138 白いお尻。
「なんだこれ……」
自分が今まさに、死に直面しているといのに、久遠の脳内にはクエスチョンマークしか浮かび上がってこなかった。
なぜこうなったのか? そいういう意味のクエスチョンマークではない。目の前にいる肉食獣の姿が――絶滅したはずのサーベルタイガーに酷使した動物だという事に混乱していたのだ。
日本どころか、この世界にもう存在しないはずの動物が、今まさに自分の命を奪おうとしている……その状況に対して、久遠が出した答えは……。
「うん、夢だな……」
現実逃避だった。
本当の自分は温かい布団の中で眠っていて、これはいつもの中二病的夢に違いない、そうに決まっている。頭から思い込むことによって、なんとこの危機的状況下でも冷静さを取り戻すことが出来た。
「ふ、夢ならどんと来いだ! さぁ、来やがれ! この久遠様の力を見せつけてやるぜ!」
久遠は近くにあった木の棒を手に取ると、剣に見立てて肉食獣に向けて構えをとった。
「イャァァァっ!」
気合一閃、間髪入れずにその棒切れを最上段から肉食獣に向けて振り下ろす。
久遠の想像図では、闘気を纏った木の棒は、まばゆい光を放ちながら《聖剣エクスカリバー》へと変化して、その肉食獣の身体どころか、強大なエネルギーはこの島すらも真っ二つに切り裂く!
しかし現実はこうである。
振り下ろした木の棒は、狙いを外すこと無く見事に肉食獣の頭部に命中……したのだが、それによって与えられたダメージは皆無。肉食獣は顔色一つ変えること無く、平然としたままだった。かわりに、その木の棒は砕け散ってしまい、久遠の手の中には十センチ足らずになった木の破片が残っただけだった。
「ゆ、夢のくせにやるじゃねえかよ!」
手の中に残った木の棒の破片を投げ捨てると、丹田に気を集中させて気功波を撃つ構えへと移行した。いわゆる《かめ◯め波》の構えである。
小学校中学校と日夜特訓に励んだために、フォームだけならば鳥◯明先生の漫画に劣らないほどの見事な仕上を見せていた。
だが、フォームが完璧なだけで、《か◯はめ波》が撃てるほど世の中というものは甘く出来てはいない。
「で、でねぇ! おらの《デストラクション・ウェーブ》が……」
《デストラクション・ウェーブ》という恥ずかしい名前の気功波を撃とうと、両手をつきだしたはいいが、当然のごとく、そんなものは出るはずもなく、久遠は両手の平を見てアワアワとするだけだった。
そんな久遠の謎の動きを、肉食獣はまるで珍しい動物でも見るような不思議そうな表情で見つめていた。
「なんでだよっ!」
久遠は苛立ちを覚えていた。
――自分の夢の中だというのに、何一つとして必殺技を撃つことが出来ないのはどういうわけなのか!
これじゃ、まるで現実と変わらないじゃねぇか!――って、あれ……?
嫌な予感がした。
これ以上ないほどの嫌な予感が、久遠の脳内を駆け巡っては、身体中に信号を発しだした。
《デンジャー・デンジャー・アラート・アラート》
それと同時に、薬の影響のおかげで和らげられていたジャングルを走り回った疲労感と、周囲の木々に引っかかって身体のあちこちに出来た擦り傷によるヒリヒリする痛みが、一気に久遠の全身を駆け巡ったのだ、
――あれ? 夢って痛みとか疲れとか感じないんじゃなかったっけか? それによく見りゃフルカラーだし、獣臭い臭いもちゃんとするし、もしかして、もしかすると……。
『もしかすると……』の後に続く言葉を、心の中に思い浮かべた時、久遠の額からはねっとりとした冷たい汗がとめどなく流れ落ちてきた。
そこには、先程までの中二病全開で余裕をかましていた男は消え失せてしまっていて、ここに居るのは、この場にペタンとしゃがみこんで、奥歯をガタガタ鳴らしながら、おしっこを漏らしそうになるのを、必死でこらえる哀れな捕食動物の姿があった。
――逃げる! 逃げなきゃ、死ぬ!
頭の中でそう信号を発しても、肝心の身体はその信号に答えてはくれず、しゃがみ込んだままの足はピクリとも動きはしなかった。
まさに、久遠という餌を口にするには、最高のチャンスだというのに、肉食獣はこちらを品定めでもしているかのように、じぃ〜っと見つめるだけで、襲い掛かってくる様子はなかく、少し離れたところから、ぐるぐると久遠の周りを回ったり、クンクンと臭いを嗅いだりといった行動を何度も繰り返し続けていた。
「あば、あばばばばばばばっ……」
人間、追いつめられると何をして良いのか、まるでわからなくなる。
そして、最後には
『おー神よ! 哀れなわたくしをお救いください』
などと、神という超存在に助けを求めるものだ。
しかし、久遠は違っていた。
久遠が最後に助けを求めた存在……それは!!
「たーすーけーてー!! 忍者ァァァァァァァァァッッッ!」
久遠は空を仰ぎ見て、残っているすべての力を使って叫んだのだ! 忍者の名を!!
そのあまりの声の大きさに驚いて、肉食獣は一瞬目を細めた。
そして、その次に肉食獣と久遠が目にしたのだ……。
「ふん、ボ、ボクは別にお前を助けに来たわけじゃないんだからな! 勘違いするなよ!」
定番ツンデレ台詞とともに現れた、忍者装束(夏バージョン)を身にまとった七桜璃の姿だった。
「うわぁぁぁぁん、忍者ァァァァ、怖かったよぉぉォォ!」
鼻水と涙にまみれた顔を恥ずかしげもなく晒すと、久遠はしゃがんだままの状態のまま、忍者の裾を両手で思いっ切り握りしめた。
「や、やめろ! 引っ張るな! それよりも、今はこの状況をどうするかだろ!」
七桜璃が助けに現れたとはいえ、今の現状は何一つとして変わってはおらず、肉食獣は突如飛来した忍者の姿に警戒心を露わにして、威嚇するように低い唸り声を何度も上げた。
「ボクは動物相手に危害を加えるなんてことはしたくないんだ……だから」
七桜璃は懐から野球のボールの大きさほどの物体を取り出すと、地面に向けて勢い良く投げつけた。
投げられたボールは、地面に当たると同時に小さな火花のようなものを上げると、あたり一面にモクモクと煙幕を噴出し始めた。
「いまだ! ボクの背中に掴まって!」
「あ、あう……こ、腰がぬけて……」
「はぁ……仕方がないなぁ」
七桜璃はヤレヤレといった面持ちで、久遠の腕を掴むと、そのまま引きずり起こして自分の背中に載せたのだった。
そして、そのまま空高く飛翔した。
自分よりも重い人間を背負っての飛翔、普通の人間ならば確実に不可能なことであるが、五つ身分身までやってのける七桜璃にとっては大したことではなかった。
「アオォーン!」
煙が晴れ、視界を取り戻した肉食獣は、自分の前に垂れもいなくなったことに気がつくと、少しさみしそうに遠吠えをするのだった。
※※※※
七桜璃は久遠を背中に背負ったまま、何度もジャンプを繰り返して、ジャングルの中をぬけ出すことに成功した。
しかし、七桜璃は先程から背中の一部に違和感を感じていた。
そう、背中が少し濡れているような気がしてならないのだ……。
「まさか……」
背中に居る久遠に視線を向けると、久遠は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「お前まさか、まさか……漏らした……のか……」
久遠は何も答えずにただむせび泣いた……。
パンツをおしっこで濡らしただけではなく、顔を涙で濡らしたのだ。
「ち、違うんや! こ、これはおしっこやない! こ、心の汗なんや! そうなんやでえええ!」
怪しいアクセントの関西弁で、久遠は必死に弁明するのだが、弁明すれば弁明するほど、虚しさが募るだけでしかなかった。
「と、兎に角、もうジャングルも抜けたから、背中から降りてよ! 冷たくて仕方がないし……」
七桜璃は、手荒く荷物を下ろすようにして、久遠を背中から放り投げた。
「ち、違うんやァァァ……」
「はいはい、もうどうでもいいよ……」
「信じてくれえええ!」
久遠は四つん這いで、七桜璃の元まで這いずっていくと、忍者装束の裾を力いっぱい引っ張った。
ズルッ
「え……」
神のいたずらか悪魔のささやきか、偶然にも緩んでしまっていた七桜璃の忍者装束の下半身が、ずりずると脱がされてしまったのだ。しかし、神の奇跡はそこで終わりはしなかった。続いてそれ以上のミラクル引き起こしたのだ! なんと七桜璃は、忍者装束だけでなくパンツも一緒にずり落ちたのだ!!
久遠の顔の前に現れた、七桜璃の小ぶりだけれども張りのある白いお尻は、プリンプリンと揺れるて手招きしているようだった。
「な、な……」
七桜璃の顔が見る見るうちに朱色に染まっていく。
「神様ありがとう……」
七桜璃のお尻様を前にして、久遠は手を合わせて拝んでいた。
そして、その手をおしりに向けようとした刹那……。
半死半生になった久遠が地面を転がったのは言うまでもない……。




