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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
医師?
9/19

医師 4

 彼の脳裏には、手術室でメスを握る自分の姿が浮かぶ。 その刃先が深見の命を奪う瞬間、悠翔の笑顔は戻らない。妻の失われた笑い声も戻らない。 ただ、血に濡れた自分の手と、取り返しのつかない罪だけが残る。


 安藤の肩は震え、涙が滲んだ。 復讐の衝動はまだ胸を焼いていたが、その奥に、より深い虚無が口を開けていた。


 男の問いは、安藤の心を突き崩す冷たい真実だった。


 安藤の目から、止めどなく熱い涙が滲み出た。 それは、七年分の憎悪が消え、無力な父親としての悲しみが溢れ出した、真実の涙だった。


「あなたが何もしなくても、犯人には罰が下ります」


「何もしなくても罰が下る? 馬鹿な! 七年もずっと逃げて、安穏と暮らしていたんだぞ!息子を殺しておいて、何の罰も受けていないじゃないか!」


 男は前髪の隙間から安藤を見つめ、僅かに前屈みになった。


「なぜ? 本当にそう思いますか?」


「それは……」


 安藤は、言葉を失った。確かに、自分は深見の逃亡生活を、一度も想像したことがなかった。

 男は、さらに一歩、安藤の心の深淵に、静かに、しかし容赦なく踏み込んできた。


「想像してみてください。犯罪を犯し、逃げて、逃げて、逃げて……いつ、どこで、誰に掴まるかもわからない。怪我をしても、病気になっても、病院に行くこともできない。定職に就けば足がつくから、日雇いの仕事で名を偽り続ける。お金もない。常に怯え、精神はくたくただ。鏡を見るたびに、自らの罪がフラッシュバックする」


 男は、深見の絶望的な逃亡生活を、まるで見てきたかのように語った。


「それが、安穏と生きていることになりますか?」


 安藤の脳裏に、先ほど確認した深見の初期記録が蘇った。 搬送時のカルテに記されていた、「重度の脱水症状」「慢性的な栄養失調」「不自然な歯の欠損」の兆候。 それは、男が語る「くたくたな精神」と「貧困な生活」の証拠のようだった。


 安藤が理想化していた憎むべき敵の像は、音を立てて崩れ去った。 深見は、七年間、法ではなく、自らの罪の意識によって、最も残酷に罰せられていたのだ。


「でもそれは、犯人自身が選んだ道です」


 男の言葉は、深見を擁護するものではなかった。 ただ、客観的な真実を述べているだけだった。


「自ら罪を犯し、逃亡生活を選んだ。その代償として、彼は七年間、自らの手で自らの精神を殺し続けてきた。それが、彼の選んだ罰です」


 安藤は、男の瞳を注視した。前髪が長く、相変わらず表情は読めない。 しかし、その声は、深見を哀れんでいるのではなく、むしろ彼の罪の重さを淡々と語っているようだった。


「きっとこれからも、死ぬよりも、生きる方が、苦しいでしょう……」


 その言葉は、安藤の胸に重く沈んだ。

 男の言葉は、まるで厳かな判決のようだった。彼にとって最大の苦痛は、生きること、そして自らの罪と向き合い続けることなのだ。


「あなたが手を下せば、犯人と同じ思いをすることになりますよ」


 その言葉は、安藤の胸に再び深く突き刺さった。 そうだ――もし手術で深見を殺したとして、安藤の心は晴れるだろうか? 一時の高揚感の後に残るのは、殺人者となった自分自身と、医師の誓いを破った罪悪感だけだ。


「それは、あなた自身をも苦しめる。憎しみという鎖で、あなた自身を犯人と同じ地獄に引きずり下ろすだけだ」


 その冷徹な響きは、安藤の心臓を締め付けるように響いた。 彼は無言でテーブルを見つめた。


 これまで抱えてきた復讐の炎が、静かに鎮火していくのを安藤は感じた。

 安藤の肩は震え、涙が頬を伝った。 それは憎悪の涙ではなく、父としての悲しみの涙だった。 七年間、憎しみで覆い隠してきた心の奥底から、ようやく本当の感情が溢れ出したのだ。


 休憩室の静寂の中、安藤の荒い呼吸と、男の冷静な声だけが響いていた。


 安藤は、ゆっくりと目を閉じた。 復讐の炎は消えた。残されたのは、悲しみと、そして医師としての自分を取り戻すための選択だった。


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