表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
LOST  作者: 深水 紺
4/5

第3章 ロスト メモリーズ(2) - lost memories




『世界中、多くの土地で類似の伝承が存在することは広く知られている。

 例えば、蛇を神や悪魔として(たてまつ)る信仰。

 毒を持つ蛇は、有史以前の人類にとって天敵であったことから、

 多くの民族の間で畏怖の対象になったのであろう。


 ユグドラシルもまた、世界中で見られる伝承のひとつである。

 いくつかのバリエーションはあるが、失われたものを甦らせるという点で共通している。

 黒猫が横切るのは不幸の前兆などと並び、あまりにありふれた伝承であった。


 しかし、不思議なことに、ここ数百年の間にユグドラシルは人々の前から姿を消した。

 皆の知る物語が消え去るなど、自然には起こりえない。

 どのような力がユグドラシルを消失へと向かわせたのか。


 あるいは、何者かが積極的にユグドラシル伝承を遺棄したのではないか。


 私は可能な限り伝承の名残を探し、本書に記録していきたい。

 人々が失った記憶を取り戻すために』


(ヨハン・グリムソン著『LOST MEMORIES』序文より)



  △ △ △



 西の丘陵に太陽が半分ほど隠れようとしている。

 夕刻。

 分厚い雲がかかっているからか、いつもより夕闇が早く迫ってきたかのように感じた。


 記憶の村の外れ、集落と森との間に広がる草原から、黒煙が幾筋も空へと伸びている。


 ラナ・スクワイアは、施設のスタッフ数人とともに「異形」を見つめていた。


 異形。

 多くは亜人種の遺伝子改良の過程で生み出される知能指数の低い生物であり、亜人種の人権獲得後は研究に厳しい制約がかかったため、その姿を消していた。


「ラナさん。あの緑野郎、もしかして」

「ああ。蟲の異形だろうね」

「まさか、そんな……」

「完全に違法だろうけど、今は生命倫理について議論している場合じゃない」

「……捕まえますか?」

「死人も出たし、もうのんびり生け捕りにしようって訳にはいかないだろうね」

「わかりました。…ただ、私を含めて近接攻撃のギフトしか――」

「大丈夫。すっかりババアになったけども、ギフトはまだまだ()び付いちゃいないよ」


 ラナはすっと杖を異形に向けて掲げた。

 何箇所かに()かれたかがり火が、その勢いを増して燃え上がる。


「蟲は焼くと臭いけども、仕方ないね!」


 ラナは右手に力をこめると、杖を横に()いだ。

 空気を切るひゅんっと高い音。


 瞬間、炎が異形をめがけて矢のように射られる。

 複数のかがり火から放たれる炎の矢は、1ミリの狂いもなく異形のこめかみを狙っていた。

 集まる矢。

 そして、炎が弾ける異様な音。


「……!! なんてこった」


 ラナは上空を見上げた。

 異形が跳躍する姿を。


「……信じられない反射神経だね」

「蟲の異形……。なんてやつなんだ」

「なに、いつまでも避け続けられやしないよ。疲れて動けなくなるまで、跳びはねてもらおうじゃないかい。グラスホッパーらしくね!!」



   △ △ △



『ユグドラシルとは、そもそも何であるのか。

 人格化された伝承もあるが、多くは「大樹」として伝えられている。

 ワラサテン地方においては「世界樹」とも呼ばれ、

 世界の中心から全てを見渡す存在として畏怖されていた。


 もちろん、その根や幹に取り付く害獣もいる。

 根を(かじ)る大蛇ニーズヘッグが最も有名なところであろう。

 また、トリア地方の伝承には、幹の汁を勝手に(すす)る害虫がある。

 女巨人スカジの放つ矢によって幾度も駆除されたが、

 夏になるとどこからか現れてはその幹を這うとのことだ』


(ヨハン・グリムソン著『LOST MEMORIES』第1章より)



   △ △ △



 ケルヴィンとライラが建物を飛び出したとき、ちょうど炎の()ぜる音が辺りに響いた。


「ケルヴィン!」

「ああ、森に向かう道のほうだな」

「行こう!」


 夕闇が迫る中、二人は走りだした。

 草原に立ち上る黒煙と、断続的に響く破裂音がただならぬ事態を示している。


 集落を抜け、石畳の道を駆けていくと、数人の人影が見えてきた。

 中心で杖を振るう老婆と、心配そうに周りを囲む男たち。


 そして、その先では、緑色の生き物が信じられない速度で跳びはねている。


「おばあちゃん!」


 ライラの叫びに男たちが一斉に振り向く。

 施設で出会った老婆、ラナは、杖を振るう手を休めずに、チラリと視線をやった。


「今、お喋りしてる暇はないんだよ!」


 杖と連動して炎の矢が射られ、その度に獲物を逃した炎同士のぶつかる音が響く。

 ラナは肩を大きく上下に揺らしながら、苦しそうに息を切らしていた。


 ケルヴィンは、一番近くにいた男に視線を向ける。


「状況を説明してくれ。加勢しよう」

「いや、しかし、あんたたちは?」

「その子達は、資料を探しにきた、部外者だよ!」


 ラナが切れ切れに叫んだ。


「余計なことはしなくていい! あいつは異形だろうが、蟲だろうが、亜人種だよ! 部外者に人殺しをさせちゃ、あたしの立場がない!」

「ならば、俺が適役じゃないか」


 ケルヴィンは静かにラナの横顔を見つめた。


「俺は感情を失ったロストだ。幸いに良心の呵責(かしゃく)というやつもない」


 男たちは一様に顔を見合わせる。

 ケルヴィンは更に言葉を継いだ。


「見たところ、あなたのギフトでは、あいつを駆除できない」

「礼儀正しい子かと思ったら、言うじゃないかい」

「俺のギフトは音を操る力だ。あいつの鼓膜(こまく)に爆音を叩き込む。動けなくなったところで、頭を叩き潰せばいい」


 感情を失ったロスト。

 その言葉がラナと男たちの間にゆっくりと浸透していく。

 誰ともなく、ケルヴィンを避けるように一歩後ずさった。


 ライラが複雑な表情でケルヴィンを見上げる。

 ケルヴィンは表情を変えずに、黙ってラナを見つめた。


「……最後のとどめはあたしがやる。すまないが力を貸して欲しい」

「もちろん」


 軽く頷くと、ケルヴィンは背負っていた荷物をおろし、ケースからリュートを取り出した。


「なんだい、あんたの能力には楽器が必要なのかい?」

「自ら奏でた音のほうがコントロールしやすい」

「レクイエムでも演奏してやるといいさ」

「悪いが俺はそこまで自己を正当化できない。ロストでも、殺しの手伝いをするという意味は十分に理解しているつもりだ」


 ケルヴィンは、卵型をしたリュートを抱え、弦に指をかけた。

 目を瞑り、息を吸い込む。


 人差し指と親指が動き出すと、この場に相応しくない、柔らかで静かなメロディが辺りを包んだ。

 ゆっくりと流れる暗い旋律。


 ラナは相変わらず杖を薙ぐ手を休めずに、声をかける。


「知らない曲だね」

「エヌモン・ゴーティエの『La Belle Homicide』」


 ケルヴィンも、目を瞑ったまま、指を休めることなく答える。


「古い言語だね。古代フランス語あたりかい」

「さあ、俺も詳しいことは知らないが、リュートのために作られた古い曲だ」

「意味は?」

「美しき人殺し」

「……皮肉屋だね。あてつけかい?」

「俺に感情はない。相応しいと思ったから弾いている」

「ふん。まるで私がこの曲を指揮しているみたいじゃないか!」


 ラナは、杖を指揮棒に見立てて、更に激しく炎の矢を出現させた。

 しかし、人間離れした身体能力を前に、まるでティンパニーを無秩序に打ち鳴らすかのように激しい破裂音を響かせるのみだ。


 長い白髪を振り乱しながら、ラナは叫んだ。


「さあ、あたしも体力の限界だよ。早くあいつに爆音をぶち込んでやっておくれ」

「……おかしい」


 ケルヴィンは瞳を閉じたまま、眉根を寄せた。


「どうしたんだい?! あたしらが耳をふさぐのを待っているってか?」

「既にあいつの頭部周辺は、とんでもない音量で溢れているはずだ。鼓膜をズタズタにして、更に脳を破壊するくらいの強烈な」


 ケルヴィンは指を止め、目を開いた。


 異形は先ほどから頭を()くような仕草を時折見せるものの、その動きは衰えていない。

 少しずつ勢いを失ってきた炎の矢をいなすように跳びはねながら、近づいてきている。


 ライラはケルヴィンのすそをぎゅっと握った。


「ケルヴィン。相手は…蟲なの?」

「そうみたいだな。……グラスホッパーの亜人種か」

「蟲に耳ってあるの?」


 ケルヴィンはライラを見つめた。


「分からない。考えたこともなかった」

「きっと耳がないんだよ」

「……だとしたら、この場で俺に出来ることはなくなった」

「夕暮れじゃなかったら、私が光を集めて、相手を燃やすことも出来るかもしれない」

「朝まで、婆さんに頑張ってもらうか?」


 二人はラナに視線をやったが、いよいよ膝をつき、肩は上下に大きく揺れている。


「あんたら、謝る必要はないよ。あたしたちの危機管理に問題があったんだ」

「何か出来ることはないか」

「まあ、あいつに喰われることになったら、その時は今度こそレクイエムを頼むよ!!」


 ラナは咆哮(ほうこう)すると、両手で杖を持ち直し、また大きく振るいだした。

 ライラが叫ぶ。


「おばあちゃん! 死んじゃうよ!」

「死んだら、まずはあたしを奴のエサにしな! しばらく時間を稼げるだろう!!」

「おばあちゃん!」

「何も出来ないなら、黙っておきな!」

「出来ることはあります!」


 不意にあさっての方向から、少年の声が響いた。

 一陣の風が吹く。


「皆さん、大抵の答えは本の中に書かれています」

「トマ!」


 ライラも叫ぶ先には、走ってきたからか、金髪頭を更にボサボサにしたトマが息を切らしながら立っていた。


「ケルヴィンさん。さっき、爆音を鳴らしたのは、あいつの頭のあたりですね?」

「そうだ」

「足です。足の付け根の辺りにもう一度!」

「……足?」

「グラスホッパーは昆虫の中では珍しく聴覚を発達させ、鼓膜も持っています。そして、その聴覚器官は、…足の付け根に!」


 ケルヴィンは素早く目を閉じると、再び弦に指をかけた。

 息を吸い込む。


 数秒後、再び暗いメロディがあたりを包んだ。



   △ △ △



『ある伝承においては、人間が住む地域をミッドガルドと呼んでいる。

 人間は、神々や巨人に比べ、とても弱い。

 脆弱(ぜいじゃく)さの象徴である。

 しかし、それでもなお、人間が戦い、翻弄(ほんろう)されながらも伝承に登場するのは、

 とりもなおさず、我々が人間だからである』


(ヨハン・グリムソン著『LOST MEMORIES』第3章より)



   △ △ △



 華麗なダンスだ!

 生命のダンスだ!

 ははははははは!


 久しぶりに喰った肉は美味かったぞ!

 血と脂が絶妙のハーモニーを奏で、雑食生物特有の癖のある赤身を咀嚼(そしゃく)する瞬間、俺の口内にユートピアが誕生したことを知るのだ!


 ああ、全身に力がみなぎる。

 そして、何だ。

 誰かがこの饗宴(きょうえん)を祝して、炎の舞を披露してくれているではないか。


 俺はこの舞踏に付き合うぞ!

 華麗なダンスだ!

 生命のダンスだ!


 ダンスの後の食事は、また格別だぞ!

 そう、あそこにまだまだエサは群がっている。

 喰うぞ!

 喰い尽すぞ!


 ……ん?


 また、音楽が聞こえる。

 先ほど、俺の頭を震わせ、(かゆ)みを生み出した陰気な音楽だ。

 もっと、このダンスに相応しい音楽はないのか!

 血液を沸騰させるような、激しい曲は!


 だめだ、だめだぞぅ!


 音量を上げたからって、曲調はなぁんにも変わっちゃいない!

 こんなことで、俺を騙せると思うな!

 俺はさっき喰った肉のおかげで、最高に脳みそが働いているんだよ!


 ええい、うるさい!

 うるさいぞ!

 いい加減、ダンスも音楽も終わりだ!


 俺は今から食事をするんだ。

 食事は自分が肉を食いちぎり、骨を砕く音を楽しみながらするもんなんだ!

 だから、もう音楽を消せ!


 ……なんだ、うるさいぞ!

 おい、うるさい!

 うるさいっ!

 うるさいって言ってるだろぉぉ!!


 ぐひゅあっ!

 なんだ、何か弾けた!

 やめろぉぉ!

 音楽を止めろぉぉぉぉぉぉ!!!


 なんだぁ!

 やめてくれぇぇぇぇ!


 熱いっ!

 何で、俺の身体が熱い!?


 あ。

 炎が。

 俺の目に向かって。


 跳躍しなければ。

 ……できない?

 脚が熱い?


 このままだと、刺さる。

 うるさい。

 熱い。

 刺さる。


 うるさ――



   △ △ △



『つまり、人間がユグドラシルに行くためには、神々の国を通らなければならない。

 そのために必要なものは、「知恵」である』


(ヨハン・グリムソン著『LOST MEMORIES』第6章より)



   △ △ △



「昆虫にも脳はもちろんありますが、他にも体内でいくつもの神経節が発達していて、哺乳類とは別の進化を辿(たど)ったと言えます。まあ、あの驚異的な反射神経もその神経節が即座に反応することで生み出されたんでしょうね」

「本当にトマは頭がいいねぇ」

「そ、そんな、ライラさん! 知識を溜め込んでるのと、頭がいいのは別ですよ!」


 施設の一室、ラナの居住空間。

 ささやかなテーブルの上には、湯気を立てる様々な料理が所狭しと並んでいた。


「トマの話に付き合ってると料理が冷めちまうよ」

「そんな、ラナさん! 僕はこの教訓を忘れないためにも、しっかりと検証したほうがいいと――」

「それは、食事のあと」

「おばあちゃん、このスープに浮いてる黄色いのはなに?」

「そいつは、カボチャダケだよ。とても甘くてね、山羊(ヤギ)の肉はちょっと癖があるから、たっぷりの黒胡椒(くろこしょう)とカボチャダケで煮込むと食べやすくなるのさ」

「ラナさん、カボチャダケっていうのは、この地方での俗称で、正式名称はキイロナガテングダケでして――」

「ああ、分かったよ!」


 賑やかな食卓を久しぶりに経験する面々にとって、話のネタは尽きない。

 料理のこと、記憶の村こと、亜人種のこと、トマの雑学。

 時間は過ぎていき、あっという間に世は()けていった。


 もちろん、異形とはいえ、亜人種を殺したという事実は、それぞれの心にのしかかっている。

 草原に遺骸を埋める際、手を合わせ最後まで頭を垂れていたのはライラとトマだった。


 その後、ラナの招きで夕食を共にした4人は、気持ちを切り替えるという意味でも、この晩餐(ばんさん)を享受しているのかもしれない。


 ふと、ケルヴィンが、胡桃(くるみ)とカズラ豆のビスケットの作り方を気持ちよく説明しているラナを遮った。


「ラナ、申し訳ない。そろそろいい時間になってきた」

「そうだね。大丈夫、客室くらい、この建物にも備えているよ」

「いや、それはありがたいが、俺たちはトマに聞かなければならないことがあるんだ」


 ライラがはっとした表情になる。


「そうだそうだ。話の途中だったんだよ」

「トマ、さっき見つけてもらった本」

「『LOST MEMORIES』だっけ?」

「そうだ。そこにユグドラシルの場所は書いてあるのか?」


 トマは(うつむ)いた。


 ロストメモリーズ。

 失われた記憶。


 心臓の鼓動が早くなる。


「トマ?」


 ライラは首を(かし)げ、心配そうにトマを見つめた。

 ケルヴィンも、困ったように肩をすくめた。


 ラナはじっとトマを見つめる。


「トマ、あんた、もしかして、まだ気にしているのかい?」


 トマがはっと視線を上げる。


「ラナさん! その話は――」

「この人もロストだって言ってたじゃないか」


 ケルヴィンはトマの視線を受け止め、また肩をすくめてみせた。


「そうだ。俺は感情をロストしている」

「ちなみにねぇ、ライラも目が見えないロストだよ」

「え? でも、ライラさん、普通に歩いてるじゃないですか?!」

「それはね、ライラのギフトは光を操る力だから」


 トマは驚いた。

 そして混乱した。


 この人たちは、どうして何の臆面(おくめん)もなく、自分がロストであることをカミングアウトできるのか。

 ロスト。

 死ぬほど恥ずかしいことなのに。


 ラナは、視線を揺らがせるトマに向けて、静かに口を開いた。


「トマ。あんたは、ライラとケルヴィンを見て、どう思う?」

「どう思うって」

「怖い人たち、出来れば関わりたくない人たちだって思うかい?」

「そんな! とんでもない!」

「そうだよね。ライラとトマは、もう友達だよね」


 ライラの微笑みに、トマは違う意味でどぎまぎした。


「え、ええ。そうです! もちろんです!」

「トマ。あんたのことを知っても、差別するようなやつはここにはいないよ」


 トマはゆっくりと、視線を三人に向けた。


 微笑むライラ。

 大丈夫だと言わんばかりに肩をすくめるケルヴィン。

 優しく頷くラナ。


 トマは臆病になる心を奥へ押し込めた。

 頭の中の声は、あれ以来、だんまりを決め込んでいる。

 大丈夫、きっとこの人たちなら分かってくれる。


「『LOST MEMORIES』の前に、僕の話を少ししてもいいですか?」

「もちろんだよ、トマ!」


 ライラの笑顔に背中を押され、トマはテーブルの中央を見つめながら語り出した。


「僕は記憶の村に来て五年になります。五年前、この集落の入り口に一人で立っていたところを、ラナさんに見つけてもらいました。とても寒い日の朝のことでした。ラナさんは、僕に温かい空豆のスープを飲ませ、少し大きめのセーターを着せてくれたあと、優しく『どこから来たんだい?』と尋ねてくれました。僕は何も答えられませんでした。僕には一切の記憶がありませんでした。からっぽでした。……ロスト。後から、僕はこう呼ばれ、とても忌み嫌われる存在であることを知りました。僕は……とても怖かった。何も思い出せないこと。どうしてこの村に一人で来れたのか。どうしてロストになったのか」


 トマは少し息を吐いた。

 緊張で唇が震える。


「……僕はからっぽであることが怖くて怖くて仕方なかったので、たくさんの本を読みました。来る日も来る日も、この建物で色々な本を読みました。ある日、僕は一度読んだ本の内容を全て記憶していること、そして、世界中すべての書物にアクセスできるギフトを持っていることに気づきました。ほんの少しだけホッとしました。僕はもうからっぽじゃないって。……次第に自分がロストであることを忘れていきました。もしかしたら、無理に頭の片隅に追いやっていたのかもしれません。……先ほど、ユグドラシルの本を検索して、『LOST MEMORIES』を見つけたとき、ハッとしました。どれだけ僕が忘れようとしても、僕がロストであることに変わりありません。ケルヴィンさんとライラさんが、信念を持ってユグドラシルを探している姿が眩しくて、急に記憶をロストしている自分が嫌でいやでどうしようもなくなりました。こんな自分を知られるが、とても恥ずかしかったんです。……でも、お二人とも、ロストだったんですね。ロストなのに、こんなに輝ける。……なんて言葉にすればいいのかよく分かりませんけど、何だか少しだけ自分を認めてあげることが出来そうなんです」


 トマは視線を上げた。

 三人はしっかりとトマの言葉を受け止めてくれている。

 誰も(さげす)んだりしていない。


 大丈夫。

 これから、一番言いたいことを伝えるんだ。


 トマはしっかりと三人を見ながら、言葉を継いだ。


「ありがとうございます。僕の話を聞いてもらって。……ただ、『LOST MEMORIES』についてなのですが、残念な事実をお伝えしなければなりません」

「残念な話?」

「ここに載っている伝承には架空の地名が多く登場しますが、現実の場所について参考になりそうな情報はありませんでした」

「そっかぁ……」


 ライラが目に見えて、肩を落とした。


「ただ、ヒントとなりそうな情報がありました。研究書ということで、多くの参考文献が挙げられているのですが、そのほとんどを刊行している出版社があるんです。ヨルムンガンド出版。ディア共和国にある医療系に強い専門出版社ですが、何故かユグドラシルに関する著作を多く出しています。もちろんこの本も。……気になりませんか?」

「気になる!!」


 一転、ライラは手を真っ直ぐに挙げ、足をバタバタさせた。


「たぶん、そこの編集者に会えば、ユグドラシルを研究している学者とか、色々紹介してもらえると思うんですよね。ディア共和国自体、学術研究国家ですし。お二人が住んでたトリア港からも、週に一度の定期便が出ているようです」

「すごい! すごすぎるよ、トマ!」


 手を叩いて喜ぶライラの横で、ケルヴィンがほんの少しだけ口角を上げた。


「トマ。どうもありがとう。何とお礼を言っていいかわからない」

「いえいえ、ケルヴィンさん。お礼はいいんですけど、一つだけお願いがあるんです」

「お願い?」


 トマは唾を飲み込んだ。

 今日、一番の緊張でお腹の奥のほうが震える。

 大丈夫、僕はちゃんと伝えられる。


「僕を一緒に連れて行ってください」


 静寂。

 一瞬、気が()えそうになるが、勇気を振り絞って続ける。


「僕には記憶がありません。ロストです。僕は本を読むことでその欠落を埋めようとしてきました。でも、それだけでは全て埋めることが出来ないことが、今日よくわかりました。……僕も失ったものを取り戻したい。ユグドラシルを探してみたい。……きっと何かの役に立てると思います。一緒に連れて行ってもらえませんか?」


 ライラとケルヴィンはお互い顔を見合わせた。

 二人とも、軽く頷く。


「俺には拒否する理由がない」

「トマ。ライラも一緒に旅ができるのはとっても嬉しいよ。……でも、この村でのお仕事はいいの? ラナさんとかと離れることになっても大丈夫なの?」


 トマはラナを見つめた。

 深く刻まれた(しわ)の向こう側に、瞳が優しく輝いている。


「ちなみに、あたしらに遠慮する必要はないよ。今までここのスタッフは楽をし過ぎてきたのさ。自分の資料くらい、自分で探さなきゃ。そのほうが、思いがけない発見にぶつかることもある」

「ラナさん。僕、行きます。今まで本当にありがとうございました!」

「なんだい、今生の別れでもないだろうに。……それにさ、この村には全ての書物がある。全ての記憶がある。全ての過去がある。ただ、未来は残念だけど収められていない。……行ってきな! そして、探してるものが見つかったら、この村に戻ってきて、新たな記憶をもたらしておくれ! あたしはそれまで待っているよ」



   △ △ △



『「知恵」とは、単なる知識の集積ではない。

 「知恵」とは、経験の結晶である』


(ヨハン・グリムソン著『LOST MEMORIES』第6章より)



   △ △ △



 東の丘陵から、朝日が少しずつ顔を出し始めた。

 テナガドリの甲高い鳴き声。

 草原の上に三人の影が伸びる。


「トマ、髪のボサボサが、神がかってるよ」

「朝は駄目なんです。お昼に近づくにつれて、少しずつマシになっていきますから」

「髪切ったら?」

「いえ、短いほうがもっと跳ねるんですよ」

「そっか、大変だねぇ。んんっっと、ふわぁぁ」


 ライラは伸びをしながら盛大に欠伸(あくび)をした。

 ケルヴィンが、ライラの頭にぽんと手を乗せる。


「眠いんだったら、こんなに早く出発することにしなくても良かったのに」

「でも、ほら、善は急げって言うでしょ? せっかくトマが一緒に来てくれるって言ってくれてるんだし、気が変わらないうちにと思って」

「ライラさん、大丈夫ですよ。僕はフラフラしてるように見えますけど、一度決めたら頑固(がんこ)ですから」

「そっかぁ。それはきっといいことだよ」


 三人は和気藹々(わきあいあい)と森の中に歩を進めていく。

 躊躇(ちゅうちょ)することなく。


 集落の(はし)で、ラナはこっそりと三人を見送っていた。


 もちろん気づいていた。

 三人が、自分や施設のスタッフに妙な気遣いをかけないために、朝早く出発することを。


 そして、たぶんあの子達は気づいていない。

 自分が、昨夜、一つだけ嘘をついたことを。


 ラナは誰に聞かせるでもなく、一人(つぶや)いた。


「全く年を取るってのは、嫌なもんだね。段々と自分の最期が見えてきちまう。……トマ、あんたが五年前にこの村に現れたとき、私は神様に本当に感謝したんだよ。この齢になって、まさかずっと願ってきた子供を与えられるなんてね。旦那も死んで、とうに諦めてた夢。……そして、きちんと独り立ちしていく姿まで拝めるなんて。きっと神様はいるんだね。……願わくば、トマにはいいお嫁さんをもらって欲しいかな、ははっ」


 ラナは森に入っていく三人の姿が見えなくなるまで立ち尽くした後、ゆっくりと施設に戻っていった。

 世界中の記憶が集まる、過去の中に。



   △ △ △



『ユグドラシルは実在する、あるいは実在したのか。

 伝承を調査するうちに深まった謎であるが、未だその答えへの糸口すら掴めていない。

 私は更に研究を続け、いつの日か、ユグドラシルそのものへと辿りつきたいと思う。


 末筆となったが、本書の刊行にあたりお世話になった人たちに謝辞を。

いつも私を励ましてくれる編集者のラマヌジャン。

 フィールドワークに欠かせない、ツアーコーディネーターのエレーナ。

 そして、最愛の妻と、昨年生まれた自慢の息子に。

 息子の成長を楽しみにしつつ、ここに筆を置く』


(ヨハン・グリムソン著『LOST MEMORIES』あとがきより)


やっとこさ主人公3人が揃いました。

物語はまだまだ続く予定です。

次回以降もお付き合いいただければ幸いです!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ