*2.大好きな先生
始業のチャイムが鳴り響く中、私は教室とは反対の玄関の方へ向かっていた。
鼻歌を歌いたくなるぐらい、足取りは軽かった。
私が立ち止まったのは玄関の隣にある保健室の前──。
高揚とした気持ちを抑え、一息つく。
コンコンと軽くドアをたたくと、中からふんわりとした優しい声が聞こえた。
「どうぞ」
(……先生の声)
意気揚々に「失礼します」と言うと、呆れたように深い溜息がドアの向こう側から聞こえた。先生はドア開ける前に、声を聞いただけで誰なのか分かったらしい。
「またですか、風原さん」
「またでーす」
勢い良くドアを開けると、やっぱり……と苦笑した先生がいた。
先生──斎藤隆彦は32歳独身の男性養護教諭。
私はいつも先生と呼んでいる。正式には先生という職種ではないけど、保健室の先生だからみんな斎藤先生で通している。
先生は私を先生の前の椅子に座らせて顔をじーっと覗きこんできた。
その視線に緊張して赤くなっているだろう顔をを隠そうと俯くと、先生は先程よりも大きな溜息をついた。
「具合は……悪くないようですね。また仮病ですか?それか──そういうことですよね?」
”そういうこと”と表現する先生は、私がここに来た理由を把握しているようだ。
それもそのはず。だいたい私は具合が悪くて保健室に来たことがないのだから……。
堂々と言えたことではないけど、自分自身もう開き直っている。
体は結構丈夫な方で、雨で濡れて家に帰っても絶対に風邪はひかないぐらい。
仮病を使いたいのも山々だが、前に何回かその手を使おうとして、先生にすぐ顔で見破られて追い出されてしまったのだ。残念ながらこの手は使えないというわけだ。
先生に会いたいのなら、昼休みや放課後に行けばいいというかもしれないが、仕事があるだの遊びに来る場所じゃないだのといって結局追い出されてしまう。
そうなると、先生に会える手段はこれしかない───といっても過言ではないはずだ。
(まぁ、家出が先生に会いたいがための口実じゃないけど…)
ふと、変な方向に考えそうになって私は軽く首を振り、満面の笑みでいつもの台詞を言う。
「そういうことです。なので、今日もこちらにお世話になります!」
こちらにお世話になるというのは、”保健室”にということだ。
ベッドがあれば一晩は過ごせるし、一晩といわずお泊まりセットと呼ばれるものは全て揃っている。洗濯やご飯の準備は家庭科室できるし、家庭科の先生とは仲がいいのでそのへんの問題はない。
問題はこの堅物で有名な先生だけである。
「駄目ですよ。家に帰りなさい、風原さん」
「えーやだ!」
先生の強い視線に耐えられなくなって、少しだけ視線を逸らした。
(帰りたくない……)
言葉の軽さの裏腹に、私の気持ちは真剣なものだった。でも、そんな自分の本音を先生に知られたくはなかった。
「駄目です」
先生の色のない表情と無機質な言葉が、私に突き刺さる。
「ここにいたいです」
私のちょっとした隙。
「駄目なものは駄目」
切実な訴えさえも、先生はすぱっと鋭い刃物のように切り捨てた。
イライラにも似たこの焦燥感はいったいなんだろう。
体中にドロドロとした熱が駆け巡る。
「誰にも迷惑かけない!!」
とにかく自分は必死だったのだ。
「……何かありましたか?」
私の様子がおかしいと感じたのだろう。先生は私の目を覗き込んできた。
先生の目には困惑というよりも、心配という色が滲んでいた。
「……」
何も答えない私に先程は違い、温かい声をかけてくれた。
「いつもとなんか違うというか、悲しそうな顔してるから」
そんなに自分は悲痛な顔をしていたのだろうか。
咄嗟に思った。
(──失態だ)
私は自分の顔を両手でぱちぱちと叩き、何もなかったかのように先生に笑いかける。
「何でもないよ、いつもの家出ですよ?」
「家出自体がおかしい」
先生は私に疑いの目を向ける。
「先生に会う口実が欲しいだけですっ」
「風原さん……」
私の茶化した言葉に、先生はなんともつかない表情をした。
「なにかわからないけど、つらいことがあるならちゃんと言いなさい」
誰でもいいからちゃんと吐き出しなさいと、頭を優しくぽんぽんと撫でられる。
「はい……」
「いい子です」
素直に頷くと、わしゃわしゃと犬を撫でるかのように強く撫でられた。
「ちょっと先生!」
先生はパッと手を放して、ばつが悪そうに頭を掻く。
「す、すみません」
私はぼさぼさになった髪を直しながら「私は犬じゃないんですよ!」とわざと怒ったように眉を寄せた。
すると、先生は目を眇めて笑った。
「つい……」
(──そうだ)
あの時もそうだった。
私はこの笑顔に堕ちたのだ、と。
体育で怪我をして保健室へ行った時──初めて先生と会った時のことを少しだけ思い出す。
初めて会った先生は無表情だし冷たい口調で、怖いとさえ感じていた。それが一変。
──大丈夫です。よくできました。
傷口の消毒中に私がいかにも痛いの耐えてますっていう表情をしていたからだろうか。先生は消毒が終わったとき、私によく泣かず頑張ったとばかりに頭を撫でてくれた。
子供扱いは嫌だと思ったけど、先生に頭を撫でられるとすごくほっとした。
ふと、顔をあげると先生は笑っていた。
目尻を下げて笑うのがとても印象的だった。
そしてなぜだがずっとその笑顔を見ていたいと思った。
優しいって言葉だけでは表しきれない。温かく見守ってくれている視線を感じた瞬間、目が離せなくなっていた。
胸の中が温かい何かで満たされる感覚をこの時、初めて知った。
もしこの気持ちに名前をつけるのならば、きっと”恋”だ。
私はそう直感的に思った。
「いいですか?ちゃんと自分の体を大事にしてくださいね」
自分の身を案じてくれているのだ。先生として、大人として。
「……わかりました」
私は俯いて頷くことしかできなかった。
泣きそうな顔を隠したかったから。
先生に甘やかされて、ホッとして少し気が抜けたのかもしれない。
(……あぁ、やっぱり、先生のこと──)
先生は俯いた私の頭をもう一度ぽんぽんと軽く撫でた。
「1限目が終わったら、教室に戻りなさいね」
そういって先生は頭から手を離し、体を机の方に向けた。雑務だろうか。
きつい言い方に聞こえるかもしれないけど、これは先生なりの優しさだ。
1限の間は保健室にいていい、と。
「はーい」
私は椅子から立って、空いているベッドに腰をかけた。先生の仕事の邪魔はしたくない。
近くに先生がいることだけでとても嬉しかった。
先生の周りの空気がここまで伝わってくる気がするから。
胸の中が温かいものでいっぱいになって、凄くふわふわとした気持ちになる。
ただ、今はこのまったりとした空気と温かい気持ちを大切にしていたかった。
お久しぶりです。柏木なゆです。
2年ぶりの更新となります(汗
スランプからのリアルが忙しくなり……中々更新できませんでした。
前話が2年前ということで、文章を少し修正しました。
ゆっくりではありますが、また更新していきたいと思いますのでよろしくお願いします。