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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
医師?
7/20

医師 2

 休憩室の薄暗闇の中で、安藤は、両手で頭を抱え、全身は冷汗でびっしょりと濡れ、白衣の下のシャツが肌に張り付いていた。七年間積み重ねてきた憎悪が、今まさに彼を医師の座から引きずり降ろそうとしていた。


 その時、ドアが静かに開いた。 休憩室に一筋の廊下の光が差し込み、暗闇を裂いた。


 安藤は反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、見慣れない男だった。


 男は白衣を着ていたが、安藤には見覚えのない顔だった。前髪が長く垂れ、表情は影に隠れてよく見えない。安藤は瞬時に、研修医か、あるいは臨時のバイトだろうと判断した。


 だが、その男の立ち姿は、この病院の慌ただしい雰囲気にまるで馴染んでいなかった。猫背気味で、動作はゆっくり。まるで時間の流れから切り離された存在のようだった。


 そして、その瞳――。 暗闇の奥で淡く光るように見えたその瞳には、この世の出来事から一歩引いたような、不自然なほどの静けさが宿っていた。人間の感情の波を拒絶するかのような、異質な透明さ。


 男は、安藤の極度の緊張状態にまるで気づかないかのように、静かに口を開いた。


「今日はここの夜勤だったので、間に合いました」


 その声は、安藤の耳元で鳴り響く殺意と対照的に、驚くほど静かで澄んでいた。 まるで水面に落ちる一滴のしずくのように、休憩室の空気を震わせた。


 安藤は、彼が何に「間に合った」のかを考える余裕すらなかった。 ただ、その言葉の響きが、殺意を一瞬だけ押し返すように、彼の心の奥に染み込んでいった。



 男は、安藤の横を通り過ぎ、壁際に置かれたスタッフ用の棚に目を向けた。そこには、夜勤中に食べるための乾燥したビスケットや、パサパサのクッキーの詰め合わせが無造作に置かれていた。


「お、そこのお菓子って食べてもいいですか?」


 男は、極限状態にある安藤の存在を、まるで背景の一部のように無視し、ごく自然な動作で棚からクッキーの袋を取り出した。


「腹減ってて」


 袋を破る音が、休憩室の静寂に妙に大きく響いた。


 安藤は、この場違いな行動に、怒りよりも先に呆然とした。

(何なんだ、この男は……俺が今、手術を中断して逃げ込んでいるというのに)


 男はクッキーの袋を開け、ひとつを口に運びながら、ようやく安藤の方へ顔を向けた。前髪が長く垂れ、表情は半分影に隠れている。


「で、何かあったんですか? 顔が真っ青だ」


 もそもそとクッキーを噛む音と、男の飄々とした口調が、安藤の耳元で鳴り響く殺意と奇妙な不協和音を生み出した。まるで二つの異なる世界が、同じ空間で衝突しているかのようだった。


 安藤は、この男が、自分の内面の苦悩を微塵も理解していないことに、かえって話す気になった。どうせ、誰にも理解されない。ならば、架空の話としてなら、吐露できるかもしれない。


 彼は、自身を落ち着かせるため、深く息を吸い込んだ。


「君は……誰だ?」


 問いかける声は、かすかに震えていた。


「ただの臨時の夜勤スタッフです。ここには滅多に来ません」


 男は名乗らなかった。その視線は、安藤の顔ではなく、安藤の全身から発せられる焦燥と憎悪のオーラを、観察しているかのようだった。まるで、彼の肉体ではなく「心の影」を見ているような眼差し。


「よかったら、何があったか聞かせてもらえませんか?」


 その言葉は、軽い調子でありながら、不思議な強制力を持っていた。


 安藤は、男が自分と全く関係のない世界の人間であることに、奇妙な安堵を覚えた。病院の同僚でもなく、過去を知る者でもない。だからこそ、重い口を開くことができた。


「もしもの話だ……」


 安藤は、喉の奥から絞り出すように言った。声はかすれ、まるで自分の胸の奥に溜まった毒を吐き出すようだった。


「今、君が手術室に入って、手術をする相手が……悪人だったらどうする? 誰かの人生を破壊した、殺人犯とかだ。そのチャンスも、権利もある。きっと誰にも、バレない。咎められることもない。完全犯罪になる」

 健太は、復讐の持つ「正当性」と「容易さ」を懸命に訴えた。


 安藤は、男が自分の言葉に驚くか、あるいは倫理的な答えを返すかと思った。だが、男はクッキーを噛むのを止め、ただ静かに安藤を見つめた。


「悪人なら、どうするんですか? 殺すんですか?」


 男の問いかけは、安藤の思考をそのまま受け止め、客観的な刃として突き返してきた。その冷徹な問いに、安藤の胸が激しく高鳴った。


「そ、そうだ! 殺されても仕方がないだろう! 医者には、命を救う義務がある。だが、それは善良な人間に対してだ! 誰かを無差別に傷つけるような人間は……」


 安藤は、自分の心に湧き上がる正義感を、男にぶつけようとした。


「極刑に処されて当然だ! それが、裁きというものだろう。今、彼の命を救うことは、天罰を阻止することになるんだ!」


 男は、クッキーの袋をそっと閉じ、安藤の近くに置いた。動作は緩やかで、まるで安藤の激情とは別の時間を生きているかのようだった。


「なるほど。なぜ、悪人なら殺してもいいんですか?」


 男は、安藤の感情的な主張を無視し、ただ「なぜ?」という、最も基本的な問いを突きつけた。


「……なぜって、当然だろう! あいつは、俺の……」


 安藤は寸前で言葉を飲み込む。だが、胸の奥から溢れる憎悪は止められなかった。


「……俺の、大切な人を殺したんだ! そのような悪人が、のうのうと生きていい資格はない! 法の裁きから逃れているなら、俺が最後の裁きを下してやる!」


 安藤の目は、憎悪で血走っていた。彼は、目の前の男に、自分の復讐の正当性を証明したかった。


「なぜ、あなたが裁きを下さなければならない?」


 男は、さらに一歩踏み込んだ。声は淡々としていて、非難も同情も含まれていない。ただ、安藤の論理を正確に突き返す冷たい鏡のようだった。


「それは、……俺が被害者の関係者だからだ!俺には、その資格がある!あの男のせいで……すべてを失った!」


 安藤は、ついに自らを「被害者の関係者」と明かしてしまった。男は、それを聞いて初めて、彼の極限状態が、単なる倫理的な葛藤ではなく、七年間積み重ねてきた憎悪の果てであることを理解した。


「すべてを失った。だから、犯人を殺す権利を得た、と?」


 男の声には、非難の色は全くなかった。ただ、「安藤医師の思考のロジック」を、正確に言語化しているだけだった。その感情のない正確さが、安藤の心を激しく揺さぶった。


「違う!権利じゃない!これは……義務だ!俺が彼を救ってしまえば、裏切りになる!息子への、愛する人への裏切りだ!」


 安藤の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。憎悪が、後悔と悲しみに変わる瞬間だった。 その涙は、七年間押し殺してきた感情の堰が、ついに決壊した証だった。


 男は、ただ静かにその涙を見つめていた。


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