121 偽りのキス。
俺の身体の中に篭った熱が、アイスコーヒーによって冷まされていく。
冷却された俺の脳内CPUは、精密に正確に働き出す、はずだと思っていた……。
「なぁ、どうするよ……」
俺は目の前に鎮座したまま、黙して語らないダンボールちゃんに語りかける。
ダンボールちゃんは、きっと気恥ずかしがり屋に違いないのだろう。言葉も思いも告げられずに、モジモジとしたまま口をつぐんでいるのだ。なんと、健気で可愛らしい子であろうか。
「ダンボールちゃんは、笑顔がとっても素敵だね」
と、そこまで言ったところで、こいつ何処が顔なんだろうか……という思いに至るのだった。
さて、イケメガのマネをしていたところで、事態は何も打開されない。それどころか、俺のすぐ横では、おぞましくも気持ち悪い会話が続けられているのだ。
「契ちゃんは、普段はどんなことをしてるのかな?」
眼鏡と歯が、LEDでも仕込まれているかのように光り輝く。
「え、普段は……。女の子と談笑したりとか……」
おいおい、それは女の子っていうか、彼女だろ? 百合だからなお前!
「そうだ、デザートにケーキとか食べる? 女の子は甘い物は別腹って言うしね」
イケメガは爽やかに微笑んで見せる。
「じゃ、頼んじゃおうかなぁ……」
おいおい! お前はデザートというより、ガッハッハと笑いながら、どんぶり飯三倍はおかわりする感じだろ! しらんけど! 想像だけどな!
いかん、このままでは冴草契がどうこうなる前に、俺の精神がどうにかなってしまいそうだ。さっきから、ずっと鳥肌立ちっぱなしだしな……。
俺の予想があたっているとするならば、奴の眼鏡が確実に怪しいのだ。だって、普通眼鏡は光らないもん! いや、俺の知らないところでキザな台詞を言うと光る眼鏡ってのが発売されていれば知らないけれども、そんときはそんときだで、土下座の一つでもすれば許してくれるだろう。
俺のプライドは眼鏡より安いんだぜ?
そうと決めたならば、有言実行するのみ。
俺は何かに足を引っ掛けて、バランスを崩したふりをして、あのイケメガの眼鏡に手をかける。そして、そのまま顔面から剥ぎとってしまえば良い。
「よし、行くぞ」
……
…………
……………………
と、決意してから時間が経過すること五分。
俺は未だにその計画を実行できずにいた。
『あれだ、タイミングが合わない』
『あいつの座っている角度が悪い』
『今日は金曜日だし日が悪い』
『なんか、うんこしたい』
俺の頭のなかで、ありったけの言い訳をかき集めては、行動に移そうとする気持ちを押しとどめていたのだ。ああ、そうさ、俺はチキンさ! 仲間内ならまだしも、初対面の相手に、いきなり……ってのはどうかと思ってしまっているのさ。
まぁ、俺も数カ月前までは完全なボッチだったわけだし、仕方ないじゃん? だよね? そうだよね?
「意気地なし! わたしと一緒に、尾行を続けてきたあなたは何処に行ってしまったの? ここまで見事にスニーキングミッションを成し遂げたあなたなら出来る。ううん、わたしの信じている、愛しているあなたならきっと出来るわ……」
「だ、ダンボールちゃん!!」
俺は聞いた。俺は聞いたのだ、ダンボールちゃんの声を……。それはきっと、っていうか確実に幻聴に違いなかった。俺の頭がどうかしちまっているのに間違いなかった。現実逃避以外の何物でもなかった。それでも聞こえてしまったのだから仕方がない。その無機物であるボロボロのダンボールから発せられる幻聴に心を揺れ動かされたのだから……。
「ありがとうよ! 俺はやるぜ!」
決意に満ちた俺の瞳を、ダンボールちゃんは物言わずに暖かな瞳で見守ってくれた。
俺はすっくと立ち上がると……。
「おっと、足が滑ったー」
と、棒読み台詞でイケメガ目掛けて倒れこむ。
唐突な出来事に、イケメガはこちらを振り返ることしかできないで、椅子に座ったまま倒れこむ俺を行け止める形になる。
角度はオッケー。タイミングもオッケー。
俺は左手を眼鏡に向けて目一杯伸ばす、その伸ばした手に金属の感触をしっかりと感じ取る。
『とった!』
倒れこんだ俺の上半身は、なんとイケメガの膝の上に軟着陸を決めていた。男の膝枕など、気色悪い以外のなにものでもない(ニンジャは除く)。
「大丈夫ですか?」
顔から眼鏡を分離させられた、イケメガが俺の顔を覗き込んだ。
「ふっ、大丈夫かだと? 大丈夫じゃないのはお前のほうだろ?」
「はっ? 目、眼鏡が……」
イケメガは、自分の顔にあるべきものがないことに気がつく。
「冴草契!」
「え? はっ!? わ、わたし何してたんだろ……」
俺の呼びかけに、冴草契は催眠術から解けたかのように、我に返って辺りを見回していた。
『ビンゴ!』
俺の感は見事に的中していた。どういう理屈なのかはわからないが、このイケメガのかけた眼鏡が催眠術のような効果を発していたのだ。
「さて、イケメガさんよ。これはどういうことなのか、説明してもらおうか……」
「ええ、わたしにもちゃんと説明してもらいたいわね」
冴草契は握りこぶしを作っては、ボキボキと景気の良い音で指を鳴らしていた。
これだ、これこそが冴草契という女なのだ。しおらしく微笑むなんて、糞食らえだ。
「ちょ、ちょっとまってくれ、お店の中を騒がすのは迷惑だろ? だから、この御店の外で話をしようじゃないか」
「ふん、そうやって逃げる気なんでしょ?」
「そうだ、そうだ。逃げる気なんだろ!」
「みんなのぶんの会計は僕が全部済ますから……」
「……外で話をしようぜ」
「は?」
「あれだ、俺財布の中身を見たら、あれだ……足りてなかった……だから……」
「アンタ馬鹿なの?」
「いや、自分の分だけなら会ったんだが、ダンボールちゃんの分が……」
「ダンボールちゃんって何よ?」
「俺の大切な人? だ!」
と言って、俺は椅子にちょこんと座って、物言わずに事の成り行きを見守ってくれているダンボールちゃんを指差した。
「……アンタの頭がそこまでおかしいとは、流石のわたしにも予想不能だったわ……」
冴草契は頭を抱えた。俺はダンボールをしっかりと握りしめたまま、会計をイケメガに任せて、店を出るのだった。
※※※※
「って、何処まで行くんだよ?」
イケメガは逃げも隠れもしないままに、ゆったりとした一定のペースで歩き続けていた。
外は夕暮れ、一番星が輝き始めていた。
仕事を終えて帰宅する人、夕飯の買い物を終えた主婦、寄り道をして遊んでいる学生達、そんな人達が商店街の中を通り過ぎていく。
俺達もきっとその中に埋没していて、ぱっと見には同じように見えるに違いない。と思ってみたが、俺だけはどうやら別のようだ。だって、ダンボールちゃんを後生大事に抱えて歩いている奴なんてのは、そうそう居やしないのだから……。
「……」
冴草契は、強く握りこぶしを握ったまま、無言の状態を続けていた。口元は引きつり、芽は釣り上がり、冴草契の苛々は、限界に達しようとしていた。
催眠がとけた冴草契は、その間に自分がしていたことを思い出しては、ホットプレートばりに顔の温度を上げると、奥歯を強く噛みしめてその恥ずかしさに耐えていたのだ。
そのフラストレーションを発散するのには、もうこのイケメガを原型を留めぬほどブチのめすしか無いというレベルに達してしまっているのだ。
あと五分も放置していれば、きっと冴草契は後ろから猛然とイケメガ目掛けて襲いかかるに違いない。それはどうにかして阻止しなければいけない。
「ほら、あそこの公園のベンチに腰掛けて話をしようよ」
イケメガは駅裏にある、小綺麗な公園を指差した。
きっと、イケメガも自分の背中に突き刺さる殺気に気がついていたに違いない。だからこそ、そろそろ話を切り出さなければという結論に落ち着いたのだろう。
「さてと、何から話そうかなぁ……」
イケメガはベンチに腰掛けた。
俺と冴草契は威圧するように立ったままそれを見下ろしていた。
「ここで一つ言えることはね、君たちはとっても甘いってことだよ」
「は?」
イケメガはポケットに手を入れる。その動作は何の変哲もないものだった。だが、そのポケットの中空取り出したものは……。
「眼鏡……」
「スペア眼鏡があるということを考えていないんだからね」
「まずい……」
冴草契はすぐさま戦闘態勢へと移行すると、ノーモーションでイケメガに向かって蹴りを放とうとした。が……それよりも早くイケメガは眼鏡を装着すると、冴草契に向かって笑顔で微笑みかけたのだ。
それを目にしてしまった、冴草契の蹴り足は、急ブレーキを掛けてイケメガの眼前でストップする。
「そろそろ時間的に、良い頃合いなんだよね」
イケメガは腕時計に視線をやる。
まさか、これほどまでに催眠能力が高いとは予想だにしていなかった。今までは、ほんの小手調べにすぎなかったのだ。それを加味していなかった俺の大失態だ……。
このイケメガに微笑まれては、俺もこいつを憎むことが出来ない。こいつの言いなりになってしまう、すでにそう思っている俺の意識も失われてしまいかけている……。
「さて、それでは僕の本当の目的を果たさせてもらうとするよ……」
イケメガが不敵に笑った。
なんて素敵な笑顔なんだろうと俺は思った。キラリと輝く眼鏡に頬ずりしてキスしてしまいたいほどだ。
「駄目よ! そんな眼鏡の言いなりになっちゃ! わたしを見て!」
幻聴が聞こえた。
そう、その声の主は……ダンボールちゃんだ!
「負けるものかっ!」
俺はダンボールちゃんの声(幻聴)に助けられ、意識を保つことに成功した。
そして、俺はベンチに余裕を持って腰掛けているイケメガの眼鏡に攻撃を仕掛ける。眼鏡さえ、眼鏡さえどうにかしてしまえば、あとは冴草契の空手がこいつを粉砕してくれる。
俺の伸ばした腕は、イケメガの眼鏡をはたき落とすことに成功した。
しかし、おかしい。何故命綱とも思える眼鏡を守ろうとしないのだ? あまりにも無防備過ぎないか?
そして、その謎はその直後に解けることになる。
「ふふふ、君はいつからスペア眼鏡が一個だと思っていたんだい?」
「な……」
イケメガはすぐさま新しいメガネを取り出すと、それを装着した。
まさか、三個目があるなんて……。眼鏡を三個持ち歩く奴が居るだなんて……。
俺の闘志に燃える心が、消えていく……。
――た、助けてくれ、ダンボールちゃん……。
「ふむ、不思議な事に、この小汚いダンボールが僕の催眠効果を妨げているようだね。なら、こうしてくれるよ」
イケメガは立ち上がると、俺の横にあるダンボールを手にとって破り捨てた。
「う、ウオォォォォォォ!」
俺の絶叫がこだまする。
何故、俺が叫んでいるのか、すでに俺にはわからなくなってしまっている。どうして、ダンボールを破られて俺はこんなにも悲しい気持ちになっているだ。この素敵で爽やかなイケメガの微笑みさえあれば、幸せだというのに……。
何故、俺の目からは水が滴り落ちているんだ……。
「さて、お遊びはここまでだ。タイミングピッタリなので、君たちには……愛し合ってもらうよ?」
イケメガの言っている言葉が何を意味しているのか、俺にはわからない。ただ、俺の心にその言葉が溶けこむようにすんなりと入ってきてしまう。
「さぁ、君たち二人は、仲の良い恋人同士だ。さぁ、二人は見つめ合って、熱いキスを交すんだ。さぁ、今すぐここでキスをするんだ」
そうだ。俺と冴草契は恋人同士だ。そして、このムードの良い公園で熱いキスを交すのだ。そうだ、そうするのが正しいのだ。だって、イケメガがそう言っているのだから、間違いなく正しいのだ。
俺と冴草契は向い合って見つめあう。
冴草契は照れているのか顔を火照らせている。
可愛い俺の恋人だ。
俺は冴草契の肩に手を回すと、身体を自分の方に引き寄せる。
なんの抵抗もなく、冴草契は俺の胸の中に身体を預けてしまう。愛し合っている二人だから当然のことだ。
そして、少しずつ顔近づける。
冴草契は目を閉じて、俺からのキスを待っている。
「見つけましたわ、神住様。あの、暴力女に連れて行かれて、ほうぼう探しましたのよ」
どこかで聞き覚えのある声が聞こえる。
けれど、恋人同士の時間にそんなものは邪魔なだけだ。
俺はそんな言葉は無視して、そのまま顔を近づける。
「え……。神住様……。な、何をなさっているんですの……」
俺の心の奥底で、何かが警鐘を打ち鳴らしている。けれど、俺は冴草契とのキスを止めることができないでいる。
そして、俺は遂に冴草契の唇に自分の唇を重ね合わせる。
「……か、神住様……。う、嘘ですわよね……。これは幻ですわよね……。夢ですわよね……」
膝からガクンと倒れていく少女の姿には見覚えが会った。金剛院セレス、そうそんな名前の少女だ。
俺と冴草契は身体を密着させあうと、そのままつながった唇から、下を伸ばして相手の口の中に侵入させると、舌と舌とを絡め合わせた。
「ん……」
冴草契の熱い吐息が俺の口元に吹きかかる。
ぬちゃりねちゃいという、イヤラシイ音が俺の鼓膜に響く。
「さて、これで僕の役目は終わりだ。さようなら、お幸せに……」
イケメガはそのまま去っていく。イケメガの視線が俺と冴草契から外されると同時に、俺たち二人の意識は覚醒していく。
そして、数秒後、我に返る……。
そこには、地面に付したまま泣き崩れているセレスの姿があった。
何故こうなっているのか、俺にはわかる。わかってしまう。催眠がとけて、その時の記憶が全てフィードバックしてきているからだ。
冴草契は、茫然自失としたまま、あらぬところを見つめて立ちすくんでいた。きっと、さっき起こった現実を受け止められすに心が壊れてしまったのだろう。
「セ、セレス、違うんだ! これは催眠術にかけられて……」
俺は付しているセレスを起き上がらせようと、手を伸ばす。が、その伸ばした手は、セレスの平手打ちによって弾かれてしまった。
「言い訳は聞きたくありませんわ。そうですのね、そうでしたのね。最初から、冴草契と神住さまはそういう関係だったんですのね。そして、わたくしを見て嘲笑っていらしたんですのね……。わたくしは一人浮かれている馬鹿なピエロだったんですのね……」
「違う! そうじゃないんだ! 俺の話を……」
言葉を遮るように、セレスの後ろ回し蹴りが、俺の脳天をとらえた。
セレスのスカートの中から、くまさんパンツが俺を見つめて哀しそうに笑っていた。
「さようなら……」
セレスは走り去っていく。俺は蹴りのダメージでその場にうずくまったまま動けないでいた。
追いかけなければ、そう思っていても、身体は動いてはくれない……。
だんだん小さくなっていくセレスの姿を見つめながら、俺は心の中で涙を流した。




