刺繍の魔女は恋を間違えた ~善意で全てを壊した令嬢の末路~
リネットが教室の中で次の授業の準備をしていると、洗髪料の爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「ごめん、驚かせちゃった?」
見上げると、学園の誰もが知る侯爵家令息、ケインが顔を覗き込んでいた。彼は気まずそうに肩を竦める。
「次の授業の教科書、忘れちゃってさ。……ちょっと隣、いいかな?」
リネットが小さく頷く前に、彼は自分の机をリネットの机にピタリとくっつけた。
その拍子に、リネットのスカートの裾が彼の椅子に巻き込まれる。物理的に逃げ場のない、心臓が止まるほどの至近距離。
「……あ、すごい。これ、君が刺したの?」
ケインの視線は、リネットが偶然出していた刺繍にあった。
居水津の窓から差し込む陽光を浴びて輝くそれは、それは極細の銀糸で描かれた百合の刺繍だ。
リネットは、陰気な令嬢たちの間では「刺繡の魔女」と崇められていたが、それは単に、狭い世界に閉じこもる臆病な少女の、唯一の居場所だった。
「す、すみません、地味な刺繍でお目汚ししてしまって……」
「地味なんかじゃないよ。君の指先は、魔法使いみたいに可愛いものを作るんだね」
その言葉を受けて、リネットの心臓がどくりと脈打つ。
(ああ、彼は私を見つけてくれた。大勢の中に埋もれていた私を、特別な魔法使いだと認めてくれたのだわ!)
「あ、ありがとう、ございます……」
か細い声でリネットが礼を述べたところで、先生が教室に入ってきた。机をくっつけるリネットとケインを見て、軽く眉を上げる。
「おいケイン、また教科書を忘れたのか?」
「すみませ~ん! 自習を寮で頑張っちゃいました!」
あはは、とクラス中に笑いが巻き起こり、リネットは肩を竦めて注目を集める羞恥に耐える。ケインはリネットにウインクして見せた。
「リネット嬢が優しい人でよかったな!」
「リネット嬢に感謝しろよ!」
口々に飛ぶヤジに「ほんとにありがとね」と笑うケインに、リネットはもごもご言葉を返すことしかできない。
授業の間、リネットはずっと頭に浮かんだ図柄を刺したくて仕方がなかった。
「あの、すみません、アッシュフォード様」
数日後、リネットは彼が隣に座った隙を見て、一枚のハンカチを差し出した。
ケインの瞳の色と同じ碧い糸で、彼の家紋と、愛を象徴する忘れな草をびっしりと敷き詰めたハンカチ。それは、婚約者に贈るような重厚な意匠のものだった。
「……あ、ありがとう。これ、リネットさんが? ……すごいね」
ケインの顔は引きつっていたが、微笑んでそれを受け取った。女子に恥をかかせないというのが彼の信条であったからだ。それを見た周囲の生徒たちがひそひそと囁き交わす。
「あれ、やりすぎじゃない?」
「重くない?」
リネットにはその声が聞こえない。ただ、ケインが困惑して引きつらせた頬を「照れ」だと解釈し、胸を高鳴らせる。
その時、華やかな笑い声を上げて侯爵令嬢・セシルが登場した。彼女はケインの肩を軽く叩き、「ねえ、次の授業遅れるわよ!」と言って空気を変える。
ケインはあからさまにほっとした顔で「今行くよ」と言ってから、リネットに会釈してそそくさとその場を去った。
「あの二人、お似合いよね」
「ね、セシル様は夏の太陽のような方だもの」
セシルは金髪金目で、この世代では別格の美少女として名高い。女神と呼ぶ人間もいるほどだ。
対して、リネットは茶髪にダークブラウンの瞳。顔立ちも地味でとりたてて優れたところはない。
(……私だって、本気を出せば。もっと彼に相応しい『特別』になれるはず)
リネットの心の中で、めらりと嫉妬心が首をもたげた。
その光景を目撃したのは、中庭に面した回廊でのことだった。
歩いていたセシルが、石畳の隙間にヒールを引っかけて、小さく声を上げた。
「あっ……!」
隣を歩いていたケインが、反射的にその腰を抱きとめる。
「危ないよ、セシル。怪我はない?」
「ふふ、ごめんなさい。ケインがいてくれて助かったわ」
見つめ合う二人。それは絵画のように美しい、陽の当たる世界の住人たちのやり取りだった。
だが、物陰からそれを見ていたリネットの瞳に映ったのは、全く別の情景だった。
(……そうか。ああやって「隙」を見せれば、彼はあんなにも優しく触れてくれるのね。セシル様は、わざとあんな風に振る舞って彼を誘惑しているんだわ。……あの方には、もっと本質的な、魂を癒やすような支えが必要なのに)
リネットの脳内では、複雑に絡み合った刺繍糸が一本の線に繋がっていくような快感があった。
セシルの行動は、あざとい。それは彼を一時的に繋ぎ止めるだけの、浅はかなまやかしに過ぎない。
一方で、自分にはあの「魔法使い」と称された指先がある。ケインが心の奥底で悲鳴を上げている孤独を、自分だけが正確に、針を刺すような繊細さで理解しているのだという全能感が、彼女の背中を震わせた。
誰にも見抜けない彼の疲れを、自分だけが見抜いている。その優越感は、もはや恋というよりも、救済者としての使命感に近かった。
(大丈夫。彼が求めている『きっかけ』を、私が正しく用意してあげましょう)
翌日。リネットはケインが一人で通る時間を狙い、階段の踊り場で待ち構えた。
彼が角を曲がった瞬間、リネットは自分から崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「……あうっ!」
計算外だったのは、リネットが運動に疎すぎたことだ。倒れ方が不自然に硬く、ケインは抱きとめるどころか、驚いて一歩飛び退いてしまった。
「うわっ……! ……リネット嬢? 大丈夫? 先生を呼んでこようか?」
「い、いえ……立てるのですけれど、少し、足首が……。……あ、アッシュフォード様、支えていただけませんか?」
リネットは上目遣いで、練習した通りの「守ってあげたくなる顔」を作った。
だが、ケインの瞳に宿ったのは困惑と、ほんの少しの不気味さだった。
「……悪いけど、僕、これから生徒会の会合なんだ。近くの女子生徒を呼んでくるから、ここで待ってて」
ケインは、まるで逃げるように立ち去った。
リネットは一人、冷たい床に取り残されたが、その心は挫けるどころか、むしろ燃え上がっていた。
(……あの方は、私のあまりの美しさに動揺してしまったのだわ。……次はもっと、彼が使命感を感じるような『弱さ』を見せなきゃ)
リネットがその夜、仲間――日陰者の令嬢たち――の集まりでその話をすると、彼女たちは手放しでリネットを称賛した。
「リネット様はあまりに繊細で、儚げですもの。殿方は、自分が必要とされていると感じると弱いのですわ」
「ええ、あの方はきっと、自分を律するのに必死だったのですよ。愛ゆえの冷たさ、というものですわね」
友人たちの言葉は、リネットの中で絶対の真実へと昇華された。
方向性は正しい。ただ、見せ方が足りないのだ。
そう理解してしまったリネットの行動は、段々エスカレートしていく。
ある時は、自分の大切な刺繍道具を自ら床に叩きつけ、バラバラになったそれを前に「引っかけてしまって……」と涙を流して彼を呼び止める。
またある時は、自分のドレスの袖をわざと切り裂き、「誰かに悪戯されてしまって。……怖いんです、アッシュフォード様」と震えながら縋りついた。
リネットは確信していた。
あの方の、あの引きつったような、今にも叫び出しそうな顔――。
あれは、必死に私を抱きしめたい衝動を、責任感で抑えている「愛の苦悩」なのだと。
(……ああ、可哀想なケイン様。周囲の期待に応えるばかりで、本当の自分を出せずに、あんなに疲弊していらっしゃる)
リネットの目に映るケインは、もはや実像を失っていた。
彼が自分を避けるのは、愛を押し殺し、社会的な体面を守ろうともがく「悲痛な叫び」なのだ。歪んだレンズの向こうで、彼が遠ざかれば遠ざかるほど、リネットの中の救済義務は肥大していく。
一針ごとに執着を縫い込み、布の上に結晶化させていくその作業は、もはや刺繍という名の呪物を造り出す儀式に等しかった。
(私が、あなたを救ってあげなきゃ。誰も知らない、本当の『癒やし』を、私が完成させてあげる)
リネットの手の中で、銀の針が狂ったように躍る。
誰にも邪魔されない深い眠りと、永遠の安らぎ。漆黒の糸で綴られる「究極の善意」が、今、産声を上げようとしていた。
学園の廊下でケインの姿を見かけるたび、リネットの胸は痛んだ。
彼は以前よりも痩せ、目の下に薄く隈を作っているように見えた。それは学園祭の準備や、生徒会の公務によるもの。そして、リネットへの対応に疲れてが一番大きい要因だったが、リネットの瞳には「自分への愛と葛藤し、すり減っている姿」に映った。
(……ああ、あんなに無理をして。本当は、私の腕の中で全てを投げ出してしまいたいでしょうに)
リネットの部屋には、漆黒のベルベットに銀糸で星座を模した、小さな香り袋が置かれていた。
一針一針、指先を血で滲ませながら縫い上げたその刺繍は、凝視すれば吸い込まれそうなほど緻密で、禍々しいほどの美しさを放っている。
その中には、安眠の効果があるという禁じられたハーブと、リネットが裏取引で手に入れた強力な睡眠薬の粉末が仕込まれていた。
(休ませてあげなきゃ。眠れば楽になれる。……一度、深く、深く眠ってしまえば、あなたは私の真実の愛を認めざるを得なくなるはず)
放課後、リネットはケインが一人で自習をしている教室に忍び込んだ。
夕闇が迫る教室で、机の上には彼が飲みかけの、温くなった紅茶のカップが置かれている。
リネットは震える手で小瓶を取り出し、透明な液体を注いだ。
それは彼女にとって、彼に贈る「最高の贈り物」だった。
一口飲めば、数時間は目覚めない。その間、自分が彼の傍らで、その寝顔を見守り、髪を撫でてあげるのだ。
「……何をしてるんだ、君は」
背後から響いた冷徹な声に、リネットの肩が跳ねた。
振り返ると、入り口にケインが立っていた。その瞳には、もはや困惑など微塵もなかった。
「あ、ケイン様……。ちょうど、お疲れのようでしたから、お茶を新しく……」
「混ぜたよね。今、何かを、その中に入れたよね」
ケインはリネットへ一歩近づき、カップを取り上げた。液面を見つめる彼の顔が、嫌悪感で歪む。
「何を入れた? 毒か? それとも……」
「違います! 善意ですわ! 100%、あなたのための善意です!」
リネットは必死に訴えた。自分がいかに彼の疲れを案じているか、いかに彼に休息が必要か。そして、自分だけがその「正解」を知っているのだと。
しかし、ケインが発したのは、彼女が期待していた感謝の言葉ではなかった。
「……消えてくれ。怖いんだ。君の何もかもが、狂ってる」
ケインの震える声。それは怒りよりも、正体不明の化け物を目の当たりにした人間の、根源的な「拒絶」だった。
リネットが差し出そうとした「癒やしの刺繍袋」は、彼の手によって床に叩き落とされた。
「触らないでくれ……!」
ケインの叫び声を聞きつけ、廊下を巡回していた騎士科の生徒たちが教室になだれ込んでくる。
リネットはあっという間に取り押さえられ、冷たい床に組み伏せられた。視界の隅では、あの漆黒の刺繍袋が、誰かの靴に蹴られて無惨に転がっている。
「おい、何があったんだ!?」
「ケイン、大丈夫か!?」
駆けつけた生徒たちが、テーブルの上の水差しと、リネットが隠し持っていた小瓶を見て、一瞬で状況を察した。静まり返った教室に、無遠慮な野次が飛び交い始める。
「えっ、あいつ……何か混ぜたのか?」
「嘘だろ、毒かよ」
「いや待てよ、あの地味なリネットだろ? 薬って……もしかして催淫剤とかの類じゃないのか?」
「うわ、マジかよ。……必死すぎて引くわ」
ドッと下卑た笑いが起きた。
リネットの心臓が、屈辱で引き裂かれそうになる。
「違います……! 私はただ、ケイン様に安らかな眠りを……!」
「眠り? 薬を飲ませて、寝首をかくつもりだったのか。恐ろしい女だ」
誰も、彼女の言葉を「善意」として受け取らない。
ケインは、まるで汚物に触れた後のように自分の袖を強く握りしめ、一度もリネットを振り返ることなく、騎士たちに促されて教室を後にした。
事件は、王都の社交界で格好の「毒婦の寓話」として消費された。
学園を追放されたリネットに下された処分は、北の果てにある、荒れ果てた修道院での終身奉仕だった。
石造りの冷たい一室。リネットは、そこで毎日ひたすら、祭壇に捧げる真っ白な布に、単調な文様を縫い続けていた。
「刺繍の腕は見事だったのにね、あの子」
「魔女に魅入られたのよ。技術だけが突出して、心が追いつかなかったのね」
修道女たちの囁き声は、隙間風のように彼女の耳を通り過ぎていく。
リネットは、窓から見える冬の灰色の空を眺めながら、あの日々の記憶を何度も反芻していた。
ケインとの出会い。机を近づけてくれた、あの瞬間の洗髪料の香り。
自分の「善意」が彼を救うと信じて疑わなかった、狂熱の日々。
(……どうして、あの方はあんなに怯えていらしたのかしら)
ある日の午後、窓辺で針を動かしていたリネットの指先が、ふと止まった。
脳裏に、あの日、教室で自分を拒絶したケインの瞳が、高解像度で蘇る。
それは、照れでも、戸惑いでも、葛藤でもなかった。
汚物を見るような、あるいは底の知れない深淵を覗き込んでしまったような、純粋な「嫌悪」と「恐怖」。
「……ああ」
リネットの手から、針が滑り落ちた。
石の床に当たった小さな金属音が、やけに大きく響く。
自分が「特別」だと思っていたあのハンカチ。
自分が「癒やし」だと思っていたあの薬。
自分が「愛」だと思っていた、あの方への全ての執着。
それらは、ケイン様にとっては、ただの『気味の悪い押し付け』でしかなかったのだ。
「……私、嫌われていたのね」
乾いた声が、何もない部屋に消える。
ようやく届いた正解は、あまりに遅すぎた。
リネットは震える手で再び針を拾い上げたが、もう何を縫えばいいのか分からなかった。
その頃、王都ではケインとセシルの婚約が正式に発表されていた。
セシルが贈ったのは、高価な刺繍でも、特別な薬でもなかった。ただ、彼が疲れた時に黙って隣に座り、彼が好きな林檎を剥いてあげるという、あまりに平坦で、ありふれた、けれど本物の「癒やし」だった。
リネットは、滲んできた涙で白布を汚さないよう、ただ静かに、空虚な針を動かし続けた。
修道院の冬は、指先の感覚を奪うほどに冷酷だった。
リネットは、もはや自分のための「特別な意匠」を凝らすのをやめていた。
かつての彼女なら、自分の技術を誇示するように糸を重ねていただろう。けれど、今彼女が手掛けているのは、飾り気のない、ただの白い麻のハンカチだった。
そこには、一箇所だけ。
隅の方に、小さく、目立たない白糸で「幸福を」という祈りの文様が刻まれていた。
謝罪の言葉も、自分の名前も、呪いのような愛の重さもない。
人生で初めて、彼女が「相手の立場」に立って、その幸せだけを願って縫い上げた、ズレていない本物の善意だった。
「……これなら、あの方の邪魔にはならないはず」
リネットは、そのハンカチを匿名で、ケインの結婚祝いとして送った。
それが彼女に残された、唯一の、そして最後の「正しい恋」の始末だった。
数週間後。
王都のアッシュフォード侯爵邸では、溢れんばかりの祝辞と贈り物が届いていた。
ケインは、婚約者のセシルと共に、サロンでそれらを一つずつ確認していた。
「ケイン、これ……差出人のない贈り物よ。中身は、ただの白いハンカチ?」
セシルが差し出した包みの中には、リネットが魂を削って縫い上げた、あのハンカチが入っていた。
ケインはそれを手に取り、一瞬だけ視線を落とす。
隅に施された、あまりに精緻で、あまりに控えめな白い刺繍。
その瞬間、ケインの脳裏に、あの教室での、ドロリとした執着を湛えたリネットの瞳がフラッシュバックした。
背筋を走る、生理的な不快感。
「……ああ、それ。誰かからの、ただの挨拶だろう。いいよ、そんなことより、セシル」
ケインは、そのハンカチに込められた「変化」に気づくことさえなかった。
彼にとって、リネットという存在はすでに終わった、気味の悪い思い出でしかなかったからだ。
「君のドレスに合わせる刺繍の図案が届いたんだ。こっちを見てくれないか? 君には、もっと華やかで、明るい色が似合うから」
「ええ、嬉しいわ! 見せて!」
二人の明るい笑い声がサロンに響く。
ケインは、手元の白いハンカチを、読み終えた手紙と一緒に、傍らの暖炉へと無造作に放り投げた。
パチリ、と火の粉が舞い、白い布はゆっくりと黒く縮れた。
その間も、二人の笑い声は途切れることなく続いていた。
窓の外では、また新しい冬が始まろうとしていた。




