168 恋の正念場!
勢いのない弱々しい姫華の拳は、セレスに何らダメージを与えることはなかった。
「わ、わたし初めて人に暴力を振るって……」
姫華の身体はワナワナと震えている。痛いのは殴られたセレスよりも姫華の心。
何かを得るためには、何かを引き換えにしなければならない。姫華はいつもそれを恐れていた。だから、何も手に入れることのない人生を送り続けていた。今それを、姫華はまさに拳という名の弾丸で撃ち破ってみせたのだ。
セレスにはその拳の重みがしっかりと理解できていた。
「……やっとこっち側にやってこられたようですわね。さぁはじめましょう、恋心をかけた女同士の馬鹿馬鹿しくも美しいバトルを!」
「はいっ!」
セレスは笑っている。そして姫華も笑っている。
戦いが始まって五分が経過した今、本当の戦いがここで幕を切ったのだ。
「何か盛り上がってるけど、俺は何も出来ないわけだが……」
この勝負の景品である久遠は、完全に蚊帳の外に置かれてしまっていた。
さらに久遠が先程から少しばかりモジモジしていることに、気がついているものは誰もない。そう、久遠は尿意を我慢していたのだ。
このようなシリアスな状況で、『すいません、ちょっとトイレ行きたいんですけど〜』等と言う訳にもいかずに、久遠は必死で平静を取り繕うとともに、早くこの勝負が決着をつくことを望んでいた。
自分の恋人が決まる戦いだというのにこのざまである。
もしこのことを、恋するふたりが知れば、燃え上がる恋もおしっこによって鎮火してしまうかもしれないが、悲しいかなエスパーでもない二人はそんなことを知る由もなく、真剣に対峙を続けているのだ。
――まぁ我慢できるだろうけど、もし……もしだよ? もしここで漏らしたりなんかしたら……死にたくなるだろうなぁ……。
久遠はフラグめいた発言を心の中ですると、小さくため息を付くのだった。
さて、視点をバトルへと戻そう。
「さて、攻撃をすることが出来るようになったのは良かったですけれども、そのような攻撃ではわたくしを屈服させることなど、夢のまた夢ですわよ」
セレスの身体は未だに動くことが出来ない。だが、姫華の攻撃もセレスにダメージを与えることはかなわない。つまるところ、千日手のような状況が形成されつつあった。
「えへへ、でもこれはどうですかぁ?」
「え?」
姫華が両手の十本の指をワシワシとわなめかせながら、セレスの身体へと迫っていく。
「え? なんですのっぉぉぉ!?」
姫華の指先がセレスの脇の下へと忍び寄る。そして……
「こちょこちょこちょぉ〜」
十本の指が縦横無尽にセレスの脇の下をくすぐり出したのだ!!
「いやっ……そ、そこは……いゃぁぁぁぁっ」
攻撃とはダメージをあたるだけではない、と言う別の視点から姫華は考えたのだ。
今までクールぶっていたセレスの表情が一変して苦悶へと変わっていく。武道の稽古の中に、くすぐりに耐えるためのものなどあるはずもなく、そんな防御力は皆無なのだ。
「次はこっちですよぉ」
姫華は喜々として次の標的へと指を進ませる。姫華の向かう次の標的とは、見事に引き締まったセレスの脇腹だった。
「や、やめなさい! そ、そんな卑怯なマネをしてまで勝って嬉しいんですのぉォォ!」
「えぇ? だってセレスさんがさっき言ったじゃないですかぁ〜。恋に汚いも卑怯もないって。えへっ」
「こ、この小娘……侮れないですわぁ……」
「行きますよぉ〜」
姫華の指が今まさにセレスの脇腹へと差し掛からんとした時……。
「こうなったら、わたくしもなりふり構っていられませんわぁ!!」
この時セレスが取った行動は、誰しもの想像にないものだった。
「えぇ!?」
姫華の身体に冷たいしぶきがかかる。それは一体何なのか?
「ぺっぺっぺぺっぺっ」
なんとそれは……セレスのツバ! 唾液!
セレスは唯一動く口を使って、姫華に向かってツバを吐きかけていたのだ!!
もはやお嬢様としての上品さを全てかなぐり捨てての、捨て身のディフェンスである。
「ば、ばっちぃですよぉ〜! そんなの卑怯すぎます!」
姫華は大慌てで唾液のシャワーの範囲から脱出を試みる。
「ふふん、恋の勝負に卑怯もへったくれもないのですわ!! ――とは言え、この攻撃はわたくしの自尊心に強烈なダメージを与えてくれますわ……」
セレスは眉を落とし表情も曇らせながら、闇のオーラのような重いため息を吐き出していた。
「わかりましたっ! それならば、次の攻撃です! ――その前に……セレスさんもう動いて良いですよ?」
「は?」
姫華の言葉を受けて、セレスの身体は糸から解き放たれたマリオネットのように、完全なる自由を取り戻した。
セレスは自分の身体が本当に想いのままに動くのかどうかを、念入りに確かめてみる。
軽く軽快なフットワークで足運びをチェックすると、前蹴りから後ろ回し蹴りのコンビネーションを放ってみせる。
「あら、あらあらあらあら、動きますわ……」
いつも通りの動きが問題無く出来ることを確認したセレスは、懸念の視線を姫華に向ける。
「はい! だから、これからは正々堂々真正面からの勝負ですよぉ!」
「あなた……勝負を投げ出したんですの? 真正面からの勝負でわたくし勝てるわけが……」
と、そこまで言いかけてセレスは言葉を止める。姫華の余裕のある口調と、ほころんだ口元が、そうではないと如実に告げているからである。
「……まだ何か策があるようですわね」
「はい! えへへっ、わたしわかっちゃったんです。想いは相手に届けるだけじゃなくて、自分自身にも届けることが出来るものだって……」
「どういう事ですの……」
「つまりですねぇ、こういう事です。――わたしは強い! わたしは負けないっ!」
その言葉は姫華の身体の細胞の隅々まで行き渡り、外見上ではなく肉体の内部に大きな変化をもたらさせる。
「行きますよ!」
一陣の風がセレスの前を駆け抜けては、後方に回りこんで突風にも似た突きを放った。その突きはセレスの身体に命中することはなく寸止めだった。それだというのに、強靭な足腰を誇るセレスの身体を揺るがすほどの風圧を巻き起こしていた。
「そんなバカな……」
セレスはその動きをまるで視認することが出来なかった。
達人をも凌駕する動きを行ったのは、他の誰でもなく運動なんてからっきしのはずの姫華その人だった。
「ね? わたしはわたしに想いを届けたんです」
首を傾げてニッコリと微笑む姫華、それと正反対にセレスは険しい顔つきのまま固まってしまう。
「これは……。強烈無比な自己暗示による肉体強化だぜ!!」
解説席の虎道が、やっと出番がやってきたとばかりに、腹から声を出して自分の存在意義をアピールせんとばかりに大声を張り上げる。
「どういう事なの、虎道?」
東子は東子で、わからないことを質問するだけという、楽なポジションを見つけてはそこに落ち着いていた。もともと格闘などにはまるで興味など無く、治療する時にどのような薬を試そうかということに、心をときめかすドSなのだから仕方がない。
「自分が何者よりも強いと思い込ませることで、実際にその肉体を強化させるという武術の奥義! まさか、こんな所でお目にかかれるとは……。成層圏から突入してきたかいがあったぜ!」
「なるほど、兎に角常識の範囲外の所業というわけなのね」
「しかし、これにも欠点がないわけじゃないんだけどな……」
虎道の言葉の意味はほんの数分後にわかることになる。
「さぁ、勝負再開ですよぉ!」
「の、望むところですわ!」
再開される勝負、それは一方的と呼べるものだった。
セレスは姫華の速度に着いて行くことは出来ない。ただ蹂躙されるのみである。
何度となく神速の攻撃がセレスに向けて放たれる……だが、それらは一つとしてクリーンヒットすることはなかった。
全てすんでの所でセレスが見切っているのだ。
何故このようなことが起こりうるのか?
それは、姫華の圧倒的経験不足からくるものであった。
今まで戦いどころか、相手に拳一つ向けたことのない姫華がいくら肉体を強化しようとも、その攻撃は単調極まりないものでしかなく、天才的な運動神経とバランス感覚を誇るセレスにはおおよその攻撃ポイントが読めてしまうのである。
前動作のわかりきったテレフォンパンチであるならば、いくら速度が早くても回避することは容易かった。
とは言え、かすっただけでもダメージを与えかねない神速の攻撃である。それを針の穴を通すように確実に回避し続けることは、セレスの精神を削りとっていった……。
だが、最初に動きを止めたのは姫華だった。
「ハァハァハァハァ……。く、口から心臓が飛び出してきそう……。喉から火が吹き出そうだよぉ……」
姫華はグッタリとした表情で、大きく肩を落としてしまっていた、
これこそが、虎道の暗示したものだった。
言霊で身体のポテンシャルを限界まで引き上げたとしても、拾の肉体はまるで鍛えられていない姫華のものである。その無理をしたツケは次第に肉体に蓄積されていき、その限界を超えた時……姫華は相手の攻撃を受けるまでもなくその場に沈んでしまうことだろう。
「あら、あらあらあら、こちらにもまだ勝機はあるようですわね……」
だが、セレスもすでに限界に近づいていた。足並みは乱れ、目に見えて息も上がってしまっている。
次の攻撃、これをかわし切るか、それとも見事命中させるか、そこにかかっていた!
この勝負のかかった緊張の瞬間、二人は笑い合っていた。
「ハァハァハァ……こうやって真正面から何もかもかなぐり捨てての素手での勝負。これこそ、真に大切な人をかけるににふさわしい戦いだと思いませんこと?」
乱れた息を強引に整えながら、セレスは澄み切った表情で左足を大きく振り上げて構えを取る。
「ハァハァハァ……。そうだね。わたしもいま産まれて初めてそんな感覚を実感しているよ……。ありがとうね、セレスさん」
ツバを飲み込んで、飛び出しそうになる肺と心臓を押しこめながら、姫華は心の底から感謝の言葉を相手に告げる。
「な、何を言ってるんですの!!」
予想外の感謝の言葉に、セレスは大きく動揺して、思わず体勢を崩してしまいそうになる。
「ううん、敵とか味方とかどうでもいいの。ただ、ありがとうって伝えたくて……」
「ふん、そんなことを言っても、手を抜いたりはしませんからね」
「うん、わかってる!」
姫華とセレス、共に二人の間に芽生えた感情は一人の男性をめぐり争うことで、友情を超えたものへと昇華しつつあった。
しかし、勝負の勝者は一人のみ、
ここがまさに正念場、乾坤一擲の大勝負。
そして、今まさに正念場を迎えようとしているものがもう一人別にいた。
――ちょ、貯水量が限界だ……。
そう、久遠の膀胱も限界を迎えようとしていたのだ!




