見せる女の子だったのか……。
久遠の知っている桜木姫華という人物は、いつも何処かふわふわしていて、妖精のように異世界の雰囲気を漂わせている存在だった。だが、今目の前に居る姫華は違っている。現実というものに真正面に自分の感情をぶつけてる。それがたとえ不器用でみっともないものだとしても、それは称賛に値するものだと久遠は感じていた。
そう、久遠には出来ないことを、出来ないでいたことを、今彼女はやってのけているのだ。
そしてそれを真向から受けて立つセレスも、憧れの感情を向けるにふさわしい女性だと久遠は思うのだ。そんな二人から、愛の告白を受けている自分はなんという幸せものだろうかと思う反面、その対比として自分という存在が、矮小な存在であるとまざまざと見せつけられているようで、劣等感を抱いてしまっている。
そうではないのだ。
そんな二人に吊り合うような、良い男になろうと、そう前向きに考えなければならないのだ。
まぁ、それ以前に久遠の膀胱はカウントダウンに突入しているわけなのだけれども……。
二人の緊張感と久遠の膀胱の緊張感がシンクロした時、とある異変が起きていることに、この場に居た誰一人として気がついてはいなかった。
そう、それは突然にやってきたのだ。
「うぬぬ?」
最初にリアクションを見せたのは神羅だった。
神羅は元からこのようなバトルに興味など無く、お気に入りのふんどし姿でポージングなどを決めて遊んでいたので、この異変を一番に察知することが出来た。
「あれは……」
神羅が海の沖の方に目を凝らすと、海が異様な盛り上がりを見せていることが視認できた。この盛り上がりとは、海のテンションが上がっているとかの精神的なものではなく、物理的な現象を指し示す。
「つ、津波!?」
神羅が叫び声を上げたが、これは正確には津波ではない、高波と呼称される方に属する。が、更に正確に言えばそのどちらとも言えない。
「津波だって?」
その言葉に続いて反応を見せたのは、向日斑だった。そして、連鎖反応を起こすようにそれは花梨に。
「うわああああああ、津波が来るよおおおおおおおお!」
その花梨の声で、やっとのこと全員の視線はバトルから海へと向けられたのだった。
「な、何なんですの!」
「ふぇぇ?」
セレスと姫華は、その言葉を発した瞬間……すでに津波は目前に迫っており、為す術もなく巻き込まれてしまった。
そして、それは二人のみならずこの砂浜にいた全員をまとめて飲み込んでしまったのだ!
哀れ全員は津波の勢いに巻き込まれて全て帰らぬ人に……。
『いつでも電波は受信している。』
完結!!
……
…………
……………………
…………………………………………
そんなわけはない!!
普通の津波であるならば、その勢いを失うことなく延々と続いていくものであるが、これはそれとは違っていた。ビーチを一瞬覆い尽くすとあっという間に波の勢いは薄れて消え去ってしまったのである。
こうして、この場に居た全員は一瞬は波に巻き込まれたものの、大した被害もなく無事に生還することとなった。
「ふぅ、危うくカメラが濡れてしまうところでした」
まぁ一人だけ津波に飲み込まれること無く、カイゼル髭を撫でている人もいるわけなのだが、きっとどこぞの異次元空間にでも避難してたに違いないので、これは度外視しておくことにする。
そして、この津波によって九死に一生を得た人物が一人!
「ふぅ……」
久遠である。
見よ! この久遠の晴れ晴れとした表情を!
悟りを開いた仏法僧のような、清らかですんだ笑顔。まるで嫌な付き物が落ちたかのような久遠は、一体あの津波に巻き込まれた時にどうしたのか?
そう……こっそりとオシッコをししていたのだ!
誰でも幼少時代の頃にプールの中でオシッコをしてしまう。そんな経験があったりなかったりするに違いなく、久遠は高校二年生という年齢でそれをやってのけてしまったのだ……。
――やっちまった……。それでも、人前で漏らすよりかは百億倍マシなはずだ! 誰にも気が付かれていないしな!!
こうして久遠は、唐突なハプニングの津波によって、お漏らしによる社会的な志望を免れることに成功したのだった。
――ありがとう津波! 君のことは一生忘れないよ!
久遠が津波に感謝の言葉を心の中で述べている時。
なんと津波が返事を返した!
「やっと辿り着いたわ」
津波が喋った! ――わけではない。
この津波を人工的に巻き起こした張本人が喋ったのだ。
「うふふふふ、突然のボクの登場に驚いたかしらぁ〜?」
波の中から現れたのは、このビーチに不似合いな古めかしい番傘を手に持ち、色鮮やかな着物を見につけた少女。
「花咲里姉さん!」
ビーチの樹の中に身を隠していた七桜璃が思わず声を出してしまう。
そう、異能の力により波を操り登場したのは、七桜璃の姉、花咲里だったのだ。
「ボクは復讐のためにやってきたんだよ! そう、そこのゴリラに復讐をするためにねっ!!」
そう言って花咲里は番傘の先端を向日斑の方に向ける。
「ウホ?」
当の本人である向日斑は意味を理解していなかった。
あの時の向日斑は完全暴走状態《ハイパー向日斑》になっていた為に記憶が欠如しているのである。
「ウホ? 七桜璃さんが波に乗って現れた……。でも、あれ……匂いが、匂いが違っている!! 本物の七桜璃さんの匂いは別の場所から……ウホ?」
向日斑は困惑していた。
目の前に現れたのは、何処をどう見ても姿形、声においてまで、七桜璃そのものである。しかし、匂いだけは違っているのだ。
前回の時は、二人の七桜璃が目の前に現れたことにより、一時的な超興奮状態に陥り完全に我を忘れてしまったわけなのだが、この時の向日斑は幾らか落ち着きというものを持っていた。
それは波をかぶって頭が冷えたせいなのかもしれないし、樹に隠れいている本物の七桜璃の匂いを嗅ぎ取っていたからかもしれない。
「このボクにトラウマを植えつけた張本人……。糞ゴリラをボコボコにすることで癒やさせてもらうわ!!」
花咲里の頬がヒクヒクと痙攣するかのように引き攣りあがる。それは未だにあの時のペロペロ事件を忘れることが出来ていないせいにほかならない。
「ウホホ……七桜璃さんにそっくりなあの人は、一体何を言っているんだろうか……」
糞ゴリラが自分を指し示していることは理解している。だが、何故にそこまで怒り心頭しているのかさっぱりわからないのだ。
そんなとぼけ顔の向日斑を見て、花咲里はさらにこめかみに血管を浮かび上がらせる。
「あ、あそこまでボクに酷いことをしておいて、お、覚えてないっていう……」
花咲里の肩がわなわなと震えている。足元の砂が円状に拡散していく。これは無意識のうちに漏れでた花咲里の異能の力働いてしまっているせいである。
しかし、怒りに震えているのは花咲里だけではなかった。
「わたくしたちの神聖な勝負に、文字通り水を指してくれた責任はどうとってくださるんですの!」
「そうですよぉ!」
セレスと姫華の二人だ。
今まさに対決は決着を迎えようとしていたのに、完全にうやむや状態にされてしまったのだから、怒るのも無理は無い。
「五月蝿い! ボクにはそんなの関係無いんだからね!」
二人の命がけの想いを《そんなの》扱いされては、平常心など保てるはずもない。
セレスは有無を言わさず花咲里に攻撃を仕掛ける。
だが、それは間合いを詰めることすら出来ずに、遥か後方へと弾き飛ばされてしまう。
「セレスさん!」
と、姫華が吹き飛ばされたセレスの方を振り向いた刹那、同じ方向へと姫華も吹き飛ばされる。
今までの戦いの疲労のせいあってか、二人は容易くそのダメージで意識を失ってしまう。
「ふん、邪魔者は消えたね。さぁ、ボクの復讐劇を始めようじゃないか!」




