番外編 07 執事長ブラッドとメイド三人娘。
金剛院家には、数多くの使用人が働いている。
その中でも一際異彩を放っているのが、全てを束ねる執事長でありながら、痴態を動画に収めることに全力を尽くすブラッド。そして、その直属の部下のメイド三人娘である。
※※※※
執事長ブラッドの朝は早い……いや、早い遅いという概念を超越している。
「うん、今日もいいお天気です」
と、いかにも今目が覚めたような台詞を言ってのけているが、実際の所は違っている。ブラッドは部屋に備え付けられているベッドに、身体を横たえたことなどなかった。そう一睡足りとも睡眠をとっていないだ。
『ベッドの中に入るのは、女性を楽しませる時と、幼子を寝かしつける時、そして寿命を全うした時だけですよ』
ブラッドは、鏡の前で執事服とネクタイを整えつつ、使い慣れた手帳で今日のスケジュールを確認する。
動画編集のために、様々なパソコンソフトや、デジタルガジェットを使いこなすブラッドだったが、手帳というアナログな物に愛着を持っていた。
『手書きの文字は良いものです。暖かみがあり書いた人の魂が宿っている』
手帳の一ページ目には、子供が書いたような拙い文字が記されていた。その文字は、日本語でもなければ、英語ですらなかった……。
手帳の文字を、まるで我が子の頭でも撫でるように指先で優しくなぞると、軽く首を左右に一回転させる。
「さてさて、今日も退屈のしない一日が始まりますかな」
こうして、執事服ブラッドの一日が始まるのだ。
※※※※
「うーん……」
けだるい吐息が口から漏れる。
ベッドの中で無防備な身体を晒すのは、メイド三人娘の一人赤炎東子だ。
いつもクールな表情を崩さない赤炎東子であったが、朝だけは違っていた。赤炎東子は重度の低血圧なのだ。
そのせいで、目覚まし時計を起きる時間の二時間前にはセットして置かなければ、しっかり頭と身体が目覚めてくれないのだ。
ジリジリジリジリジリ
けたたましく鳴り響く、目覚ましの音に反応して、赤炎東子はベッドの中から手を伸ばして、目覚ましを止める。そのまま一度布団の中に潜り込み直そうとするのだが、スヌーズ機能のついた目覚ましはそれを許してはくれなかった。
二度目の目覚ましの音に、強力な重力に引かれたような重い身体を無理矢理引き起こして、ベッドの上に腰掛けるまでに至ることが出来た。
「ふわぁ……」
まだ開ききらない薄目のまま、安定しない首を左右に漂う風船のようにふらつかせて、ボサボサになった長い髪をベッドにだらし無く垂らす姿は、いつも毅然とした態度と鋭い鷹の目を持つ赤炎東子と、同じ人物と到底思えないほどの落差だった。
このまま、ボーッとした状態を一時間ほど続けることによって、赤炎東子はいつもの赤炎東子へと変貌していくのである。
そして、一時間後……。
鋭い眼差し、キリッと引き締まった口元と目元、定規でも入れたかのようにピンと伸びた背筋背筋、そこには大人の女性が居た。
さらに最後の締めとして、自分で配合した怪しい薬剤がたっぷり入ったブレンドティーを優雅に口に運ぶことで、赤炎東子の脳は完全に覚醒するのである。
「さて、今日も職務に励むといたしますか……」
メイド服のいたるところに、注射器と謎薬品を忍ばせ終わると、三百六十度、どこからみても隙のない女、赤炎東子の完成である。
「はぁ〜、できればこの新しい薬品を試したいところなんですけれど、誰か実験台になってくれないでしょうかねぇ……」
注射器の中の薬品を、うっとりとした目で見つけるその姿は、妖艶を通りすぎて、悪魔のそれと同じなのだった……。
※※※※
「うん! 今日も元気だご飯が上手い!」
ピッタリとしたTシャツ一枚に、パンツ姿というはしたない姿で、お新香をおかずにどんぶり飯をかっこむのは、青江虎道だ。
低血圧の赤炎東子とは正反対に、青江虎道の寝起きは最高に良かった。
『武闘家たるもの、寝てる時にいつ襲われてもいいようにしておかないとな!』
との言葉通り、寝ている時であろうと、すぐに臨戦態勢を取れるように心がけているのである。逆を言えば、寝付きも人一倍に良かった。かの有名な《野比の◯太》を超えるほど、この青江虎道は寝付きがいいのだ!
故に、仕事中に立ったまま気づかれずに寝るなどお茶の子さいさい。さらには、動きながら寝るという睡眠拳すら身に着けているのだ。
熟睡状態から繰り出される拳の軌道は、本人の意識が存在していないのだから、誰にも読みようがない! 相手が熟練の武闘家であればあるほどに、その思考は泥沼にハマり自滅していくという恐ろしい拳法だった。最大の問題点は、狙ってその技を出せないところにあった。青江虎道の睡魔が最大限に達した時にだけ、発動するという幻の技なのである。
「ふぅ、美味しかった! ごちそうさま」
ほっぺたについたごはん粒を、指先でつまむとそのまま口の中に放り込む。
朝からおひつ一杯のご飯を平らげるのは、青江虎道にとっては普通の食事量だった。
それでいて、筋肉質とはいえ、近世の取れた見事なスタイルを保っているのは、尋常ならざる運動量を毎日課しているからに他ならない。
「さて、軽く運動するかー」
青江虎道の部屋には、大きな炊飯器が一つ、大きな冷蔵庫が一つ、そしてベッド。残りの部屋のスペースは、全て筋肉トレーニング用の器具で足場がないほど埋めつくれていた。
「よっと」
ダンベルをまるでお手玉のように軽々と放り投げると、それを両手に持って膝を落とす。
青江虎道ほどの人間レベルを超え格闘家からすると、このようなダンベルの重量などまるで羽根のようなものなのだが、それを覆すのもまた青江虎道の人間離れした――想像力である。
「これはわたしの両腕を引きちぎるほどの超重量の塊……。これはわたしの両腕を引きちぎるほどの超重量の塊……」
呪文のように繰り返しつぶやくと、青江虎道の踏ん張っていた床が、本当に超重量の不可を受けているかのように、沈み込んでいくではないか!
青江虎道の超想像力が、物理法則などを完全に無視して、存在し得ないものを具現化してしまっているのだ。
それは自分のみならず、他の物にすら影響を及ばせるという……神にも等しい力なのだが、当の本人は……。
『トレーニングにすげぇ便利!』
としか思っていないようだった。
こうして自室での朝のトレーニングを済ますと、身体はもう汗だくだった。
本人的には、汗だくになっていようと、汗臭かろうとどうでもいいのだが、お嬢様である金剛院セレスの仕える身としては、最低限の身だしなみを整えて置かなければならなかった。というのは建前で、きちんとしていないと、赤炎東子の心の痛いところを的確にクリティカルヒットを決めるお説教を食らうハメになるからだった。
「しょーがないなぁ……」
その場にTシャツとパンツを脱ぎ捨てて素っ裸になると、嫌々ながらバスタオルを片手にシャワーを浴びに向かう。
熱いシャワーが、身体をラインをなぞるように滴り落ちていく。
これだけの筋量を誇っているというに、青江虎道の身体はヘラクレスのように大きくなること無く、その全てをギュッと内包していた。
青江虎道の身長は百六十センチ足らず、それなのに驚くべきことに体重はなんと百キロを超える。高密度に発達した筋肉が、鋼鉄のような硬さとパワーを生んでいるのだ。
「お、そうだそうだ! あとでシルフィーのやつに稽古をつけてやらないとな……」
シルフィーとは、向日斑のファーストキスを奪った雌ゴリラだ。
いつの日か、シルフィーを鍛えあげて、向日斑を愛する熱い想いを成就させてやる! そんなことを思っていたのだが、その事を向日斑が知れば、土下座をしてでも『本当にやめてください!』と頼み込んだことだろう。
「そう言えば、わたしも恋ってやつをしたことがないな……。あれかなぁ、恋する乙女は強いって言うからなぁ……。恋すると強くなれるんだろうかなぁ……。そいうえば、お嬢様はあの神住久遠とかいう変態男を好きになってから、なんだか強くなってきているような気が……やっぱ気のせいかな」
金剛院セレスの護身術の先生を務めているのも、この青江虎道だった。
セレスは持ち前の運動神経とバランス感覚で、見る見るうちに強くなっていった。が、それは人間としてのレベルであって、青江虎道からすれば普通の子供と大差ないほどでしなかったのだ。だが、神住久遠と出会ってから、戦闘力的だけでなく、人間として強く成長していっているのが、神経が全て筋肉で出来ている鈍感な青江虎道ですら感じ取れていた。
「恋ねぇ……。わたしより強い男が現れたら考えるとするかなぁ……」
そんな奴がこの世にいるのか?
居るのだ!
この世どころか、この屋敷内に一人存在しているのだ。
そう、執事長ブラッドである。
ブラッドの戦闘能力は、人間のレベルを超越した青江虎道ですら、計り知れない次元にまで到達しているに違いないと感じ取っていた。
冗談でも、青江虎道はブラッドに戦いを挑もうなどとは思いはしない。本能がヤバイと告げているのだ。
「ブラッド様に惚れるとか……」
シャワー室の鏡にうつる自分の顔が、ほんのり赤く染まっていることに、この時の青江虎道は気がついてはいなかったのだった。
※※※※
「ありゃ、気が付いたら朝になってしまったのだー」
頭にゴーグルをつけたオイルまみれの小さな少女。
この一見少女にしか見えない女性は、メイド三人娘の一人、黄影里里だ。
黄影里里の部屋は、何に使うものなのか見当も付かない機械部品で埋もれていた。
人間よりも機械が大好き。
いつの日か人工知能を作り上げて、それをお婿さんにする!
そんなわけの分からない思考を持つ、黄影里里は天才だった。
天才とキチ◯イは、紙一重だとよく言われるが、黄影里里はかなりキチガ◯のほうに傾いた危うい感じの天才だった。
この金剛院邸のセキュリティシステムは全てこの黄影里里が作り上げたもので、今までに侵入者を許したことはない。
いや、訂正させてもらおう。
侵入を許すことは今までに何度かあったのだが、それは全て黄影里里の計算からなるものであり、金剛院邸内に設置された防衛システムのテストを兼ねていたのだ。
哀れテスト台に選ばれた侵入者は、死屍累々となって横たわるのだった。
つまるところ、自分の愛する機械たちのためならば、平気で人間の命を奪ってしまう。
冷酷非道?
そうではない、そういう感情が完全に欠落してしまっているのだ。
人間的な善悪、そんなものはこの黄影里里には存在しない。
『どうして殺しちゃいけないのだー?』
こんなことを、子供のようなあどけない表情をして言ってのける。
今までに、自分の手で直接的では無いにしても、自分の発明したマシーンで奪った命は……。
それを制御しているのが、執事長ブラッドである。
「うんしょ、うんしょ」
機体部品の山から、やっとのことで這い出ると、やっと黄影里里の全身の姿が見えるようになった。
黄影里里はオイルでところどころ黒いシミをつけた白衣を身にまとっていた。
秘密であるが、この白衣の下は全裸である。
パンツの締め付ける感覚が嫌いなので、基本的にパンツは履かないのだ。さらに、ブラジャーにおいては、つけるほどないので必要なかった。
ぺたりと機械の上に座り込んで、ふぅーと大きく息を吐くと……。
「甘いもの……」
と、天に向かって呟いた。
天才の頭脳は、絶えず甘いものを求めていた。
脳が糖分を欲しているのだ。
「甘いものが食べたいのだーっ!」
黄影里里の声に反応して、部屋を埋め尽くしている機械部品が困っているかのようにチカチカと点灯し始める。
黄影里里は甘いものが食べられないのなら、どこぞの国に核ミサイルくらいは打ち込みかねない。
「里里様 里里様、チョコレートをオモチイタシマシタ」
部屋のドアを突き破って現れたのは、大きなドラム缶……ではなく、黄影里里が昔に作ったお手伝いロボ《ドラム缶子》である。
ドラム缶に適当につけられた二本のアーム。そして足代わりにつけられたキャタピラー。露骨に合成音声だとわかる声。
何時の時代のデザインのロボだよ! と、誰しも突っ込もざるを得ない設計である。
「はよ! お口にはよー!」
「ハイ、里里様」
ドラム缶子は、腕のアームに板チョコを掴むと、それを伸ばして黄影里里の口に運んだ。
まるで、餌に食らいつく動物園の動物のように、黄影里里はそれに武者振りついた。
ペロペロペロと、最後はアームにこびりついたチョコを舐めとってしまうほどだった。
「うむ! 満足なのだー」
「ソレハヨウゴザイマシタ」
「んじゃ、もう少し寝るのだー!」
「エエエエエエエ」
黄影里里は機械の山を泳ぐようにして渡って行きベッドにたどり着くと、何事もなかったかのように眠りについてしまった。
「エ、エェェェェー」
ドラム缶子は、途方に暮れて立ちすくむと、次に目が覚めるまで物言わずにただ待つのだった。




