↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

鍵と紅茶と、ほどけた靴紐

掲載日:2026/09/28

鍵と紅茶と、ほどけた靴紐


「マルグリット、君との婚約は破棄する。開拓地の助成金を横領して、別の男に渡していたとは思わなかった」


 ルシアンがそう言ったのは、王都の貸衣装屋で婚礼用の上着を試着している最中だった。針子が肩幅を直すために持ち上げていた布を下ろし、口にくわえた待ち針を抜く。私は返事をしようとしたが、喉から出たのは短い息だけだった。


「……何?」


「聞こえただろう。君とは結婚できない」


 何を言っているの、この人。昨日は新居のカーテンを生成りにするか薄緑にするか、二人で迷っていた。私が薄緑の布を窓に当てると、ルシアンは「朝の光なら、こっちがいい」と言った。その窓の大きさまで、私は覚えている。


「何かの間違いよ。私は助成金の支払いを決める立場じゃない。出納控えを照合する事務官補なの」


「君の部屋から、出所の分からない金貨が見つかった。従兄君が知らせてくれたよ。管理局でも帳簿の数字が合わないそうじゃないか」


「私の部屋に、エミールが入ったの?」


 従兄のエミールは、小さい頃から実家に出入りしている。廊下ですれ違えば仕事は順調かと聞き、私が帰宅していなければ母と茶を飲んで待っている。その人が私の机の引き出しを開けたのかと思うと、口の中が乾いた。


 ルシアンは私の問いに答えず、上着の袖を引いた。右肩の下に斜めの皺が寄っている。その寸法を直すために、私は今日ここへ来た。針子に皺の場所を教えようとして、口を開きかけていたところだった。


「金貨なんて知らない。帳簿の数字が違うなら、どの帳簿なのか教えて」


「言い訳は監査官にするといい。僕は内々に済ませてやりたいんだ。新居の鍵を返してくれ」


 手に持った麻の買い物袋が、かさりと鳴った。中には木べらと布巾が入っている。二人で暮らす台所に置こうと、仕事帰りに銅貨八枚で買ったものだった。私は袋の持ち手を握り直したが、汗で指が滑った。


「嫌よ。何が起きているのか分からないまま、渡せない」


「これ以上、僕に恥をかかせるな」


 ルシアンが私の手首をつかんだ。骨に当たる指を振りほどこうとして後ろへ足を引く。そのとき、右の靴紐を左足で踏んだ。革靴が半分脱げ、私は試着室の前に膝をついた。袋の口が開き、木べらと、鍵束から外れた真鍮の鍵が絨毯に転がった。


 ルシアンは木べらをまたぎ、鍵を拾った。針子が私のほうへ一歩出たが、店主に呼ばれて足を止める。私は立ち上がろうとした。けれど右の靴が脱げかけていて、膝を床から離せなかった。


「これで終わりだ」


 ルシアンが店を出てからも、私は靴紐を結べなかった。片方の輪を作ると、もう片方が指から滑る。針子が差し出してくれた椅子に座り、三度目でようやく蝶々結びになった。


 戸籍・土地管理局の分室へ戻ると、同僚のトマが書類から顔を上げた。彼の昼食の黒パンが机の隅に残り、切り口はすっかり乾いている。いつもなら、それをいつ食べるつもりなのかと聞くところだった。


「マルグリットさん、膝をどうしたんですか」


「転んだの。……私、助成金を取っていない」


 声を出すと、喉がひりついた。机の引き出しを開けようとして、鍵を二度、鍵穴の縁にぶつける。トマは黒パンを紙で包み直し、私の机の横まで来た。


「誰に言われたんですか」


「ルシアン。婚約を破棄するって。私の部屋から金貨が出たとも言っていた」


 トマは返事を急がなかった。窓際の椅子を引き、私が座るのを待ってから、今日の閲覧簿を持ってくる。午前中、ランベール家の次男が西地区の土地台帳を閲覧していたという。


「ご結婚後の登記を確かめたい、と。四十二番区画の頁を長く見ていました」


「新居は東地区よ。西地区には何もないはずだけど」


 私は閲覧簿の番号を目で追った。四十二番。その数字を見て、薄い藍色の紙が頭に浮かんだ。先週、同じ番号の出納控えを照合している。開拓地へ送る毛織物の数が受領書と合わず、控えの端に小さな印をつけた。忙しい課長に報告しようとして、別の仕事に呼ばれたのだった。


「トマさん、四十二番の控えを見てもいい?」


「持ってきます。ただ、原本には私たちだけで触れない決まりです。閲覧室で、一緒に確認しましょう」


 トマが書庫へ向かう間、私は靴紐を見下ろした。また右だけ緩んでいる。結び直そうと身をかがめたが、指先がうまく動かず、紐を靴の中へ押し込んだ。


 藍色の控えは、出納簿に挟まっていた。西地区四十二番の旧倉庫へ、開拓地支援用の毛織物と保存食を一時保管した記録がある。受領数の下には、倉庫の鍵札番号として「四二」と記されていた。帳簿上では物資は翌日に開拓地へ発送済みとなっているのに、保管倉庫の使用料は今月も計上されている。


「これ、私が印をつけた控えです。物資が出たあとも、どうして倉庫を借り続けているんだろう」


 私は頁を戻し、同じ区画の管理権の記録を探した。三週間前に申請があり、倉庫の管理人がランベール家へ変更されている。申請書の立会人欄には私の名前があり、私印まで押してあった。


「私、この申請に立ち会っていない」


 トマが横から署名をのぞいた。私は自分の名前を何度も書いてきた。最後の「ト」を書くとき、いつも横線が縦線を少し越える。申請書の字は似せてあるが、そこで筆が止まっていた。


「先月、ルシアンに私印を預けたの。新居の水道を開けるのに、申請者二人の印が要ると言われて」


 先月の雨の日を思い出した。ルシアンは私の実家の傾いた雨樋を直し、濡れた髪のまま台所で温かい茶を飲んだ。その翌週に私印を預けた。雨樋に上ってくれた人を疑う理由など、あのときの私にはなかった。


「印だけで管理権の変更はできません。受付に来た人の記録も残っています」


「それも見たい。でも、その前に……」


 私は藍色の控えの「鍵札四二」を指で押さえた。ルシアンからもらった真鍮の鍵には、頭に菱形の穴があった。その下に、小さな傷が二本並んでいると思っていた。先週、ポケットから出して布巾で磨いたとき、細かな刻印が見えたような気がする。


「あの鍵、頭に数字が刻まれていたかもしれない。渡されたとき、新居の鍵だと聞いたから、よく見なかった」


 東地区の新居を内見した際、玄関には平たい金属鍵を使う新しい錠前がついていた。大家が工事中だから仮のものだと言い、ルシアンも隣でうなずいた。私はその説明を聞き、真鍮の鍵の形が違うことを尋ねなかった。


「鍵は今、ルシアンが持ってる。さっき取り上げられたの」


 どうして今日になって、鍵を返せと言ったのだろう。ルシアンの弟が午前中に台帳を調べ、今も倉庫の使用料がついていると知ったのなら、私の手元に鍵を残しておきたくなかったのかもしれない。そこまで考えて、私は控えから手を離した。まだ、確かめていない。


「刻印を見たという話だけで決めつけないほうがいいですね」


「うん。課長に、この控えと申請書を見てもらおう」


 私は藍色の紙を持ち上げた。角が机に引っかかり、薄い紙が小さな音を立てる。破かないように両手で持つと、トマが書類箱をこちらへ寄せてくれた。


 監査室のジャン課長は、まず私の話を最後まで聞いた。それから倉庫の管理権申請と藍色の控えを並べる。受付記録によれば、申請書を提出したのはルシアン本人だった。私がそこに立ち会った記録はない。


「倉庫を見に行ってください。鍵が合うかだけでも、確かめてほしいんです」


「鍵の件も調べる。ただ、倉庫に物資が残っているかは分からない」


 課長はそう言って、物資の運搬記録を取り寄せた。発送済みとされた毛織物には、開拓地側の受領印がない。代わりに、今夜、四十二番倉庫から商家の荷車へ木箱を積む予定が記されていた。運搬を手配した者の欄には、ルシアンの署名がある。


 憲兵が同行することになり、私は事情を説明するため倉庫へ向かった。トマも帳簿を運ぶ役として馬車に乗った。窓に当たる雨粒を見ながら、私はずっと袖口をつまんでいた。馬車が止まるころには、布のそこだけが細くねじれていた。


 西地区の倉庫では、荷車がすでに横づけされていた。扉の前にいたルシアンは、憲兵を見ると木箱から手を離した。私は彼の濃紺の上着を見た。貸衣装屋で寄っていた右肩の皺が、そのまま残っている。


「マルグリット? 君が通報したのか」


 ルシアンは私に近づこうとしたが、憲兵に止められた。彼の腰には鍵束が下がっている。真鍮の鍵の頭から、菱形の穴がのぞいていた。


「四十二番倉庫の鍵を見せてください」


 私が言うと、憲兵が鍵束を預かった。ランタンの下で、傷に見えたものが「四二」という刻印だと分かる。憲兵が鍵を扉に差し込むと、重い錠が音を立てて開いた。


 倉庫の中には、発送済みと記された毛織物の木箱が積まれていた。木箱の側面には管理局の焼き印があり、運び出すための荷札には商家の名前が書かれている。課長は荷札を一枚外し、藍色の控えに記された数量と照らし始めた。


「どうして、その鍵を私に渡したの」


 私が聞くと、ルシアンは鍵束を持った憲兵を見た。


「預けただけだ。君は局で働いているから、倉庫を見に行くこともあると思った」


「新居の鍵だと言ったわ」


「覚え違いだろう。君は今日だって、店で取り乱していた」


 私は確かに取り乱した。膝をつき、靴紐ひとつ結べず、針子に椅子を出してもらった。今も袖口のねじれを直そうとして、指が少し震えている。それでも、彼が私の手に鍵を載せた日の言葉は覚えていた。


「『二人の家の鍵だ』と言ったのよ。東地区の家には、これと違う錠前がついていた」


「それだけで僕が何をしたと言うんだ」


「管理権の申請書には、私が立ち会ったことになっている。でも私は来ていない。発送済みの物資がここにあって、今夜、あなたの手配した荷車に積まれるところだった」


 ルシアンは口を開いたまま、課長が照合している木箱を見た。私には、まだ分からないことがある。鍵を渡したのが、私に倉庫の責任を押しつけるためだったのか。今日取り返したのが、物資を運び出すためだったのか。それを決めるのは調査をする人たちだ。


「もう、私の名前で申請書を書かないで」


 ルシアンは返事をしなかった。私は課長に持ってきた控えを渡し、憲兵の案内で倉庫を出た。外では雨がやみかけ、荷車の幌から落ちる雫が石畳を打っていた。


 帰りの馬車で、トマが帳簿の箱を膝に抱えた。私は窓の外を見ていた。通りの灯りが濡れた道に伸び、隣に座る彼の黒パンの包みから、乾いた麦の匂いがした。


「夕食、食べてないでしょう」


 トマは包みを開いて半分を差し出した。私は硬いパンを受け取り、端を小さくかじった。噛んでいるうちに、ようやく奥歯の震えが止まった。


 調査は一か月続いた。倉庫の物資と荷札、運搬の契約書から、ルシアンが支援物資を商家へ売ろうとしていたことが分かった。私の横領の疑いは晴れ、管理局にも勤め続けられることになった。


 私室の金貨については、エミールの話が役に立った。数日前、ルシアンが水道の書類を探すと言って、私の実家を訪ねていた。そのとき母に頼まれ、エミールは庭の梯子を片づけていたという。あとで引き出しから金貨を見つけた彼は、私に確かめるより先にルシアンへ知らせてしまった。私が帰宅すると、エミールは台所で待っていた。


「先に君に聞けばよかった。すまなかった」


 彼は茶にも手をつけず、両手を膝に置いていた。私はすぐには答えられなかった。引き出しを開けられたことも、ルシアンに知らせたことも、まだ嫌だった。ただ、エミールが覚えていた訪問日時のおかげで、憲兵は金貨が置かれた経緯を調べられた。


「今度、私の部屋で何か見つけたら、最初に私に聞いて」


「分かった。約束する」


 その夜、母はいつもより少し厚く切ったパンを私の皿に載せた。父は何も言わず、温かいスープの鍋をこちらへ寄せる。私は二人が口を開く前に、局の近くで部屋を借りたいと話した。母はスプーンを置き、家にいづらくなったのかと聞いた。


「ここに帰ってこられると思えるから、やってみたいの。仕事帰りに買い物をして、自分の台所で夕飯を作ってみたい」


 父が、窓の閉まる部屋を選べよと言った。母は日曜の夕食には顔を見せなさいと言い、すぐに「来られる日でいい」と付け足した。私はスープをもう一杯よそい、その次の日曜なら来られると答えた。


 借りたのは、二階の突き当たりにある小さな部屋だった。窓は西向きで、台所には一口の炉がある。敷金を払うと、大家が鉄の鍵を一本渡してくれた。私はその場で鍵を回し、扉が開くことと閉まることを確かめた。


 引っ越しの日、荷物はトランク一つと本の箱一つで済んだ。トマが箱を二階まで運び、帰り際に陶器の小さな容器を渡した。蓋を開けると、柑橘の香りがする。


「局のみんなからです。茶葉を選んだのは僕ですけど」


「ありがとう。飲んだら、感想を伝えるわ」


「月曜で構いません」


 トマはインクのついた指で容器の蓋を押さえてから、私に渡した。階段を下りる途中で振り返り、明日は休みだから仕事の書類を開かないでください、と言う。私は返事の代わりに、本の箱を部屋の奥へ押した。


 扉を閉めようとして、右足の靴紐がまたほどけていることに気づいた。私は廊下にしゃがみ、両方の輪をゆっくり引く。立ち上がって扉を閉め、自分の鍵で錠を回した。


 丸テーブルを持ってきた布巾で拭き、木べらを調理台の端に置く。鍋に水を汲んで火にかけ、窓を開けた。向かいの家の庭には、赤い柿が枝をしならせるほど実っている。階下のパン屋から焼きたての匂いが上がり、私は昼食を黒パンだけで済ませたことを思い出した。


 茶葉を急須に入れ、湯を注いだ。椅子に座ってカップを持つと、熱さが両手に伝わってくる。今日はこの紅茶を飲み、夕方にはパン屋へ行こう。店先に並んでいた、栗の入った丸いパンを買ってもいい。


 私は紅茶を一口飲んだ。明日の食事は、明日決めればいい。窓の外で赤い柿が揺れるのを見ながら、まだ温かいカップを両手で包んだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。