*5.小さな夜空話
「食った食った」
食べ終わったコウさんはふとは立ちあがり、さっき袋から出した煙草を片手にベランダへ向かった。
コウさんはそこでライターで火をつけ、煙草を吸い始めた。
灰皿はテーブルにあるし、どうやら私に気を使って外で吸ってくれたらしい。
ココアといい今といい コウさんは思っていたより優しい人だ。
家出をしょっちゅうする私が言うのもなんだが、コウさんは変わっている。こういうタイプの人は周りにはいなかった。
「……変な人」
私はコウさんに聞こえない程度の声の大きさでそう言って、小さく笑った。
「ふぅ……」
コウさんが吐きだした煙は空の彼方へと消えていく。
煙草を吸いながらコウさんはぽつりと呟いた。
「星が綺麗だ」
一口分だけ残っていたサンドイッチをささっと食べて、私もベランダの方へ行き、窓から空を見上げた。
ガラガラっと窓を開けると、心地よい風が部屋の中に入り込んできた。
風に乗ってきたのはコウさんの煙草の匂い。煙草の匂いは嫌いな筈なのに、コウさんの煙草の匂いは噎せるような嫌な感じはなかった。とても優しくて、妙に風に馴染んでいた。
コウさんは空に向かって煙草を持っている手でなにやら描き始めた。
「スピカ、デネボラ、アルクトゥルス。3つ合わせて春の大三角形……っと」
「……コウさん、星詳しいの?」
コウさんが星の名前を知っているとは意外だ。もしかして、顔に似合わずロマンティストなんて思ってしまう。
だが、それはどうやら勘違いだったようだ。
「俺は中学校の理科の先生だ」
「先生?!」
その単語に思わず反応してしまった。
先生といえば、大好きな”先生”のことである。
私の驚いた声を聞いて、コウさんは不服そうに息を吐きだした。
「なんだよ、そんなに驚いて。俺が教師やってることがそんなに驚きか」
私は苦笑を浮かべた。
「ははは……。ちょっとね」
コウさんは何を思ったのか、こんなことを訊いてくる。
「んん?リョウには尊敬してる先生でもいるのか?」
「うーん。尊敬とはちょっと違う……かな?」
的外れなことを訊かれて、ちょっと拍子抜け。なんともぎこちない応えになってしまう。
それで気づいたのか、ずっと空を見ていたコウさんは急に私の方へと振りかえって、まさか……?という目で私をじーっと見た。
「お前もしかして、そういう…こと、か?」
多分、私がどういう意味で先生のことを思っているのかに気づいたのだろう。
コウさんは非常に驚いた顔をしていた。
そんなコウさんの表情をを見て、かなり恥ずかしくなってきたが話を続けた。
「うん……。正確には保健室の先生なんだけどね!先生だってわかってても大好きなんだ……」
私は至って真剣だったのだが、コウさんには上手く伝わらなかったらしい。
「なんか初々しいな、おい」
そういってコウさんは私の肩を突きながら茶化してきた。そんなコウさんをみて、私は沸々と苛立ちの様なものが込みあげてきた。
多分コウさんは、私が大人に憧れるお年頃と軽く思っているのだろう。
大人なコウさんから見ればそうかもしれないけど、私は”そう”じゃない。
私の中で熱い何かが流れ出す。
「茶化さないでよ!!本気なんだよ?なんで先生に恋することが子供っぽいって思われるの?本当に……本当に先生のことが大好きなんだからっ!!」
勢いで言いたいことを言ってしまった。だけど、清々しい気持ちはなかった。
(なんで私、こんなに意地になってるんだろう……)
ただ聞き流せばよかったはずだ。
それに此処は部屋の中といっても窓があいていて、声は外に漏れる。しかもこの時間帯は静かな上によく声が響き、大声で話せば近所迷惑になるだろう。
感情に任せて深夜に大声を出すなんて、これこそ子供っぽいではないか。
──自己嫌悪。
こんな話をして呆れているかと思いきや、コウさんは神妙な顔つきをしていた。
「そっか……うん、茶化してごめんな」
コウさんは眦を下げて笑った。
「コウさん……?」
想定外の反応に戸惑ってしまう。
「子供でも……否、子供だからこそ、本気の恋をするよな」
「んん?」
頭の中に疑問符を浮かべていると、コウさんは私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「俺にもそういう人がいたなって事だよ」
「……」
照れくさそうな言葉に紛れ込んだ──真剣な眼差し。
突然のコウさんの告白に私は何も言えなくなった。
沈黙が気まずくなったのか、コウさんは視線を外へ向けて、ゆっくり口を開いた。
「あの人、星が好きだったんだよ」
「星?」
あぁ、と頷いて、コウさんは小さい子に物語を読んで聴かせるように語りだした。
「お前も言ってたけど、俺だって教職なんか向いてるとは思ってなかったんだよ。でも、あの人が好きなものに関わりたかったんだ」
「……」
私は口を挟まず、コウさんの言葉に耳をすませた。
「あの人はな。俺よりもずっと大人で、俺の憧れだったんだ。あの人は星が好きだったんだけど、星の名前を全く知らなかったんだ。だから俺が覚えて教えてやろうと思ったんだ」
そこで私はピンと来て、問いかける。
「だから理科の先生なの?」
コウさんは頷くかのようにゆっくりと瞬きをした。
「あぁ、単純だろ?あの頃は、あの人がただただ喜んでくれると思ってな……。──でもあの人はもういないから……」
”あの人はもういない”
その言葉を聞いた瞬間、冷たい空気が私を覆った。
それは恋人が去ってしまったことを指すのか、それともその人が亡くなってしまったのか──私にはわからなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
「本当に好きだったのだ、その人のこと」
コウさんの横顔を見て、私は無意識にそう呟いた。
その人のことが本当に好きだったんだと、コウさんから伝わってきたから。
「あぁ、好きだったよ」
コウさんの横顔をみて、胸がきゅーっと締め付けられた。
「……昔の話だけどな!」
付け足された言葉は強いものだったが、コウさんは遠く見て寂しそうに笑っていた。
「そっか……」
切ないって言葉だけでは言い表せないぐらい深いものだと感じた。
この話については深く訊かない方がいいのだろう。
しんみりとした雰囲気が嫌なのかわからないけど、なんとなくだがコウさんの発せられた言葉から拒絶を感じ取った。
ひんやりとした風が私達を撫でる。
「なんか……お前といると調子狂うな」
そういってコウさんは頭を掻いた。
その仕草をみて、私の頭の中に一つの場面がよぎる。
(──今の、先生にすっごく似てた)
気まずそうに頭を掻くところがなぜか先生と重なってみえた。
こんなときに先生を思い出すなんて……自然と笑みがこぼれる。
「なにそれ!」
笑いながら反論したものに返されたのは、風に乗って消えてしまいそうなぐらいの声と切なそうな表情だった。
「でもお前といるとすごく楽だ……」
「え……っ」
同じことを思っていてくれたことに胸が高鳴る。
(なんか胸の奥が痛い……)
まだ会って小一時間しか経ってないのに、こんなにも打ち解けるのは初めてだった。
コウさんといる凄く落ちつく。
ミサと一緒にいるときみたいな……友人みたいな感じがする。
さっきの話だって修学旅行のコイバナみたいだなって──
コウさんがどんな恋をしてきたのか、さっきの話だけではほんの少ししかわからない。だけど、小さい頃のものだってそれは紛れもなく恋だ。
小さいも大きいもきっと関係ない。
「……そろそろ部屋に入ろう。風邪引くぞ」
そういってコウさんは携帯灰皿に煙草を入れて、部屋の中へと入っていった。
「うん……」
──私達を照らす星たち。
(コウさんは星を見ながら、何を思ったんだろう……)
私はもう一度空を見上げてから、部屋へと戻っていった。