第1章 ロスト イーチ シング - lost each thing
webで読みやすいように、改行を増やす改訂を行いました。
(2012/5/14)
乳白色の霧が肌にまとわりつき、息を吸い込むと湿った匂いがする。
ケルヴィンは立ち止まり、辺りを見回してみた。
ぼんやりと届く太陽光が乱反射して、数メートル先はもう真っ白な世界が広がっている。時折、上空から固有種であるテナガドリの甲高い鳴き声が聞こえてくるが、翼のない生き物がここで生きるのは困難なのだろう。獣の息遣いが聞こえず、しんと静まり返った森は大いに方向感覚を狂わせる。加えて、地下に眠る大量の鉄鉱石のせいで、方位磁針は役に立たない。
もう一度、小さく息を吸い込んでみた。
舌の上でねっとりとした甘いミルクが弾ける。
乳緑藻というコケの胞子がこの甘味の原因だそうだ。芳香植物として有名なこいつは人体に無毒だが、長時間吸っていれば過度のリラックス状態に陥る。つまり、今この森で迷っているという焦燥感を取り払って、なおかつ心地よい眠気を醸してくれるわけだ。
『ハルシオン フォレスト』
巷でこの森は、過去に使用されていた睡眠剤の名前を取ってこう呼ばれていた。当然、母親は絶対に森に入ってはいけないと子供をきつくしつけるし、人目を憚れるからと恋人同士で森に入ることもない。誰も足を踏み入れぬ森。
ただ、自殺者を除いては。
ケルヴィンはぼんやりと空を見上げた。
どちらに太陽があるのか分からず、ただ寝ぼけたような白色が広がっている。
自分の人生はずっとこんな状態だったなと、改めて感じた。
幼い頃から手先の器用だった彼は、特に音楽の才に恵まれた。寡黙で友達を作らなかったが、ただピアノを弾いて過ごす毎日が続けばいいと思っていた。ある時、両親に従い、国立音楽学校の試験を受けた。その腕前は著名な作曲家を唸らせ、面接を経る前に合格が決まった。喜ぶ両親を尻目に、何故か気持ちが晴れることはなかった。そして、入学前の健康診断。彼の欠陥が発覚した。
ロスト。
後は転落の人生。
世界でも有数の「豊かで福祉的な都市」は、彼を場末のバーのピアニストとして、辛うじて社会に繋ぎとめている。
しかし、これ以上、無理して生きる意味はあるのだろうか。
ここ一年間、常にこの言葉が浮かんでは消えていった。
そして、この「ハルシオン フォレスト」を一人で進んでいけば、数日以内には安らかな眠りのなか動けなくなり、そのままゆっくりと土に還っていくことだろう。
ケルヴィンは一歩踏み出した。
二歩、三歩。
霧を掻き分けるように足が動いていく。
森の奥、もう引き返せない深みへと進んでいく。
十歩ほど進むと、眼前に胸丈ほどの影が浮かんだ。
彼は影の前で立ち止まる。
右手を上げ、そっと影に触れた。
温かい。
不意に影が振り返る。
「ケルヴィン? ついて来ないと迷子になるよ?」
霧に遮られてぼんやりとした視界の先に、紅い目の少女が首を傾げて佇んでいた。
「ライラ。俺を霧の向こうまで連れて行ってくれ」
「うん。もちろん。……さあ、付いてきて」
ライラは柔らかに微笑むと、ケルヴィンの手を握り、再び歩き出した。
亜人種特有の獣耳が、彼女の歩行に合わせて揺れる。
二人はそのままゆっくりと森の奥へ進んでいった。
△ △ △
統計的に見ると、亜人種は現在、純人種の約二倍生存していることになっている。もちろん、国連に登録していない亜人種も相当数いるだろうから、実数はそれ以上だ。
歴史を紐解けば、科学的副産物として誕生した亜人種は、知能があるにも関わらず愛玩用として全世界に広まった。人間に次ぐ、準人権を与えられただけの亜人種は、動物愛護法よりは多少マシな法制度の下で、人間に飼われていた。遺伝子操作が繰り返され、様々な動物を祖先に持つ亜人種たちが、より美しく、愛らしい姿で生み出されていった。
しかし、五十年ほど前、亜人種の知能テストが大々的に行われ、人間とほぼ変わらない数値が出たことから、リベラル系の国連議員を中心に「亜人種人権獲得運動」が起こった。そしてついに二十年前、亜人種は人権を手にしたのだ。
当然のことながら、同じ人間同士ですら差別を根絶できない現状で、亜人種に対する扱いがすぐさま向上するはずはない。労働資源として開発された、カウス、ホーストなどは、まだ一定の社会的立場を確保しつつあるが、キャッツ、ミッキーなど、愛玩亜人種はその容姿を何らかの形で武器にするほかなかった。
その中でも、ラビッタは最も愛玩性の高い種であり、人間からは好奇の瞳で、亜人種からは嫉妬の瞳で射られた。
ライラはラビッタである。
赤い瞳と、折れた白い耳。透き通るような白い肌。銀色の髪の毛。
彼女は愛玩物として完璧であった。
ただ、盲目であるという、欠陥を除いて。
△ △ △
「ねえ、ケルヴィン」
「ん?」
「フワフワだねぇ」
ライラは左手を顔の前でヒラヒラさせながら微笑んだ。
「ああ、霧がすごい」
「霧って何色?」
「白」
「どんな白?」
「そうだな。……机にこぼしたミルクみたいな白だ」
「へぇ。ミルクかぁ。どうりで口の中が甘いと思ったよ」
「それはコケの胞子だ。霧とは関係ない」
「そうなの? ふぅん。でも素敵な森だねぇ」
ケルヴィンは鼻から息を漏らした。
亜人種の、しかもラビッタの少女にこう言われては「ハルシオン フォレスト」も形無しではないか。しかも、彼女は目が見えない「ロスト」だ。
「どうだ、ライラ。森の奥まで、まだ長そうか?」
「うーん。どうだろう。このフワフワのせいで、あんまり遠くまでわかんない」
「わかった。疲れたら言ってくれ。休みながら行こう」
「ありがとう。ケルヴィンは優しいねぇ」
「……いや」
霧を掴もうとするかのように手を忙しなく動かしながら微笑むライラを横目に、ケルヴィンはそっと自分の胸に手を当てた。心臓が一定のリズムで鼓動している。この中では、熱い血が脈々と流れているはずだ。でも、どうして自分の心は凍りついたままなのか。
ライラはケルヴィンのことを「優しい」と言った。
しかし、この心には嬉しいだとか、そんな感情は何も浮かんでこない。
彼は、感情を「ロスト」していた。
身体的ロストよりも、もっとおぞましいと嫌われる精神的ロスト。彼の顔に、何らかの感情が浮かんだことは今まで一度もない。端整な顔立ちと真っ黒な髪から、悪魔と揶揄され、彼の弾くピアノを聴いたものは呪われるとまで言われた。
そんな灰色の時間を二十年以上過ごしてきた彼に、僅かながら色を燈したのはライラだ。
三日前のことである。
△ △ △
町の外れ。潮騒とウミネコの声。落陽。潰れた客が一人、二人。
いわゆる場末のBAR「ニーズヘッグ」の、いつもの夕暮れがそこには広がっていた。とうに全てのグラスを拭き終わったマスターは、新聞を片手にうたた寝をしている。橙に煌く西日を受けながら、ケルヴィンは鍵盤を静かに叩いていた。
エリック・サティの「グノシエンヌ」
どこかエスニックな響きと共に、気だるく暗い音階が続く。もう何百年も前の作曲家だが、楽譜には当時と変わらず忠実に注意書きが付されていた。
「外出するな」「驕り高ぶるな」「思考の隅で」
演奏者を悩ませる抽象的な書き込み。
様々な解釈と感情を持って挑戦されるピアノ曲だが、ケルヴィンは抑圧的とも言えるこの言葉をとても気に入っていた。ただ心静かにフラットな状態で弾くことが許されるため、「叙情的に」だとかいう言葉に惑わされることがない。もちろん、こんな陰鬱な曲が場末とはいえ、バーで重宝されるはずはなく、大抵は客もまばらな夕暮れ時に一人で弾いていた。
ねっとりと音が流れていく。
ケルヴィンは目を閉じ、調律が甘いために少しだけ外れながら浮かぶ音を吸い込んだ。肺の中がメロディで一杯になる。このまま音楽で満たされて、窒息死してしまいたい。
淡い思いを抱きながら、グノシエンヌ第三番を静かに引き終えた。
部屋に本当に僅かだけ余韻が漂う。
感情は湧き上がらなかったが、気分は悪くなかった。
不意に静寂を破るように、手を叩く音。
「すごい! 本当に綺麗な曲だねぇ!」
振り返るとそこにはフードを被った少女が一人、あらん限りの拍手を送っていた。紅い瞳と盛り上がったフードから、亜人種であることが伺える。
ケルヴィンは軽く頷いてから、ピアノの蓋を下ろした。
「もうおしまい? 他には何か弾けないの?」
「夜になればこんなバーでも漁師たちで溢れかえる。明るいジャズを嫌でも演奏することになる」
「本当に? 聴きたい、聴きたい! 夜になったら聴けるんだね?」
「ああ。でも、お前は帰ったほうがいい。ラビッタがこんなところにいれば、いくら人権を手に入れたからって、何が起こるか分からない」
「私はライラ。お前でも、ラビッタでもないよ」
「分かった、ライラ。俺はケルヴィン。……悪いことは言わないから、家に帰るんだ」
「帰る家なんてないよ」
沈黙。
微笑を絶やさない少女を前にケルヴィンは判断に迷った。肩をすくめても仕方ないので、家出少女の戯言か、深い訳があるのか、瞳を覗き込んで確かめようとしてみる。
紅い瞳。濁りのない、ルビーのような、紅い瞳。
揺らがない。
「お前、まさか……」
「お前じゃない。ライラだよ」
「すまない。…もしかして、ライラは目が見えないのか?」
「うん、ロストだよ」
「でも、じゃあ、どうやって一人でここまで」
「私のギフト、光を操ることが出来るの」
そう言いながらライラは、右手の人差し指を掲げてみせた。辺りが少し暗くなり、彼女の指の上に、オレンジの発光体が出現する。ケルヴィンは眩しくて目を細めた。
ライラが頭上でくるりと指を回すと光は消え、部屋が元の明るさに戻る。
「私は光とお友達なの。だから、進むべき道は、光が教えてくれる」
「なるほどね。普通にしていれば、ロストだってばれないわけか。……だが、お前、いや、ライラの帰るべき家がないってのは、どういうことだ?」
瞬間、ライラの表情が翳る。
「お父さんとお母さんが死んだの」
「死んだ? ……あぁ、このごろ話題になっている、亜人種の間で流行っている伝染病か。可愛そうに」
「違うの。ライラのせいで殺されたの」
ライラは眉間に皺を寄せ、言葉を詰まらせた。
ケルヴィンは黙って見つめる。
「……ロストって不吉の象徴でしょ? 伝染病で死んだ人たちの家族が、私のうちに来たの。ライラを追い出せって。……私は出て行くって言ったのに、お父さんがその必要はない、病気とライラは何の関係もないって、怒鳴ったの。そうしたら、みんな怒り出して、棒で私たちを殴ったの。お父さんもお母さんも私をかばって、それで――」
「最後まで言わなくていい」
ケルヴィンは、ライラの震える肩を掴んだ。
「大丈夫だ、ライラ。今から、国連の福祉センターに行こう。こんな何もないバーにいたって仕方ない。保護してもらおう」
「駄目なの」
「……駄目? 一体、どうして」
「私、探さないといけないの。ユグドラシルを」
ユグドラシル。
ケルヴィンは記憶の片隅から、その言葉の意味を引っ張りだす。
ユグドラシル、失われたものを甦らせる。
「ライラ。あれは御伽噺だ。しかも、みんな忘れてしまった」
「ううん。おばあちゃんが言ってたの。ユグドラシルは本当にある。人間も亜人種も寄せ付けず、ただひっそりと世界を見渡している、大きな木だって」
「何を馬鹿な。いや、すまない。……ただ、ロストがユグドラシルを探しているなんて言ったら、どんな恨みを向けられるか分からないぞ」
「それでも私は探したいの。取り戻したいの。瞳を、家族を」
「俺だって取り戻したいさ。……言っておくが、俺もロストだ。生まれてから一度も感情が湧き上がったことがない。今だって、本当なら怒りを感じるべき場面だろうけど、残念ながら何にも感じないんだ」
「ケルヴィン、だから迎えに来たの」
驚きは感情でない。単なる予想に反した事態に対する、生理的なシグナルだ。
そしてケルヴィンは、驚いていた。怒りや喜びを伴わずに。
一体、どういうことなのだろうか。ユグドラシルを目指して旅をするというラビッタの少女。これだけでも十分驚愕の事態であるが、彼女は迎えに来た? なぜ自分を。
「どういうことか、説明してくれるんだろ」
「うん、もちろん。……このお店は、パンを買いに行くときに、前をいつも通っていたの。いつも静かな曲がお店から聞こえてきてた」
「昼間は好きな曲が演奏できたから」
「美しかった。この世にこんな美しい音があるなんて、私は知らなかった。光も教えてくれなかった。でも、私は途中で気づいた。……これは混じり気がないから、こんなにも美しいんだって。……あなたは感情を失ったロスト。そして、あなたのギフトは音を操ること。いつかあなたとお話をしたいと、ずっと思っていたんだよ」
「それは光栄だ」
「お父さんとお母さんが死んで、私は血まみれのまま集落を追い出された。長老からは、生まれ変わったら、きっと美しい完全なラビッタになるだろうって言われたの。……でも、私は死ぬつもりなんてこれっぽっちもなかった。すぐにユグドラシルを探しに行こうって思いついた。そして、ケルヴィンのことを思い出した」
「なぜ、俺なんだ? この町には、他にもロストがたくさんいるだろ?」
「違うよ。ケルヴィンがロストだから思い出したんじゃない。……あなたの奏でる音は、いつもユグドラシルを求めていたから。……あなたはロストだけど、諦めていない。取り戻したいと思っている」
「おいおい。それは間違っている。俺は何も求めてなんかいない」
「嘘。……お願い、目を瞑ってよく考えて。あなたは目が見えるでしょ? だから心の中をよく見て。隅々まで」
少し肩をすくめてから、ケルヴィンは素直に目を瞑った。彼女の言葉で傷つけられるプライドなんてないし、ましてやワクワクする気持ちなんて全くない。
彼は目を凝らして自分の内面を覗き込んだ。隅から隅まで、しっかりと見つめた。
そこは、見事なまでに空虚だった。
ただ、静謐だけが厳かにたゆたっている。
「ライラ。何も見つからないよ」目を瞑ったまま吐き出す。
「よく見て、ケルヴィン。少しだけほんのりと明るいところ、あるでしょ?」
「まさか」
彼は半ば諦めながらも、もう一度だけ心の中を見回した。
一面、真っ白。
そうだ、あるわけがない。感情をロストしているのに、何があるというのか。
ケルヴィンは、嘆息し、目を開こうとした。
その瞬間、視界の隅に何かがよぎる。
なんだ?
慌てて隅に目をやる。よく見ないと気づかない隅の隅、ほんの僅かに赤く光っている部分がある。
グノシエンヌの楽譜に書かれていた「思考の隅で」という言葉がフラッシュバックする。
「何だ、これは。少し暖かい。俺はこんなもの知らないぞ。これは一体……」
「ケルヴィン、それはね、希望だよ。希望って言う感情の芽だよ」
「希望? ……でも、何で。俺は失っているはずなのに」
「きっとギフトだよ」
「いや、でも、俺のギフトは音を操る力だ」
「じゃあ、オマケだね」
「オマケって、そんな」
「まあ、何でもいいじゃない。ね、あったでしょ?」
ケルヴィンはそっと目を開いた。
いつもと変わらない夕暮れに沈むバーと、紅い目の少女。
「ケルヴィン、一緒に探そう。ユグドラシルがきっと全部の感情を甦らせてくれるよ」
「待ってくれ、ライラ。急にそう言われても、俺はここでピアニストとして働いているんだ。今すぐにここを出て行くわけにはいかない。ここのマスターは、ロストである俺を雇ってくれた恩人だ。勝手に決めるわけにはいかない」
「構わんぞ。陰気な曲しか弾けねえ奴なんぞ、ここに相応しくない」
不意にカウンターの奥から、だみ声が飛んだ。
「スノッリ。今、何て」
「出て行っていいって言ったんだ。ピアニストなんぞ、掃いて捨てるほどいる」
ケルヴィンは黙ってスノッリへ視線をやった。人に嫌われることに慣れている彼も、急にこんなことを言い出すマスターが理解できなかった。
「でも、スノッリ。俺はあんたに恩がある。感謝の情を表せない代わりに、せめて演奏することでバーの役に立ちたい」
「うるせえな。つべこべ言うんじゃねえよ! こいつは退職金だから、それ持ってとっとと失せな」
放り投げられた皮袋を、ケルヴィンは慌ててキャッチした。ずしりと思い感触が掌に伝わる。
「ちょっと、こんなには――」
「それから、これは昔ここで演奏していた奴が置いていったんだが、縁起が悪いから持っていっていいぞ。なんだ、リュートっていう楽器らしいな。お前、ピアノ以外も弾けるんだろ? これくらいのサイズなら持ち運びにもぴったりだ」
「……スノッリ」
やっとケルヴィンも事情が飲み込めた。ライラを見ると、ニコニコと笑っている。
「ケルヴィン、俺も昔、けっこう本気でユグドラシル探そうとしたことがあるんだ」
「え?」
「信じられないかもしれないが、うちの家系は代々学者一家でよ。父親が民俗学なんかやってるもんだから本気にしちまって。でも、旅の途中で足をやられて、ここに腰を落ち着けたんだ」
「だから、バーにニーズヘッグって名前をつけたんだね」
「お嬢ちゃん、詳しいじゃないか。そう、ニーズヘッグってのは、ユグドラシルの根っこを齧ってる大蛇の名前だ」
ケルヴィンは立ち上がった。
カウンターに近づき、ケースに収まったリュートを手に取る。ストラップを肩に掛けて背負うと、まっすぐスノッリを見つめた。
「まずは、今、感謝の言葉を言いたい。本当にありがとう」
「いらねえよ、そんな言葉。せっかく男前なんだから、そういうのは女の子に言ってやれ」
「また後日、改めて感謝の言葉を言いたい。俺が感情を取り戻してから、心をこめて」
「気色悪いな、やめろ。……まあ、困ったことがあれば、遠慮なく顔出せ」
ケルヴィンは一礼してから、ライラに向き直った。
「ユグドラシルはどこにあるんだ?」
「人間も亜人種も寄せ付けない場所でしょ。ひとつ心当たりがあるの」
「分かった。そこにまずは向かおう」
スノッリが片手を挙げ見送る中、沈み行く夕日を背に二人は歩き出した。ライラの歩くスピードに合わせ、ゆっくりと影が遠くなっていく。姿が見えなくなったのを確認してから、スノッリは立ち上がると、足を引きずってピアノに近づいた。ポケットから鍵を取り出すと、蓋の鍵穴に差込み、錠をかける。
「まあ、あれ以上のピアニストが現れるまで、暫く封印だな」
そう言って軽く笑うと、鍵をポケットにしまい、灯りをつけに表に出た。夕日はもうほとんど沈み、空はインディゴブルーが広がっている。
△ △ △
「ケルヴィン。……ねえ、ケルヴィン?」
「あ、あぁ。悪い。ぼうっとしてた」
白い霧と甘い香りに包まれ、三日前の出来事を反芻していたケルヴィンは、繋がれた手の感触を確かめてから、軽く頭を振った。
「大丈夫か? そろそろ休もうか」
「違うの、ケルヴィン。もうすぐ霧が晴れそう。きっと森の一番奥まで来たんだと思う」
「本当か?」
神経を研ぎ澄ましてみると頬に当たる風が少し強くなってきた気がする。太陽の光も心なしか勢いを増し、少し先まで見渡せる。
「ケルヴィン、ユグドラシルあるかなぁ?」
「行けば分かるさ」
「そうだね」
二人は手を繋いだまま進んだ。少しずつ光が強くなっていく。テナガドリの鳴き声が大きくなる。
光と音に導かれ、二人は霧を抜けた。
強い風が二人を出迎え、そしてそこにあったのは――
「村」と人の気配だった。
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