105 お勉強会 前編。
「うわぁー。凄いよ、凄いよお兄ちゃん! 絵に描いたようなお金持ちの家だよ!」
花梨は車の窓を全開にして、上半身を乗り出しながら大いにはしゃいでいた。
「はぁ……落ち着け。落ち着くんだ花梨! お兄ちゃん恥ずかしいだろ!」
花梨の突き出されたお尻を引っ張るようにして、向日斑ははしゃぐ花梨を押さえつけようとしていた。
俺はといえば……。
『ああ、お尻って本当に良いもんですね……』
と、眼の前に広がる絶景を楽しんでいたのだった。
今、俺と向日斑兄妹が居るのは、前回と同じ金剛院家からのお出迎えの高級車の中だ。
花梨ときたら、高級車を見ただけでテンションだだ上がり状態。さらに、金剛院邸を目にしてからは、もう限界突破のハイテンションへと突入していたのだ。
「とうちゃ~く!」
花梨は体操選手が着地を決めるときのようにポーズを撮って、高級車から一歩を踏み出した。
「我が妹ながら恥ずかしい……」
と、大きな顔を大きな手で覆いながら、頭を痛める向日斑だった。が、お前は覚えていないだろうが、お前のほうがもっともっともォォォッと恥ずかしいことをしてるんだぞ……。
今思い出してみても、あの《羽交い締めから忍者ペロペロ事件》は恐ろしい事件だった……。
「よく来たなぁ! お、あん時のプッツン娘じゃねえか?」
車から降りた俺たちを出迎えてくれたのは、青江虎道さんだった。
チャイナドレスにエプロンとヘッドセットという、訳の分からない出で立ちで現れた青江さんは、花梨を見るやいなや、値踏みするように身体を見回しだした。
「なるほど、柔軟で良い筋肉してるじゃん。これなら鍛えればもっと伸びるぞ」
どうやら、先日のファミレス駐車場でのバトル以来、花梨に興味を持ってしまったようである。
「あの……。俺たち勉強会に来たんで……」
「ああ、そうだったな。わたしは勉強なんてからっきしだからな、そこら辺は赤炎のやつにおお任せって感じだ」
青江さんは、何故か俺に向かってVサインをしてみせると、俺たちを屋敷の中に案内してくれた。
大きな扉を開けて玄関ホールへと入ると、そこに広がる豪華絢爛の調度品、美術品の数々に、花梨はそのつぶらで大きなお目目を輝かせて、歓喜の声をあげたのだった。
「うわぁぁ、何これ何これー! すごいよ~。この壺とか絶対数百万円とかするやつだよーっ。ふわぁ、このでっかい絵なんてきっと数千万円だよ~! 花梨の家よりきっと高いよぉー!」
ホールに設置された高級美術品を、臆することなくぺたぺたと触りまくるその姿は、社会見学のパン工場ではしゃぎ回る小学生さながらだった。
「花梨! 触ったらだめだーっ! もし壊しでもしたら……」
向日斑ははしゃぎ回る花梨を、まるでぬいぐるみで持つかのように小脇に抱きかかえて動きを封じ込めた。
「ぶーぶー。お兄ちゃんってば、いけずー」
仲の良い兄妹のやり取りというものは、なかなかに微笑ましいものだ。
何が微笑ましいって、抱きかかえた時に、俺の目の前にお尻がやってきているのが素晴らしい。ウェルカムお尻!
そう言えば、前回向日斑はこのホールで暴れまわって、様々な美術品を破壊したわけだが、勿論本人はそんな事は覚えていない。その向日斑が、常識人ぶって花梨に注意をしているのだからお笑い草である。
足をバタつかせてブーブーとブーイングをあげる花梨を抱えたまま、俺たち屋敷の中を歩いて行き、とある部屋へと案内された。
「そんじゃ、わたしはわたしの仕事があるから、勉強頑張れよ? フザケたりすると赤炎のやつ、マジで怖えからな……。うへへへへっ」
最後に不敵な笑みを残して、青江さんはどこぞへと消えていった。
あの人の普段の仕事とは一体なんだろうか? 格闘能力を活かしてのボディーガードとかだろうか?
そして、最後の言葉『赤炎のやつ、マジ怖えからな』気にならないといえば嘘になる。
「お待ちしておりましたわ。――本当は待っていたのは神住様だけですけれど……」
セレスは部屋に入ると同時に、歓迎の言葉を俺のみに浴びせてくれた。
部屋の中には、中央に大きなテーブルが一つ。それを囲う様に椅子が並べられていた。
部屋の端には大きな本棚が並んでおり、勉強に使う参考書などがところ狭しと並べられていた。
「なにそれー。まるで、花梨を待っててくれてなかったみたいじゃんかよー」
「はぁ? なんで、わたくしがあなたみたいなオッパイ娘を待っていなきゃいけないんですの!」
「グルルルゥー!」
花梨が野生のワンコのような声を上げる。
「なんなんですのォォ!」
二人は闘牛の牛が角を突き合わせているかのように、オデコを突き合わせる。
その時、部屋の隅で本を片手に静かに佇んでいた赤炎東子さんは、わざと音を立てるように本を《パタン》と閉じた。
「お二人とも、本日はお勉強会だと聞きましたけれど、喧嘩をなさりにいらしたのでしょうか?」
赤炎さんの黒縁メガネの縁がキラーンと光ったように見えた。
「キューンキューン」
花梨は本能的に、赤炎さんの中にある何かに気がついたのか、怯える子犬のように、向日斑の背中に隠れてしまった。
「わ、わかってますわよ。わたくしはちゃんとお勉強をするつもりですわ! そ、そうですわよね、神住様」
心なしか、セレスの声が震えているように聞こえるのは気のせいだろうか……。
「それでは、張り切ってお勉強会を始めましょー」
セレスの声を皮切りに、俺たちはノートと参考書を取り出すと、黙々と勉強を始めたのだった。
勉強会はとても有意義なものだった。
俺はこのメンバーだけに、絶対お遊びメインになってしまうと想像していたのだが、勉強が捗る捗る。
ほんの少しでも、わからなくてつまずいたところがあったら、その時にはすでに赤炎さんが横に立っており、的確なアドバイスをしてくれるのだ。
普段なら三十分もしない内に投げ出してしまう勉強も、気がつけば二時間も続けられていた。
花梨は時折退屈そうな素振りを見せて、俺にちょっかいなどを出そうとするのだが、その都度。
「コホン」
と言う赤炎さんの狙いすました咳払いに動きを封じられていた。
「え、えへへへへ」
花梨はただただ笑って誤魔化すばかりだった。
その笑顔に、赤炎さんも微笑みで返すのだが、眼鏡の奥の瞳は決して笑ってはいないのだった……。
そんなこんなで、三時間ほど勉強を続けたところで……。
「長時間根を詰めるのもよくありませんし、ここらでお茶でもいかがですか?」
と、赤炎さんの言葉で、ティータイムへと相成ったのだった。
「わたくし、お茶を用意してまいりますね」
そう言って、赤炎さんは部屋を後にした。
「ぐわぁぁ、疲れたよぉぉ……。花梨、もう一生分も勉強した気がするよぉ……」
赤炎さんが部屋から姿を消すやいなや、花梨はテーブルの上に両腕を伸ばして上半身を突っ伏した。
「わ、わたくしもここまで真面目な勉強会になるとは思っていませんでしたわ……。折角神住様がいらしておりますのに……」
俺の隣に座っているセレスは、何かを訴えかけるようにチョンチョンと俺のシャツの裾を摘んでみせた。
どうやら、セレスも勉強会とは名ばかりで、遊びたかったようだ。
「そ、それはよりも、七桜璃さん! 七桜璃さんはいらっしゃってないんですかっ!」
向日斑は本当ならば、この屋敷についた時からそのことばかり気になっていたのだが、青江さん、赤炎さんという二人の強者を前にして、言い出せずにいたらしい。
「な、七桜璃ですか……。七桜璃はちょっとあの……ねぇ神住様?」
「え? ここで俺に振るのか?」
忍者が顔を出さない理由は明白だ。この前と同じような惨劇が起こることを恐れているのだ。かと言って、演技とはいえ、忍者は向日斑に好きだと告白したことになっているわけで、顔を出さないのも不自然だといえる、
「え? 七桜璃? 花梨アイツ嫌い! だから、呼ばなくてもいいよ! ぶーぶーぶー」
花梨は露骨に嫌そうな顔をした。
ほんの少し前に、花梨はお兄ちゃんへの愛をかけてのゴリラのシルフィー、そして忍者との死闘を繰り広げたのだ。
「えっへっへっへー。赤炎のやつはいないよなぁ?」
バタンと勢い良くドアを開けて、顔を出したのは青江虎道さんだった。
「そこの、ゴリラ君のために、愛しのあの子を連れてきてやったんだぜぇー」
「な、なんですとぉぉぉ! それは本当でござるかぁァァァ! ウホウホォー!」
向日斑は興奮のあまり口調がおかしくなっていた。
「ちょっと照れててな、なかなか顔を出せないでいたんだけど、ゴリラ君がきていると知って、居ても立っても居られなくなったらしいんだよねー」
うん? 何かがおかしい。あの忍者が、向日斑に対してそんな気持ちを抱くだろうか? まさか……。
「さぁ、入ってこいよー!」
「ウホウホォー!」
ドアから登場したのは、忍者……ではなく。全身を毛で覆われた剛毛の女性、いや、雌ゴリラだった!!
「ゴホゴホ、ウホォォォ!!」
この時、俺は思い出したのだ。あの時の雌ゴリラのシルフィーはこの金剛院家にお世話になっていたのだということを……。
四本足で駆け出した雌ゴリラのシルフィーは迷うことなく、向日斑に向かって一直線に突進する。そして、おもむろに抱きしめにかかろうとしたところで……。
「お兄ちゃんに何しようとしてんのよ!」
花梨が立ちふさがったのだ。
「ふふふふ、このシルフィーを前と同じだと思ってくれるなよ。わたしが特訓してやったんだからね! 当社比二倍はパワーアップしてるぜ!」
大威張り師匠面をしてで言ってのける青江さん。
この人、なんて余計なことをしてくれるんだ……。
こうして、リベンジマッチが始まる……と思われたところで、またしてもドアが開きお茶の用意を終えた赤炎さんが戻ってきたのだった。
「あら、青江一体何をしてくれているのかしら?」
「え? あの、わたしはそのちょっと盛り上げてやろうかなぁーって……。え、えへへ」
あの青江虎道が赤炎さんに怯んでいる。
「ふーん……」
まるで永久凍土の氷のような視線で青江さんを見つめると、そのままスタスタと雌ゴリラのシルフィーの元へと無造作に歩いて行く。
シルフィーが赤炎さんに反応して振り返った、と同時にその場に膝から崩れ落ちて倒れこんでしまったのだ。
一体何が起こったのか?
それは、赤炎さんの手に握られた注射器が物語っていた。
どうやら、目にも留まらぬ早さで、シルフィーに麻酔薬を打ち込んだようだ。
「青江、あなたもちょっとお昼寝がしたいんじゃなくて?」
「え、えっと……。わ、わたしちょっと仕事があるから戻るねーっ!」
青江さんはユタにぐったりと倒れて眠ってしまっているシルフィーを抱え上げると、そのまま部屋から一目散に退散していったのだった。
「さて、それではお茶に致しましょうか」
ニッコリと微笑む赤炎さんに、俺たちは引きつった笑顔を返すのみだった……。




