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第一話:詰んだ王城と鍵愛令嬢


「――エルナ・クローウェル侯爵令嬢! 貴様のような、機械油の臭いを漂わせた『鉄屑女』との婚約など、もはや一秒たりとも耐えられん! 今この瞬間をもって、破棄させてもらう!」


王宮の隅、静まり返った『開かずの小食堂』の前で、私の元婚約者――名前は確か、ジャスティンだったか、ジュリアンだったか――が、顔を真っ赤にして叫んでいた。


鼻を突くのは、彼がこれ見よがしにつけている安っぽいバラの香水の匂い。そして、私の鼻腔を心地よくくすぐるのは、ドレスの袖に染み付いた、愛用の潤滑用植物油と、微かな鉄粉の、乾いた、それでいて官能的な香りだ。


「……そうですか。それは重畳ですわ」


私は視線を彼に向けず、その背後にある『扉』を凝視していた。

先代国王が亡くなってから三日。この王城は、文字通り「詰んで」いた。


政治に飽きた先王が打ち込んだ趣味と遺した狂気――それは、城中のあらゆる錠前を、彼が自作した『超高難度・独自規格シリンダー』に取り替えるという暴挙だった。

重厚なオーク材の扉に嵌め込まれたそれは、複雑に入り組んだ歯車と、龍の鱗を模した真鍮製の装飾が施されている。見た目だけではない。内部には、微細なバネと重力感知式のピンが、二十四層にも重なって組み込まれているはずだ。


ああ、愛らしい。

月明かりに照らされたその鍵穴は、まるで「私を開けてみて」と誘う唇のように見えた。


「聞いているのか、この地味女! 貴様のその、分厚い眼鏡の奥の濁った瞳が心底気味が悪いと言っているんだ!」


「はい、聞いております。婚約破棄、確かに承りました。ついては、慰謝料代わりにその扉の前から退いていただけますか? あなたの香水、シリンダーの繊細な香りを邪魔するんですもの」


「なっ……!」


絶句する元・婚約者を無視し、私は重いドレスの裾を捲り上げた。

淑女にあるまじき所作だが、構わない。太ももに巻いたガーターベルトには、レースの飾りなど一つもない。そこにあるのは、職人が一本ずつ鍛え上げた、鋼鉄製のピックとテンションレンチのセットだ。


指先に触れる、冷たく、硬質な鋼の感触。

私の指は、幼い頃からこの感触だけを愛してきた。刺繍針よりも重く、剣よりも鋭い、真理をこじ開けるための相棒。


私は、膝をついて扉に向き合った。

背後でジャスティン(仮)が何か喚いているが、もはや背景の雑音に過ぎない。


(さあ……お話ししましょう、可愛い子)


私は極薄のテンションレンチを鍵穴に差し込み、僅かなトルクをかける。

指先に伝わる、金属同士が擦れる微細な摩擦。

『ザリッ』という、砂を噛むような感触。先王様、少しメンテナンスを怠りましたわね? 内部に古いグリスが固着しているわ。


私はドレスの隠しポケットから、極細のノズルがついた油差しを取り出した。

一滴、二滴。

鍵穴の奥へと、滑らかな油が浸透していく。

……沈黙。

金属たちが、油の膜を得て呼吸を整える気配がした。


(第一ピン、セット……。第二、第三……。ああ、ここね。偽の刻み(フォールス・セット)があるわ)


ピックを通じて、脳に直接シリンダーの内部構造が投影される。

真鍮のピンが跳ね、スプリングが収縮する音。それは私にとって、どんな宮廷音楽よりも甘美なアリアだった。


「おい、何を……何をしているんだ、お前は!」


「お静かに。今、この子が『そこじゃない』って言っています」


私はトランス状態にいた。

周囲の空気は、王城が麻痺しているせいで冷え切っている。食糧庫も執務室も、そして国王の寝室さえも、先王の遺作によって封印されている。城の住人たちは、空腹と苛立ちで限界に達していた。


私もそうだ。三日前から、まともな食事にありつけていない。

この『小食堂』の扉の向こうには、先王が愛した最高級の保存食が眠っているはず。


『カチリ』。


耳の奥で、小さな、しかし決定的な音が響いた。

それは、世界が肯定された音。

二十四のピンが、完璧に一直線のシアーラインを描いた証。


私は優雅に、しかし力強く、レンチを回した。

ゴトッ、という重厚なラッチの開放音が廊下に響き渡る。


「……開きましたわ」


ゆっくりと扉が開く。

中から流れ出してきたのは、熟成された生ハムの塩気と、上質なワインの残り香。

そして――。


「……誰だ」


部屋の中から、低く、冷徹な声が響いた。

燭台の灯りに照らし出されたのは、書類の山に囲まれ、眉間に深い皺を寄せた一人の青年。

現国王、キリアン・フォン・アスガルド。

先王の息子であり、この「鍵の迷宮」と化した城で、唯一正気を保とうと奮闘している男だ。


彼は、手に持っていた(おそらくこじ開けようとして曲がったのであろう)金色のペーパーナイフを落とした。

床に転がったナイフは、無惨にも刃先が潰れている。


「執務室が開かないから、ここを臨時の作業場にしていたのだが……。この扉は、王国最高の鍵師三人が『一週間かかる』と匙を投げたはずだが?」


私は、ドレスの膝についた埃を払い、優雅にカーテシーをした。

手にはまだ、油に汚れたピックが握られている。


「申し遅れました。クローウェル侯爵家が娘、エルナと申します。……陛下、そのペーパーナイフでは、先王様の『龍鱗錠』は一生開きませんわ。あれは、愛してあげないと心を開かない、とても内気な子ですから」


私は、空腹のあまり、少しだけ大胆に微笑んだ。

眼鏡の奥で、私の瞳は獲物を見つけた猛禽のように輝いていたに違いない。


「陛下。お腹が空きました。……解錠の報酬に、そちらの生ハムを一口いただけますかしら?」


キリアン王は、呆然とした様子で私を見つめていた。

彼の視線は、私の顔から、その細く、鉄粉で汚れた指先へと移る。

やがて、彼は低く笑い出した。


「婚約破棄されたばかりの侯爵令嬢が、王城最強の封印を数秒で突破し、報酬にハムを要求するか。……面白い」


彼は椅子から立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。

彼から漂うのは、冷たい雪のような、そして少しだけ焦燥の混じった、気高い香り。


「エルナと言ったか。貴様に、ハムどころかこの城の厨房、宝物庫、そして私の寝室の鍵まで全て預けると言ったら、どうする?」


「……それは」


私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「寝室」という言葉への羞恥心ではない。

王城中の、まだ見ぬ処女おとめのような鍵たちが、私の指先を待っているという事実に、背筋が震えたのだ。


「喜んで、蹂躙させていただきますわ」


こうして、地味で「女を捨てた」はずの鍵オタク令嬢は、最悪のタイミングで、最悪に魅力的な雇い主に見つかってしまったのである。



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