155 愛の迷宮。
ドラゴンを崖の下に突き落とす事に成功してホッと一息の久遠たちを待ち受けていたのは、愛という名の迷宮だった。
いつの間にか、繋いだ手と手は恋人繋へと変化し、時折二人は顔を見合って微笑み合う始末だった。
「あはははははは〜」
「うふふふふふふ〜」
そんな二人の爽やかな笑みが、高い湿気に覆われた鬱蒼としたジャングルを、ハート―マークいっぱいのピンク色の世界へと変貌させていた。
――ドラゴンとの戦いを切り抜け、記憶喪失の二人の間に芽生える恋……。なんて、なんて、燃える展開なんだろうか! これに燃えなけりゃ男じゃない! ただ、何だろう……彼女の胸のあたりを見ていると、心がキュンと締め付けられるのは……。
記憶を失っている久遠は知らない。そのキュンと締め付ける胸の痛みの本当の理由が『貧乳とか無いわああ! ありえないわあああ!』という罵倒の叫びであることを……。
愛憎は表裏一体、紙一重、この感情をついつい好意的なものだと感じてしまうのも仕方のない事なのかもしれない。
それは契も同じで……
――オナラをした時はびっくりしたけれど、あれはきっと作戦の一つだったんだよね? 恥をかいてまでして、わたしを助けてくれようだなんて……。何だろう、わたしの拳が真っ赤に燃えてきちゃう……。
こちらはストレートに嫌悪感の現れ以外のなにものでもなかった。
しかし、恋する乙女モードに突入してしまった契には、『この下品極まりない屁こき男を、今すぐドラゴンの餌にしてしまいたい!』という拳の猛りであるとは、気がつくことはなく、愛する人と手をつないでいることによる、高揚感からのものだと、勝手に決めつけてしまっていたのだ。
こうして、二人は期せずして、相思相愛になってしまったわけなのだが、この世界がそんなカップルを優しい目で見守ってくれる事などあるわけもなく……。
『こんにちは!』と、まるで挨拶でもかわすかのように、二人の前に立ちはだかったのだ。
ドラゴンだった……。
「何でだよ……。さっき崖の下に落ちたはずだろ……」
「うん……。わたしもちゃんと見たよ……」
そう確かに、あのドラゴンは崖の下に転落した。たぶん今もまだ、崖の下でもがいていることだろう。『あの』ドラゴンは崖の下にいる。ならば『この』ドラゴンは?
「グワァァ!」
そのドラゴンの咆哮は、まるでこう言っているようだった。
『いつから、ドラゴンが一匹しかいないと思っていた?』
そう、ドラゴンは一匹だけではなかったのだ。
ここはジャングルのど真ん中。先ほどのように、都合よく崖などあるはずもなく……。
「万事休すか……」
久遠と契が、がっくりとうなだれたその時だった。
捨てる神あれば拾う神あり。
『待ちなよ! 俺が居るだろう!』
と、言わんばかりに、二人の前に現れたのは――三匹目のドラゴンだった……。
先ほどの言葉をいくらか訂正しよう。捨てる神あれば、さらに追い打ちをかけてくる神もいる。不幸というものは得てして連鎖をするものなのだ。ふぁいやー! あいすすとーむ! ばよえ~ん! なのだ。
前門の虎、後門の狼ならに、前門のドラゴン、さらに後門にもドラゴンである。
前後を囲まれる形になった久遠たちに為す術は無かった。
『待て、俺には隠された能力『空気を読まないオナラ』がある。アレを使えば……』
と、そこまで考えて、ある問題点に気がついてしまった。
――前回は意図せずして出たオナラだったから問題なかったが、狙ってオナラを出そうとすれば……ウンコが出てしまう可能性もあるんじゃないのか……。絶妙な肛門括約筋のコントロールを俺はこなせるのだろうか……。
愛する女性の前での脱糞。これは死に至るよりも恐ろしいことに間違いなかった。
久遠の表情が苦悩に歪む。
それを見た契は、命がけで自分を守ろうと苦しんでいてくれているのだと、勝手にポジティブな解釈をしていた。まさか、愛する男がウンコを漏らすことを心配しているなど、普通の人間では想像がつくはずがないのである。
そして、こんな二人をずーっとファインダー越しに観察している人が独り……。
「うーむ、見事なシャッターチャンスですな」
今まで姿をまるで表さなかった執事長ブラッドである。
ブラッドはずっとこの島に滞在しており、人目に触れないように身を隠しながら、様々な赤裸々なシーンをビデオカメラに収め続けていたのだ。
助けにはいろうと思えば、ブラッドはいつでも助けにはいることが出来た。この一番の非常識能力を持つブラッドからしてみれば、こんなドラゴンモドキなど赤子の手を捻るも同然なのである。
なのに助けにはいらないのは、今まさに起こるであろう赤裸々なシーンを心待ちにしているからに他ならなかった。
「ごめん、俺……君を守り切れないかもしれない……」
「ううん、わたしあなたと出会えて良かったよ……」
久遠と契は暑い瞳で見つめ合うと、二つの身体を重ねあうように抱きしめ合った。
普通ならば、そんな事をしている間に、二匹のドラゴンが襲いかかってくるはずなのだが、そうしないのは空気を読んだからではない。ブラッドのファイダー越しから浴びせられる魔王すら怯ます眼光によって、二匹のドラゴンは竦み上がって瞬きすら出来なくなっていたのだ。
「記憶のない俺だけど、この気持だけは嘘じゃない」
「うん、今の気持ちだけは真実だよ……」
そして二人は目を閉じると、唇と唇を合わせ……。
「アホですのオオオオオオオオオオオオオッ!!」
そのどこからひねり出したのかわからない、常軌を逸したボリュームの声に、久遠、契のみならず、二匹のドラゴンとブラッドはその声の方に視線を向けざるを得なかった。
音の速さを追い越して、久遠と契の間に割って入ったのは……セレスだった。
急制動をかけた身体は、足元から摩擦熱により焦げた臭いを放ったが、そんなことはどうでも良かった。
「わたくしの目の届かないところで、一体全体何をなさろうとしていたんですの! 返答によっては、命はありませんわよ!」
セレスの目は血走っていた。奥歯がゴリゴリとすり潰されるような音が、口の中から響いていた。
『殺される』
久遠と契は、ドラゴン以上の命の危険を即座に感じ取ったのだった。
「ウガガガガァ!」
まるで蚊帳の外にジョウタのされたドラゴンは、俺の獲物だとばかりに、セレスを威嚇してみせた。
「五月蝿いですわッッッ!! 今はトカゲの相手をしている場合ではありませんのよォォォッ!!」
将来金剛院財閥のトップに立つであろう少女の一喝は、ファンタジー世界最強のモンスターを相手にしても、怯むことなどまるでなかった。
むしろ、怯んだのはドラゴンのほうだ。
捕食されるべき存在だというのに、この小さい生き物はどうしてこんなにも高圧的なのか? ファンタジー世界の高い知能を有したドラゴンであるならば、そんな事を考えたかもしれないが、この遺伝子改良によって作られたドラゴンモドキは、爬虫類と同等の知能しか持ちあわせてはいなかった。
だから、一瞬怯みはしたものの、迷いもなくセレスに向けて、その大きな牙を向けたのだ。
「させるものか!」
その時、空中から飛来する小さな人影が一つ。
セレスを守る。そのためだけに付き従う美しき少年、そして頼もしき忍者、そう七桜璃である。
この島に来てからは、人目につかないように姿を隠してきたけれども、主人であるセレスのピンチだけは例外である。
七桜璃の手から放たれた無数の手裏剣は、ドラゴンの口内深くに深々と刺さる。予想外の痛みにドラゴンは大きく身を仰け反らせるのだった。
「にん……じゃ……カッコイイ!!」
忍者の登場に、久遠の記憶中枢は刺激され、何かを思い出しそうになっていた。
「ちーちゃーん!」
姿すら見えぬジャングルの奥地からの声。その声を聞き取れたのたのは、契一人だけだった。
普通ならば聞こえるはずのない距離からの契を呼ぶ声。その声を耳にした時、契の身体に電流が流れたような衝撃が走る
「ひ……め……」
頭が痛い。
契は思わず頭を抱える。その時、自分の手に当たる金属の感触。それは幼き頃、姫華が契にプレゼントしてくれたヘヤピンだった。
「ゴッホゴッホォー!」
ジャングルの木々をなぎ倒しながら、駆けつけたのはゴリラ……ではなく、向日斑だった。
左の肩の上には、花梨。右の方の上には、姫華。
二人の水着姿の少女を乗せての登場だった。




