128 本当のキス。
大型台風のようなハイパー向日斑が去った後の蛇紋邸の有様は、惨憺たるものだった。
蛇紋邸の至る所には、クレーターのような穴ぼこが無数にできているわ、謎の液体(向日斑の唾液&花咲里の汗とおしっ◯)は四散しているわ、アチラコチラに警備員、用心棒が大の字になって伸びているわ、状況を知らぬものがこの光景を見たら、自衛隊に連絡をしてしまいそうなほどの異常事態だった。
「え? え? どうなってるの……。俺の最強の御庭番衆は……何処に行っちゃったの……」
今まで背景に溶け込むほどに空気だった蛇紋神羅は、状況が何一つ飲み込めないまま、闇夜に消えていった花咲里を探し続けていた。
「さてと、お前を守る御庭番衆とやらは居なくなったわけだけれど、どうするのかなぁ〜?」
「ふっ、もう日も暮れたことだし……。今日はこれぐらいにしておいてやるわ! あーっはっはっはっはっは」
と、顔をひきつらせて退場を決め込む蛇紋神羅を、俺たちは途中まで何事もないように見送りかけていたが……そう言えば全ての黒幕ってこいつだったんじゃねえか? ということを思い出したのだった。
高笑いと偉そうな態度をとっていないと、この男びっくりするくらいにキャラが立っていない……。おかげでこいつが何者であるか忘れかけてしまっていた……。
「忍者頼む」
俺の腕の中に抱きしめられたままの忍者は、コクリと小さく頷くと、懐から一本のクナイを取り出して、蛇紋神羅めがけて投げつけた。
「ひぃっ」
蛇紋神羅の頬をかすめたクナイは、脱兎のごとく逃げる足を止めることに成功した。
「や、やめろ。俺は、俺は何も悪く無い。いや、悪かったかもしれないが、悪くないんだ? そうだ、百万円やろうじゃないか? 庶民からすれば大金だろう? なぁ、この大金を受け取って、今日は何もなかったということで帰ってくれるというのはどうだろうか? 名案だ、うんうん名案だな!」
「百万円だと! 俺たちの傷ついた心の代償が百万円だと! ……百万円かぁ」
俺の高性能コンピューター並みの頭脳が、百万円で出来ることを素早く計算しだした。
百万円あれば、あのゲームも買って、パソコンも高性能なのに新調してだな……。さらに、あれもこれも……全部買えるじゃないか。ここで、俺が怒りを抑えるだけで、ありとあらゆる欲望が金の力で満たされるのだ……これは良い取引ではないのか!
「ま・さ・か! お金に目がくらんで、当初の目的を遂行しないなんて言う、男らしくない選択をしたりはしないわよねぇ……」
「まさか、お嬢様の想い人である、神住久遠ともあろう男が、そんな選択肢を選ぶわけが、な・い・よ・ね!」
冴草契と、忍者が、俺を軽蔑するような眼差しで見つめている。
「あ、あはははは、そんなわけ無いだろ! お金じゃないんだよ! これは、俺たちだけでなく、傷つけられたセレスの思いもかかっているんだぞ! 俺が金なんかで懐柔されるわけがないだろ!」
実際のところかなり金に傾いていたことは、絶対にこいつらに言えやしない。まぁ言わなくても、薄々感づかれていたに違いないのだが……。
「え、えぇい! 御庭番衆が二人だけだと思うなよ!」
「ふ、二人だけじゃないのか?」
イケメガ、花咲里、このレベルの御庭番衆がまだ他にいるとすれば、ハイパー向日斑が何処かに消え去り、忍者も満身創痍、さらに花梨はいまだに口からエクトプラズムを吐いて気絶したまま、冴草契は……まぁ空気。こんな状況では、太刀打ち出来はしない……。俺の額に汗が流れ落ちた。
「まぁ、今日ここに居たのは二人だけだったがな! あーっはっはっは!」
「意味ねえじゃねえか!」
俺は忍者を抱えたまま、バランスを崩してずっこけかけた。
「そうだな!」
何故か、蛇紋神羅は胸を張って大威張りに言ってのけた。
「普通さ、今居なくても居るような素振りをして、俺たちを警戒させるべきもんなんじゃないのか?」
「そうか? そういうものなのか? ふむふむ、神住久遠、庶民の割にはなかなかものを考えているではないか! 褒めてつかわそう! 警戒させるために云々かんぬんと……」
蛇紋神羅は、ポケットの中からメモを取り出すと、俺の言ったことをきっちりと書き留めていた。
まぁ、こういったところが、悪役として憎めないところなのだろうが、それはそれ、これはこれだ。ここはしっかりとけじめを付けなければならない……。
だがしかし、よく考えてもらいたい。この俺、神住久遠は、今まで暴力を振るったことがあったであろうか? 無い! 何故無いのか? 怖いからだ……。相手を殴るってことはさ、痛いだろ? そんなことを相手に強いるなんて……俺にはとてもとても……。俺からすれば、悠然と武力を行使する、冴草契たちは、実のところ異次元の存在のようなものなのだ。
そりゃ、俺だって中二病だ。頭の中では、敵とのバトルを何度も何度もシミュレーションしている。けれど、現実は別だ。もし、今相手に攻撃しなければ俺が殺されるという場合でもない限り、俺は相手に暴力を振るいたくはない……。ああ、軟弱者、チキン野郎と呼びたければ、好きに呼んでくれ……。それでも、俺という人間は、そう言う人間なのだ……。殴られることはあれども、相手を殴ることは出来ない……。そんな気弱な男、それが神住久遠、俺なのだ。
けれど、俺の気持ちはそれでいいとしても、セレスは別だ。
こいつのせいで、こいつがイケメガを使った策を弄したせいで、セレスは泣いていた。
それだけは、それだけは許してはいけない。
「蛇紋神羅! 俺は、お前を殴る!」
そう言って、俺は名残惜しいが抱きかかえていた忍者を、ゆっくりと地面に下ろした。
ゆっくりゆっくりと、俺は蛇紋神羅に詰め寄っていく。
蛇紋神羅は、観念したかのようにその場を動こうとはしなかった。
「セレスの心の痛み、その分だけは償ってもらうぞ!」
蛇紋神羅は歯を食いしばって、俺が振り下ろすであろう拳を待ち構えていた。こういう所だけは、潔いものだなと、俺は感心した。
俺は振り上げた拳たまま、プルプルと腕を振るわせるだけで、下ろすことができないでいた。
殴って何になるのか? それで気が晴れるのか? そんな単純なもんなのか?
「違う。これはきっと違う……。俺が求めているの暴力での解決なんかじゃねえ。謝罪だ! 俺たちに迷惑をかけたことを、心から謝罪してもらおう」
俺は手を下ろして、蛇紋神羅を睨みつけた。
「謝罪? この俺、蛇紋神羅様が、庶民に倒して頭を下げて許しを請えというのか? 馬鹿な……そんな馬鹿なことが出来るわけがないだろうが!」
「そんな馬鹿なことを、今ここでお前はするんだよ!」
俺は今日一番の強気な台詞を、蛇紋神羅に向けてぶつけた。
この蛇紋神羅、殴られる覚悟はあっても、頭を下げる覚悟はからっきしのようだった。これが、名門家のプライドというやつなのだろうか。
俺は焦りを隠せないでいた。こんなことをしている間にも、増援の警備員や、今ここに居ないという他の御庭番衆が駆けつけるかもしれない。これは時間との戦いだ。
いざとなれば、冴草契や忍者の暴力を当てにしてでも、こいつの頭を下げさせてやる……。俺の力じゃなく卑怯だと言われても、俺にはそれくらいしか……。
と、苦渋の決断を迫られていた時……。
「いいえ、そんな馬鹿男に頭を下げてもらっても、わたくしの心傷はちっとも癒えやしませんですわ」
「セ、セレス……」
優美なドレスを身にまとい、夜だというのにフリルの施された日傘を手にして現れたのは、金剛院セレス、その人だった。
「神住さま、事の事情はブラッドから聞きましたわ」
老紳士ブラッドさんは、セレスの横にかしずいてたまま、こちらに笑みを向けた。
「わたくしは、こんな馬鹿男の謝罪など必要としておりません。そうですわね、必要としているのは、幼少時の馬鹿な紙切れ一枚を用いて、婚約だなどとの賜っているのを、撤回していただくことくらいですわね」
「な……。お、俺が今まで大事に保管してきた、この二人の愛の証を馬鹿な紙切れだと言うのか……」
蛇紋神羅は懐から例のボロボロに成った画用紙を取り出した。
「ブラッド」
「はい、お嬢様」
ブラッドは、残像すら見えぬ神速の速さで、その画用紙を蛇紋神羅の手から奪い取ると、セレスに手渡した。
「へぇ〜。これがそうなんですわね。残念ですけれど、わたくしこれを見ても何も思い出せませんわ。きっと、子供の頃のお遊びだったに違いありませんわ。それを後生大事に今まで持っていたことには、感嘆の念を抱きはしますけれど、今のわたくしの気持ちとはまるで関係ありませんわ。ですから……」
セレスは、その画用紙を見るも無残にビリビリと破り捨てた。紙切れは風に吹かれるままにハラリハラリとゆっくりと地面に落ちていった。
「なんと……」
蛇紋神羅は、強烈なパンチでも食らったかのように、両頬を抑えながらその場にしゃがみこんでしまった。
そして、そのまま地面に顔を押し付けうなだれた姿は、まるで土下座をしているように見えた。正直なところ、俺は少し同情してしまっていた。
「さて、こんな馬鹿男のことはどうでもいいんでの。わたくしが、ちゃんと責任をとってもらうのは、神住様ですから」
「え? 俺? 俺なの?」
「そうですわ。あの空手バカ女と、キ、キスをしたという事実は、たとえ馬鹿男の策略だとしても、拭うことの出来ない事実なのです。だから……」
「だから……」
俺はゴクリとつばを飲み込んだ。
「わたくしにも、責任をもって……。キ、キ、キ、キスしてもらいますわ……」
俺の返事を待つこと無く、日傘を投げ捨てたセレスは、少し強引に俺の首に腕を回す。そのまま自分の身体を引き寄せて、俺の真正面に顔を向けて目を閉じた。逃げようと思えば逃げることは出来た。だが、俺はそれを抵抗もせずにすんなりと受け入れた。
「そちらから……。そちらからお願いしますわ……」
弱々しい小動物のような囁きが、いつも自信に満ちているセレスの口からこぼれ落ちる。
セレスの顔が俺の視界を塞ぐ中、僅かに残された視界の隙間から、花梨と同様に口からエクトプラズムを吐き出して、ゾンビさながらの状態になっている蛇紋神羅の姿が目に映った。
「わかった……」
これは贖罪なのか? これは愛情なのか? いや、何でもない、これは《キス》でしかない。
俺は唇まで五センチと迫った状態から、自分の首を傾けてその距離を詰める。
まさか、セレスとのキスが、こんな衆人環視のもとに行われるなんて思いもしなかった。いや、冴草契とのキスなんてのはそれ以上に予想できなかったわけだけれど。
つまりは、キスも恋も、予想のつかないところで待ち受けているということだ……。
混乱した思考を頭のなかに残したまま、俺は遂にセレスの唇に自分の唇をあてがう。
頭のなかを駆け巡る様々な俺の思いは、唇と唇を合わせた瞬間に霧散するかのように全て消え去ってしまった。
柔らかい……とても柔らかい……。
何かが流れ込んでくる。愛? 感情? 快楽? 熱? わからない。
俺は目を開けて、セレスの顔を見たいという欲求に駆られたが、それ以上にこの唇の感触を長く味わっていたいという思いが本能を支配してしまっていた。
これは冴草契の時とはまるで違う。心を操られていた時には、何も感じなかった。
けれど、今は……感情の渦が俺を飲み込もうとしている……。
これが、キス? これが愛?
地球上の時間が、静止したかような、無限にも感じられる感覚が俺の身体の中を流れていた……。




