135 いざ別荘へ!
「まさか、寝て起きたら治っているとは……」
下手をすれば救急車を呼んでの入院レベルの体調不良だと思っていたのに、ただ一日寝ていただけで完全に回復した事に、驚きを隠せないでいた。
「まさか、俺の中に眠る真の力が覚醒したのでは……」
心なしか、病気になる前よりも身体全身に力がみなぎっているような気がしてならない。
ただひとつ気になってならないのは、何故かお尻の辺りに痛みがあることだった。
――そう言えば、変な夢を見た気がする……。いきなり綺麗な人にパンツを脱がされてそれで……。
思わず鼻の下が伸びかかった久遠は、いかんいかんと頭を強く振って、その夢のことを忘れようとした。
夢は夢だとしても、尻の辺りが痛いのは紛れも無い現実だ。
尻の痛みの謎を知りたい、などと駄洒落を言っている場合でない状態に、今久遠は直面していた。
それは……。
「何処まで行くんだよおおおおおおおお!」
久遠が今居る場所、それは――飛沫を巻き上げて高速で進む大型クルーザー船のデッキの上だった。
青い空、青い海、全てがペンキで青一色に塗りつぶされてしまった光景と、なれない船旅に酔ってしまったようで、頭がくらくらしてしまいバランスを崩しそうになる。
「大丈夫ですか、神住様? まだお加減がよろしくないのかしら?」
久遠の手をとり、身体を支えたのはセレスだった。
そのまま自然な流れで、久遠の身体に自分の身体をピトッと密着させると、少し照れくさそうにしながら、久遠の額に手を当てた。
「もうお熱は大丈夫みたいですわね?」
セレスは、自分の手から感じ取れる熱が、平熱だったのでホッとした表情を見せた。
「うん。大丈夫。少し船に酔っただけさ」
「それなら良かったですわ。そうだ、赤炎に頼んで酔い止めのお薬を用意させますわ」
と、セレスが言い終わらないうちに、赤炎東子は久遠の横に音もなく現れると、ピルケースから一錠の薬を取り出した。
「神住様、良かったらこのお薬をお飲み下さいませ」
「あ、ありがとう」
流石に、金剛院家の使用人の神出鬼没さに慣れては来たとはいえ、眉一つ動かさずに流せるレベルには到達してはおらず、驚きを隠すことはできないでいた。
久遠が手を伸ばして、その薬を手に取ろうとした時、
「そうです。宜しければお嬢様が、神住様に飲ませてあげるというのはどうでしょう?」
「は?」
久遠は、赤炎東子の言葉の意味が理解できないでいた。
それとは対照的に、その言葉の意味を即座に理解したのは……セレスだった。
「あら、あらあらららら……。赤炎! それはとても良い考えだと思いますわ!」
セレスは残像が残るくらいの超高速で、赤炎東子の手から薬を受け取ると、クルリと久遠の方を振り向いた。その顔は病人でもないのに、赤く火照り呼吸は荒々しかった。
「さぁさぁ、神住様! お口をおあけになってくださいまし」
セレスの白くて長い指が、問答無用で久遠の口元へと向けられた。
「あーん、ですわ!」
この一見可愛いらしい『あーん』には、何者も妨げることの出来ない強固な意思が現れていた。
久遠は即座に逃げたかったが、運動能力からして、セレスの前方を突破することは不可能、そして背後ますぐ海……。まさか、海に飛び込んでまで『あーん』から逃れようとは思わないわけで……。
久遠はこの糞恥ずかしい行為を受け入れざるを得ない状態に追い込まれていた。
その時だった。
久遠の頭の上に、円盤状の物体が飛翔してきたのだ。
反射的に手を伸ばして、久遠はその円盤状の物体を手に取った。
「ごめんなさぁーい。帽子が風に飛ばされちゃってぇ〜」
白いワンピース姿でこちらに駆けて来るのは、桜木姫華だった。
「あ、これ桜木さんのか……」
久遠はあらためてその手にあるものを見てみた、それは何の変哲もないただの、麦わら帽子だった。
船のデッキの上という不慣れな場居を駆けてきた姫華は、久遠の目の前で何かにつまずいて前のめりに倒れそうになる。
「おっと……」
姫華の腰に手をかけるようにして、久遠は崩れかけたバランスを取り戻させることに成功した。
「か、重ね重ねありがとうございます……」
「いや、大丈夫か? あと、これ帽子」
「ありがとうー」
姫華は帽子を手に取ると、頭に被ってみせた。
そして、上目遣いで久遠の方を見ては、何か言葉をかけてもらうのを待ってるように佇んだ。
「あ、あぁ……。凄い似あってるよ。うん、うんうん」
社交辞令ではなく、本当に桜木姫華の白いワンピース姿にその麦わら帽子は似合っていた。背中から白い翼が生えて、空に舞い上がっていったとしてもおかしくないくらいほど、この青い空、青い海を背景にした白いワンピース姿は幻想的に美しかった。
「え、えへへへっ……。嬉しいな……」
帽子のつばで表情を隠していたが、口元の緩みまでは隠しようがなかった。
「……」
微笑まし光景とは裏腹に、セレスはそれを見て嫉妬の炎をメラメラと燃やすのだった。
「あ……。セ、セレスさんごめんなさい」
セレスの嫉妬の炎の熱を感じ取ったのか、姫華は少し怯えたように深々と頭を下げた。
「どうして、わたくしにお謝りになられるのかしら? わたくしにはさっぱりわかりませんわ! ほんと、サッパリですわッッ!」
自分自身では、心の中を隠しているつもりでなのだろうが、セレスの胸の内は言葉の節々からだだ漏れ状態だった。
セレスは、自分の気持を偽ってすました顔をが出来るほどに、大人ではなかった。むしろ、この中で一番子供なのかもしれなかった。
世間というものから隔離された世界で生きてきたセレスにとって、思うようにならなことに対して、どうすればいいという解決方法がわからない。自分の望むものが全て手に入るのが当たり前だった。それが、今こんなやるせない気持ちを感じてしまっている。
これは、精神的においては成長といえるのだが、そんな成長よりも、セレスは大好きな人、神住久遠が欲しかったのだ。
「あ、あれだぞ! セレスのドレス姿だって、あれだぞ、うん。すごい綺麗だぞ……」
「お世辞はいいですわ」
「いやいや、お世辞じゃないって」
「本当ですの?」
セレスは、久遠の前でくるりと華麗にターンを決めてみせた。長いスカートが開いた花びらのようにふわりと宙を舞った。その優美な所作に、久遠は思わずだらしなく口を開いて見とれてしまっていた。
「隙ありですわ」
「うがっ!?」
セレスはもう一回天ターンすると見せかけて、その回転の動きのまま、久遠の口の中にその白い指先を向けた。不意をつかれた久遠は、なすすべもなくその指を口内に招き入れてしまう。そして、指先にあった薬は、スルリと食道の中を落ちていった。
「うふふふ、やりましたわ」
セレスは、久遠の口の中に入った指先を、愛おしそうに眺めると、唇にそれを押し当てて間接キスの形をとってみせた。
そして、どうだ見たかというふうに、腰に手を当てて姫華を挑発するように視線を向けたのだった。
姫華は、どうリアクションを取っていいかわからないまま、申し訳な下げに視線を下に向けることしか出来なかった。
「わぁい、お兄ちゃん! 海だよー! 海なんだよー!」
「花梨、お前その台詞、この船に乗ってから何回言ったと思ってるんだ……」
久遠たちから離れること十数メートルの所に、向日斑兄妹は居た。
花梨はおへそ丸出しのタンクトップに、ホットパンツという、身体のラインが丸見えのセクシーな格好をしていた。それに、何処から借りてきたのか船長がつけているような帽子を頭にかぶっていた。
向日斑はといえば……ショートパンツに、前面に『ウホウホ』バックに『ゴリラ』と文字が書かれたTシャツを着ていた。
「だってーだってー。海なんだよー! 海なんだから、海って言っちゃうのは普通じゃーん」
「でもな、限度ってものがあるだろ。花梨、お前すでに百回以上同じことを言ってるんだぞ? それに対して毎回リアクションを取らなきゃいけない俺のことも考えてくれよ」
そんなことを言いながら、百回以上ちゃんとリアクションを返してあげているところが、良いお兄ちゃんなのだった。
「しょうが無いお兄ちゃんだなぁ、じゃ、花梨をおんぶしてくれたらゆるしてしんぜよー」
「なんでそうなるんだ……」
花梨は向日斑の言葉など聞く耳持たずに、ヒョイと背中に飛び乗った。
「わぁいわぁい、これでもっと遠くまで見えるようになったよー」
「そうかそうか、それは良かったな」
和気あいあい、仲睦まじい、そんな言葉がよく似合う二人の光景がそこにはあった。
そして、そんな二人から離れること更に数メートル。
「はぁ……」
手すりにもたれかかって、海に深い溜息を投げ込んでいるのは、冴草契だった。
冴草契は、いつもの様に、七分丈のジーンズに、少しダボッとしたベースボールシャツと言う出で立ちだった。
先程までは、姫華と二人で他愛もない会話をしていたのだが、その姫華が久遠のもとに行ってしまい、一人ぼっちになってたそがれていたのだ。
契も、追いかけるようにそちらに向かえば良いのだが、あのラブコメの波動が漂う空間に行くのには少しばかり気後れしてしまうのだった。
「何かがおかしいんだよね……」
契は声に出して呟いた。
おかしいとは、姫華の行動である。
姫華の帽子が飛んでいったのは、突風が吹いてのアクシデントにほかならない。
そして
『わたしが取ってくるよ!』
との、契の言葉を、姫華は
『いい! 自分で取ってくるから!』
と、強く否定したのだ。
契に迷惑を掛けたくないから、という風に取ればおかしいことなど何も無いのだが、どうも何かが引っかかるのだ。
嬉しそうに帽子を追いかけていく姿は、まるで久遠のところに行く口実ができて嬉しがっているように見えてならなかったのだ。
「ううん。姫に限ってそんなことは……」
桜木姫華と神住久遠の関係は、嘘の電波での繋がりでしかない。
しかも最近は、その電波の話をすることすらもなくなってきていた。だから、もう神住久遠に対する関心はなくなってしまったのだと、契は勝手に思い込んでいた。
だが、それはなにか大きな間違いがあるのではないか……。
夏休みに入る前、入ってから、その数日の姫華の行動を見るに、そう思わずにはいられなかったのだ。
「まさか……だよね? そうだよね?」
契は海を見つめながら、自問自答を繰り返すのだった。
※※※※
「しかし、かなりの時間船に載ってるようなきがするんだが……。まさか、このまま海外に行くんじゃないだろうな?」
何処までも続く水平線を見ながら、久遠はすこしばかり不安になっていた。
パスポート等用意しては居ないのだ。
きっと、それは久遠以外のみんなもそうに違いない。
「安心してくださいまし。日本国内ですわ。ただ、領海ギリギリの場所にありますので、微妙といえば微妙ですけれども……」
「何処だよ!」
「何処と申されましても……。金剛院家が所持している島のの一つですわ」
「なんと……」
久遠の想像する別荘というのは、コテージ風の建物のイメージだった。それなのに、このお嬢様の別荘とは、建物のみならず島そのものだというではないか!
久遠は、あらためて住む世界が違うことを認識させられるのだった。
「ほら、もう見えてきましたわよ」
セレスの指差した水平線の先に、小さな島が見えてきた。
「これが、わたくしたちの目的地『神無島』ですわ」
「わぁい、島だよー! お兄ちゃん島だよー!」
おんぶから肩車へと体勢をチェンジして、向日斑兄妹がやってきた。
その後から、ふてくされた表情でゆっくりやってきたのは、冴草契だった。
こうして、久遠、セレス、向日斑、花梨、姫華、契を乗せたクルーザーは『神無島』に到着したのだった。




