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140 聖水。

 食事が始まってすぐ、久遠は自分の身を襲っているある異変に気が付きだしていた。


『臭い』


 そう、臭いのだ。

 その異臭は、料理から発せられているものではなく、何処からかわからないが漂ってきている。

 その臭いを簡単に表現するならば……アンモニア臭。

 いわゆる、おしっこの臭いである。

 実は、赤炎東子せきえんとうこは、ズボンとパンツを替えてはくれたが、おしっこを拭きとってくれてはいなかったのだ!!(考えるまでもなく、誰が股間を拭くというのか!)

 それだけでなく、先程の殺す気満々のちぎりの蹴りを食らった際に、あらたに少しばかり漏らしてしまっていた。

 一回漏らしたことが切っ掛けとなり、久遠は漏らしやすい体質へと変化しつつあったのだ……。

 そして、臭いだけでなく、当の本人である久遠は、遂に気がついてしまった。

 自分の内太ももを伝うかすかな湿り気、これが尿であると……。

  

 ――どうしよう……。


 久遠は焦っていた。

 今すぐに席を立って、お風呂に入るかシャワーを浴びるかして、それから着替えればその臭いを取ることは可能だ。しかし、この部屋を出るとき、誰かの隣を通らないとも限らない。さらに、自分が部屋を出た途端、アンモニア臭が部屋から完全に消えてしまった場合、臭いの出処が自分であると証明するようなものではないだろうか! そう、今ここから無策で出ようとすれば、自分が犯人おもらしだと認めることになってしまうのだ。

 高校二年生になってのお漏らし……。

 これは取り返しの付かないほどの、重い重い十字架である。

 久遠は深い苦悩の淵に追いやられていた……。

 苦悩のうちに追いやられていたのは、久遠だけではなかった。


 ――どうにかしてあげないといけませんわ……。


 実はこの時、隣りに座っていたセレスはすでに久遠のお漏らしに感づいていたのだ。

 愛する男が、お漏らし……。

 幻滅して百年の恋が冷めてしまってもおかしくない状況であったが、セレスは違っていた。

 なんとかして久遠を守りぬき、この窮地から助け出すことこそが、彼女であるものの努めであるとすら思っていたのだ。

 

 ――きっと、このお漏らしの原因は、あの冴草契の殺す気満々の蹴りに、怯えさせられたせいに違いありませんわ。神住様は、何も悪くはないのです。すべては、あの冴草契のせいですわ!


 セレスは契を睨みつけた。

 この時のセレスは、久遠以上に混乱していたといえる。

 何故ならば、久遠のおもらしを隠蔽するために、自分自身が今ここで漏らして罪をかぶろうとすら考えていたのだ。

 すでに、セレスは先程から水のガブ飲みを続けている。


 ――そうよ、全ては神住様のためなのよ。それならば、敢えて汚名を被ることでも致しましょう……。


 大量の水分はとった。あとは、膀胱を開放しておもらしをするだけ……。

 しかし、セレスは由緒正しきお嬢様。そのお嬢様が人前で放尿なさるなど、いくら愛する気持ち上がっても出来るものではなかった。

 いや、それをやろうと心に決めることが出来ただけでも、セレスの久遠に対する愛が、尋常ならざるレベルであることが伺い知れた。


 ――やるのよ……。わたくしが神住様を助けるのよ……。


 セレスの顔は焦りと恥ずかしさで真っ赤になっていた。

 その変化に久遠は気がついてはいたのだが、まさか自分をかばうためにおもらしをしようとしているなど、わかりようもなかった。

 遂に、セレスが自分の人生をなげうって、膀胱を開放しようとした……その刹那。


 ボフウゥゥゥゥゥ


 まるで爆音のような音とガスが部屋中に充満した。


「あ、すまんすまん。食べなれない高級料理を食べたせいで、おならが出てしまった」


 そのガスの発生源は向日斑だった。

 人間離れしたそのおならは、久遠の股間のアンモニア臭を消し去ってしまうのに充分たるものだった。

 

 ――いまだ! チャンスは今を置いて他にない!


 久遠はすかさず席を立つと。


「ちょっと、部屋に忘れ物しちゃって取ってくるわー」


 と、焦り気味に言うと、そのまま食道を後にした。

 

「もぉ! お兄ちゃんなにしてんのー! 花梨妹として恥ずかしいよ!」


「がっはっは! すまんすまん!」


 久遠が誰にアンモニア臭に気づかれることなく食道をぬけ出すことが出来たのを確認すると、セレスはホッと安堵の息をついた。

 その安心さ故に……。

 数滴の雫が……

 何者よりも美しい黄金の雫が流れ落ちたのを知るものは誰もいなかった……。



 ※※※※


「ハァハァハァ、良かった! 助かった!」


 久遠は食道を飛び出して、周りに誰も居ないのを確認すると、自分の無事を声を出して確認した。

 

「さて、問題はこれからだ……」


 実は久遠の苦悩は、お漏らしだけではなかった。

 

「俺の部屋って何処なんだろう……」


 久遠の記憶は戻ってはいなかったのだ。

 咄嗟に、契に向かって記憶が戻ったと叫んだのは、相手の隙を突くためのものであって、真実ではなかった。ああでもしないと、下段蹴りが顔面に命中して、二目と見られない顔になっていたことだろう。

 

「そうだな、どうやらズボンとパンツは新しようだから,臭いを取るために風呂に行こう。風呂の場所くらいならば、この建物の見取り図でも見つければなんとかなるだろ……」


 自分の記憶を取り戻すことよりも、お漏らしを隠蔽すること優先する辺り、記憶を失っていても久遠らしいと言えばらしかった。



 ※※※※


「ふぅ……」


 男湯の中で、のんびりと湯船に浸かってくつろいでいるのは七桜璃だった。


『今この時間は、誰もお風呂を使わないから入っておくといいわよ』


 そう赤炎東子せきえんとうこに言われた七桜璃は、久遠のせいで背中にかかった尿と、日頃の疲労を落とすために温泉を満喫していた。

 この温泉、別名ジャングル風呂は、実際のジャングルの中を、強化ガラスでドーム状に覆ってつくられた本格的なもので、時折聞こえてくる森の獣たちの声が良いBGMとなっていた。

 

「本当に、あのバカのせいで、こんなところに来てもふんだり蹴ったりだよ」


 七桜璃は背泳ぎでもするかのように、湯船の中をプカリプカリと半身をさらけ出して浮かんでいた。肝心なところには、狙いすましたかのように湯気が覆いかぶさって見えないようになっていた。

 

「あの、バカ……。ボクのお尻を……」


 パンツを下ろされて、お尻を丸出しにされた挙句それを直視された。

 その時に湧き上がった感情が、怒りなどよりも、羞恥心が上回っていたことに、七桜璃は気がついていない。

 背泳ぎのまま、まるで何かに引き寄せられるかのように、湯船の中に沈んでいく。そして、全身がお湯の中に消えてしまう。

 湯船の中で、身体を卵のように丸めて、七桜璃は考えていた。

 お嬢様が全てで、他の人間に対して感情を向けることなんてなかった。それなのに、今はあの神住久遠と言う人間に、こんなにも生な感情をむき出してしまっている。それはどうしてなんだろう……。

 七桜璃は同年代の友達と言うものがいない。

 もしかすると、これが友達というものに対する感情なのではないか? それとも、これは友達という感情ではなく、別の……。


「ブクブクブクブク……」


 その後に頭に浮かんだ言葉は、吐き出すあぶくとともに消してしまうことにした。

 そんな時、音ゆの脱衣所から物音が聞こえてきた。

 普段の七桜璃であるならば、その音に反応しないはずははなかったのだが、今の七桜璃は考え事で頭が一杯で、その音に気がつくことはできなかった。


「ふぅ、やっとおしっこの臭いと汚れを取ることが出来るぜ……」


「へ……」

 

 こうして、股間にタオルを押し当てた久遠と、びっくりした勢いで素っ裸のまま湯船の中で立ち上がってしまった七桜璃が鉢合わせしたのだった。

 

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