106 お勉強会 中編。
「このお茶美味しいー!」
赤炎さんの用意してくれた、お茶とお茶菓子はとても美味しく、花梨はなどは一口ごとに、感嘆の声をあげるほどだった。
雌ゴリラの乱入により、いくらか獣臭の残っていたこの部屋も、高貴な紅茶の香りで満たされ、まるでヨーロッパな雰囲気を醸しだしていた。まぁ、ヨーロッパなんて行ったこと無いんで適当なんだけどな。
しかし、先程の麻酔薬のこともあるので、このお茶の中に何かしらの薬物が混入されていないかと少し不安になってみたりもするのだ。
俺が何かを探りを入れる様に、赤炎さんの方をコッソリと伺うと、すぐさまこちらに目を合わせては、ニッコリと微笑み返してくれた。
それはそれは、世の男性ならばイチコロといった美しい微笑みだったが、俺には何かドス黒い裏があるような気がしてならなかった……。
「しかし、勉強も捗ったし、お茶は美味いし、これだったら、桜木さんたちにも連絡しとけば……」
「あらあらあら、今何かおっしゃいましたか?」
「え? いや、別に……」
俺はセレスに軽くひと睨みされて言葉を濁した。
実は、桜木さんと冴草契をこの勉強会に誘おうかどうか結構悩んだのだ。まぁ一番のネックは冴草契だったわけだが……。アイツがセレスの家に行きたがるわけがないからな……。とは言え、桜木さんと冴草契を別個に考えるわけにも行かず、誘うのをやめたわけなのだ。
「そうですわ、神住様に会いたがっている子がいるんですのよ」
「ん?」
セレスの訥々な話の切り出しに、俺は一瞬頭の中にクエスチョンマークを浮かべた。
そんなことはお構い無しに、セレスが手のひらをパンと鳴らすと、扉が開いて《その子》がハァハァと息を切らせながらこちらに向かって駆けてきた。
「ワンワン!」
「お、チョコじゃないか」
俺の足元をクルクルと回りながら、ピョンピョン飛び跳ねるのは、この前来た時に仲良くなったセレスの愛犬のチョコだった。
「神住様に会えて喜んでいますわ」
チョコは俺の膝目掛けて助走をつけてジャンプをする。しかし、ミニチュアダックスフンドの短い足では、俺の膝まで到達することが出来ずに、ズボンにしがみつきながらずり落ちそうになってしまっていた。俺はそんなチョコを抱きかかえると、膝の上にチョコンと載せてやった。
「ワン!」
チョコは満足そうに一鳴きすると、今度は膝の上で立ち上がって、俺の顔をペロペロと舐めようとした。
そんな俺とチョコの様子を微笑ましく見ていたセレスは、俺の横にやって来るとチョコの頭を優しく撫でた。
「まるでわたくしたち、チョコという子供を愛でる夫婦みたいですわね……」
セレスは俺に熱い視線を向ける。俺はそれを受け止めきれずに、斜め下に視線を逸らした。だって仕方ないだろう、今チョコを撫でているセレスは……なんというか、とても愛らしくて、その雰囲気に流されそうになってしまうから……。
「わぁー! ワンちゃん、かーわーいーいー!」
俺とセレスとチョコを取り巻く空間を突き破るように、キャピキャピした声を上げたのは、突如俺の背後に現れた花梨だった。
「ねぇねぇ、花梨もワンちゃん抱っこしたい!」
花梨の猛烈なアピールに、膝の上のチョコも些かタジタジのようだ。
「チィッ、わたくしと神住様の良いシーンを台無しに……。このオッパイ娘!」
「えぇ〜? 花梨だってワンちゃん抱っこしたいよー!」
「俺は七桜璃さんを抱っこしたいィィィぃ!!」
「!?」
その言葉に、一瞬にしてその場に居た皆の視線が一点に集まった。チョコだって凝視していた。
向日斑が、暑い暑い暑苦しい胸の内を、吐露してしまったのだ……。
今まで必至に我慢していたのだろう。本当ならば、金剛院邸に入った直後に、忍者に会いに行きたかったに違いない。それを我慢して我慢して……ついに、堪忍袋? か、なにかしらが切れてしまったのだ。
「うぉぉぉぉ! 俺は俺は、俺はァァァァァァ!」
この時『激烈百合馬鹿になった冴草契と、この向日斑を戦わせたらどっちが強いだろう……』なんて、不謹慎なことを考えてたりしていたのは秘密だ。
「どうだろうセレス、暴れ出されるのも困るし、なんか可哀想だし、少しだけ会わせてやるというのはどうだろう?」
「そ、そうですわね……。少しくらいなら……。それに、いざとなれば赤炎も居ることですし……」
赤炎さんの右手にキラリと光るのは注射針である。
向日斑が暴れだしたとしても、先ほど雌ゴリラを眠らせた見事な手際で切り抜けてくれるに違いない。
「赤炎、七桜璃を読んできてもらえるかしら」
「かしこまりました、お嬢様」
赤炎さんはペコリと会釈をすると部屋を出て行った。
この時、俺は気がつくべきだったのだ。
会釈で頭を下げた時に、赤炎さんが怪しげな笑みを浮かべていたことに……。
「うおぉぉぉ! 会えるんだな? 遂に会えるんだな神住!」
「そうだな、良かったな」
「花梨キーック!」
花梨の強烈無比な飛び蹴りが、向日斑の背中にヒットした。
「なに浮かれちゃってるの! そんなの来なくても、花梨がいるでしょ! かーわーいーいー妹がいるでしょーが~っ!!」
「七桜璃さん……楽しみだなァァァァァ!」
俺ならば遥か彼方に吹き飛ばされるであろう花梨の飛び蹴りは、向日斑に何一つとしてダメージを与えていないようだった。
もはやこの男、喜びのあまり脳内麻薬を大量に分泌してしまい痛みを感じなくなっているに違いない。
「むううう、お兄ちゃんが花梨を無視するんだったら、久遠とチューとかしちゃうよ?」
花梨は目にも留まらぬ早さで俺の両肩に手を回すと、なんの躊躇もなく顔を近づけてきた。
「うわっ!?」
「ナンデスノォォォォォォォォ!!」
「しちゃうよー! 可愛い妹のファーストキスが奪われちゃうよぉー? 良いのー?」
俺の心臓の鼓動は、高橋名人の連射ばりに一秒間に十六回鼓動している。
「セレスパーンチっ!」
嫉妬の炎に燃えるセレスはノーモーションで、花梨の顔面を目掛けて炎を纏ったパンチを放った。
そんな渾身のパンチを、花梨はヒョイッと首をかしげるだけで交わしてみせる。相も変わらず抜群の運動神経だ。
が、今は俺と顔が大接近している状態だ、その状態で首を傾げるということは……。
俺と花梨の唇が……触れてしまいそうになる……。
「ワン!」
それをガードしてくれたのは、俺の膝の上からジャンプして花梨と俺の顔の間に割り込んできたチョコだった!
俺と花梨は、お互いチョコにキスをする形になったのだ。
「偉い! とっても偉いですわよチョコ! 今日はご馳走ですわ!」
セレスに褒められて、チョコは嬉しそうに尻尾を振っていた。
「お嬢様、七桜璃を連れてまいりました」
俺たちが一騒動起こしている間に、赤炎さんは忍者を連れて戻ってきたのだ。
「ウホ、ウホォぉォォ! 七桜璃さんウホォぉォォ!」
扉から姿を現したのは、ノースリーブにミニスカートという夏バージョンゴスロリ服に身を包んだ忍者だった。
相も変わらずの美しさ可愛さに、俺も向日斑につられて叫んでしまいそうなほどだった。
忍者の表情は、まるでこれから死刑執行台に立つかのように、完全に死んでいた。
「お、お嬢様、お言いつけの通り参りました……」
奥歯を強く噛み締めての言葉は『どうしてボクを呼んだんですか……』の苦渋に満ちた気持ちが満ち溢れていた。
すまん、呼ぶように提案したのはこの俺なんだ。えへっ。
そして、忍者が部屋に入って挨拶をした二秒後……。
案の定、辛抱たまらなくなった雄ゴリラこと、向日斑は忍者に向かって全速力で駈け出したのだ!




