102 怒れる冴草契。
俺は忍者の手に引かれて、何処に向かっているかもわからぬままに一目散に境内から走りだした。
こんなにも小さな手なのに、忍者は俺を力強く引っ張ってくれている。
今にもこの手のひらに頬ずりしてペロペロしたい欲求を抑えながら、俺は走ったのだった。
※※※※
「ここまでくれば、ひとまず大丈夫だろう」
俺と忍者がたどり着いた先は、人気のない淋しげな公園だった。
あるのはブランコが二つにベンチが一つ。
こんな小さな公園でも、夕方などには子どもたちが遊びに来たりするのだろうか?
いや、いまどきの子供は、家の中で携帯ゲーム機片手にWi-Fi通信だろうか……。
「兎に角、俺は水が飲みたい……」
俺の喉はカラカラに渇いていた。
公園の中央に設置されている水飲み場まで、ふらつく足取りで向かうと、俺は勢い良く蛇口をひねった。水が吹き出しては、待ち構えていた俺の顔面にヒットする。走って火照った身体が冷やされていく感覚はとても心地よく、俺は暫くの間そのままの状態で水浴びを続けていた。
身体の火照りが治まってきたところで、ようやく俺は蛇口に口を近づけてゴクゴクと水を飲みだした。
「美味い」
公園の水飲み場の水ってのは、昔から格別に美味い様に思えるのはなぜだろう。もしかすると、なにか特別な成分でも入っているのかもしれない。うーむ、何かしら陰謀めいたものを感じてしまう……。まぁ、そんなことを考えるのは俺くらいなもんだろうが。
「そんな風に、眉間にしわを寄せて考え込みながら水を飲むやつを始めてみたよ……」
忍者が呆れたようにこちらを見ていた。俺と違って、忍者は忍者なだけあって息一つ切れてはいなかった。
公園の中にぽつんとある街灯と、月明かりが俺と忍者をほのかに照らしだしている。
これが年頃の男女二人であるならば、きっと良いムードなどと呼ぶに違いない。
「なんだ、こっちを見つめたりして、気持ち悪い……」
忍者は気がついていない。俺に対する侮蔑の言葉はむしろご褒美だということに……。
「そう言えばなんだけどさ、どうして急に今日から俺を守ってくれることになったんだ?」
「……それは、お前がお嬢様の、か、か、彼氏……とかいうポジションになったからだ!」
彼氏という言葉に、照れを隠すことが出来ない初心な忍者は可愛かった。
「しかし、忍者はセレスを守っていなくていいのか?」
「お嬢様がご自宅にいらっしゃる時は、他の執事、メイドが警護してくださっている」
「なるほど……」
あのメイド三人娘と、老紳士ブラッドさんが警護していれば、そこらの軍隊などよりも強固な守りに違いない。
「それに、お前には……。ん? なんだ? なにか聞こえる……」
忍者は途中までなにか言いかけて、とある方向に耳を澄ましだした。
「叫び声……なのか?」
通常の人間である俺には、まだ何も聞こえてはいなかったが、忍者くらいになると遠くの音も聞こえるようになるのだろう。
「これは……まずいぞ!」
忍者の表情が一気に険しくなる。
「どうしたんだよ?」
「奴が……ものすごい勢いでこちらに向かってくる……」
「奴って……まさか? どうしてここが?」
「そんなこと知るもんか! 兎に角、今すぐここを離れなければ……」
その五秒後、俺の耳にもその叫び声は聞こえた。
「かーみーすーみーコーロースーーーーーッ!!」
土煙を上げながら、人間の走る速度をはるかに超えた速度でこちらに向かってるく悪鬼羅刹。それは紛れも無く冴草契その人であった。
一体どうやってこの場所がわかったのか?
あれか? 野生の百合の本能なのか? それならば、美少女とかに反応しとけよ! ハッ!? まさか、忍者は象さんさえ無ければ、美少女のカテゴリーに入っておかしくない……それでか?
「考えてる時間なんて無いぞ!」
どうする? 話し合って解決を図るか? とは言え、今のあの状態の冴草契に人間の言葉が通じるのだろうか……。有無を言わさずに、サーチ・アンド・デストロイされてしまうのではなかろうか……。
「取り敢えず、三十六計逃げるに如かずだ!」
俺と忍者は公園を飛び出して、またしてもあてのない逃避行へと走りだした。
しかし、忍者はともかく、この俺の常人以下の速力ではジリジリと距離を詰められて、捕まってしまうことは必至だった。
「ハァハァ……な、なにか良い方法はないのか忍者……」
息も絶え絶えになりがら、俺は忍者に助けを求める。困ったときの忍者頼みである。
「こうなったら、もう一度……」
忍者はまたしても懐の中から、煙玉を取り出しては、勢い良くアスファルトの道路に投げつけた。
先ほどの境内の時と同じように、黒煙が吹き出ては周囲を覆い尽くした。
これで少しは逃げる時間が稼げると思えたその刹那。
「なん……だと……」
冴草契はその煙幕を物ともせずに、こちらに向かって速度を緩めずに一直線に走ってくるではないか!
「どうやら、あいつの激烈百合馬鹿は予想以上みたいだ……」
怒りに我を忘れた百合馬鹿に目眩ましは聞かない。真っ赤な攻撃色を放っている王蟲と同じようなものなのである。こうなっては、虫笛も効かないに違いない!
「かーみーすーみーーーーーっ!!」
地獄の奥底から響く死神の呼び声が、俺の死の淵へと誘う。
このままでは、冗談ではなく俺の魂は地獄へと落とされてしまうに違いない。疲労の汗とは違う、別の冷たい汗が、俺の中からにじみ出てきた……。
「に、忍者! 何か、何か忍法はないのか!」
「こうなったら……これを……」
忍者はまたしても、懐の中に手を突っ込み、何かしらを取り出した。
「くらえ! 忍法百合隠れの術!!」
忍者は煙玉と同じ要領で、懐の中から取り出した紙の束のようなものを、アスファルトに向けて投げつけた。
するとどうだろう。なんと、怒れる王蟲である冴草契の足が止まったではないか……。それどころか、撒き散らかされたその紙をせっせと一つ残らず回収しだしている。
「あ、アレは一体何を投げつけたんだ……」
「あれは……桜木姫華の写真だ」
「は? 何でお前がそんなのもを持ってるんだよ!」
「忍者たるもの、何事も準備に怠りはないんだよ!」
ヤケクソになっている忍者も可愛かった。
「お前ってば、いつの間にか忍者が堂に入ってきてるよな……」
「う、五月蝿い! 馬鹿! ばーかっ!」
兎にも角にも、忍者が作ってくれたこの貴重な時間を有効に活用しなければならない。今はまるで宝石を見つけた様に嬉々として写真を集めている冴草契も、集め終えてしまえばまたもや魔神の形相で俺を追走してくるとことはわかりきっているのである。
とは言え、こんなイタチごっこを繰り返していれば、疲弊するのはこちらでありことは明白なわけで、どうにかして自体を打開しなければならない…。
「そうだ、将を射んと欲すれば先ず馬を射よって言葉がある。百合の大本に掛け合えば……」
「お前何を言ってるんだ?」
「忍者! お前は忍者だから、準備に怠りはないって言ってたよな? なら、桜木さんの家がどこらへんにあるか知っているんだろ?」
「ああ、一応な」
「なら、そこに案内してくれ! 奴の怒りを鎮めるには、もうナウシカ様にご登場してもらうしか無いんだ!」
「よ、良くわからないけど、わかった!」
俺と忍者は事態を打開すべく、桜木さんの家へと向かうのだった。




