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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
医師?
6/19

医師 1

安藤健太あんどうけんたにとって、手術室は世界で最も静謐な場所だった。 メスを握り、人間の体内に深く分け入るその瞬間、外部の雑音はすべて消える。聞こえるのは、自分の呼吸音と、執刀を導く冷静な思考だけ。そこには恐怖も迷いもなく、ただ「救う」という一点に収束した意識があった。


彼は、この地域の総合病院で、救命救急の第一線に立つ、優秀な外科医だった。手技は正確無比で、判断は常に理性的。同僚からは「感情のない機械のようだ」と評されることもあったが、それは安藤にとって生き残る術だった。


しかし、その冷静さは、安藤自身が望んで選んだ生き方ではなかった。


――七年前。


安藤は、最愛の息子・悠翔ゆうとを、ひき逃げ事件で失った。犯人は逃走し、捕まらないまま。安藤は医師として、最後まで息子の命を救おうと必死に処置を施したが、叶わなかった。 その瞬間、彼の人生は音を立てて崩れ落ちた。


愛する息子を救えなかった無力感。逃げ去った犯人への激しい憎悪。 そして、その憎悪と後悔を妻も共有しながら、お互いを責め合う日々。やがて夫婦関係は修復不可能となり、二年後、彼らは静かに離婚した。


それ以来、安藤の人生は、息子と妻がいた頃の鮮やかな色彩を失い、深い灰色に染まっていた。彼は感情をすべて押し殺し、ただ目の前の命を救うという医師としての義務だけを生きる糧とした。


(感情は、判断を鈍らせる。自分は、ただの道具だ)


毎朝、鏡に映る自分にそう言い聞かせた。 そこに映るのは、かつて父であり夫であった男ではなく、冷徹な外科医という「道具」だった。人間としての温もりを失い、ただ正確に切り、縫い、救うためだけに存在する器械。


それが、安藤健太の生きる唯一の方法だった。



その夜も、安藤健太はいつものように夜勤帯に入っていた。午後11時。救命救急センターに、激しいサイレンの音が響き渡る。


「緊急! 重症交通事故患者、多発性外傷、腹腔内出血の疑い!」


当直の安藤医師は、即座に患者受け入れと手術の準備を指示した。


「バイタルは? 意識は?」

「重篤です。すぐに手術が必要です」


ストレッチャーに乗せられて運び込まれたのは、高齢と思しき男性患者だった。顔は血と埃に塗れ、意識はない。安藤はすぐに処置室に入り、患者の状態を確認する。


「処置室! 全身麻酔と輸血準備。手術室の確保、至急!」


命の危険がある患者を前にすれば、安藤の冷徹な「道具」としての思考が即座に起動する。メスを握る決断に、躊躇はなかった。


看護師から渡された簡易的なカルテに目を走らせる。氏名、年齢、事故状況……そして、患者の顔を見た、その瞬間だった。


世界が、一瞬にして凍り付いた。


血と埃に塗れた顔。意識を失っているが、目の下に刻まれた特徴的な傷跡。カルテに記された氏名。


「……深見 俊一」


安藤の全身から、一斉に血の気が引いた。手術室の照明、周囲の看護師や麻酔科医の声、すべてが遠のき、無音になる。時間が止まり、世界が色を失った。


(ま……さか)


七年間、安藤が肌身離さず持ち歩いていた、犯人を特定するための私的な資料。警察の捜査とは別に、彼自身が独自に収集した、わずかな手がかり。そこに記されていた名前と、目の下の傷跡――。


目の前の患者は、悠翔を奪った「ひき逃げ犯」だった。


安藤の手は震え、握っていたカルテがわずかに音を立てて揺れた。冷徹な「道具」としての思考が、一瞬にして崩れ去る。 胸の奥から、七年間押し殺してきた憎悪が、黒い炎となって噴き上がる。


だが同時に、医師としての義務が彼の手を縛り付けていた。 目の前の男は、今まさに死にかけている。救うか、見殺しにするか――。


安藤の心臓は、かつてないほど激しく脈打っていた。


「安藤先生、準備が整いました。手術を開始します」


麻酔科医の声が、安藤を現実へと引き戻した。彼は無言で、手を洗い、術衣に着替える。その動作は一分の隙もなく、完璧だった。周囲の誰も、彼の内面に嵐が巻き起こっていることなど、想像だにしなかった。


手術が始まる。腹腔内出血の止血と、多発性外傷の処置。外科医として、安藤の手は迷いなく動く。メスが皮膚を切り開き、血が滲み、肉が露出する。 しかし、その冷徹な手の奥で、安藤の心は煮えたぎっていた。


(殺せる。このメスで、今、殺すことができる)


心臓が、狂ったように鼓動を始める。 メスの角度を、わずか一ミリずらす。止血のタイミングを、数秒遅らせる。重要な血管を、意図的に傷つける。


誰も気づかない。多発性外傷という緊急事態の中では、それは「予期せぬ術中合併症」として処理される。誰にも責められない。むしろ、全力を尽くしたが救えなかった、と讃えられるかもしれない。


(やれ。殺せ!殺してしまえ…!この男が生き残れば、また誰かを傷つける。天罰だ。これは、正当な裁きだ!)


メスが、出血源に近づく。 殺意は、安藤の脳を侵食し、理性という名の防壁を破壊しようとしていた。

麻酔科医が、安藤の顔色の異変に気づいた。


「安藤先生、何か?」


「……いや、何でもない」


安藤は即座に答えた。しかし、その声はかすかに震え、握るメスの先端は定まらなかった。彼は、医師としての使命と、父親としての復讐心の、極限の戦いの渦中にいた。


――息子を殺した犯人を、自分のメスで救わなければならないのか。 それとも、誰にも気づかれずに、この場で闇に葬り去るべきなのか。


(だめだ……このままでは、手が……)


安藤の理性は、極限まで追い詰められていた。 このまま執刀を続ければ、どうなるかわからない。

彼は、手術台の患者――殺人犯・深見俊一から一歩後ずさった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


安藤は、震える声で言った。


「代わりの術者がすぐに来る。私は、一旦、手を洗う」


その言葉に、手術チームは一瞬、動きを止めた。緊急手術中に執刀医が抜けるなど、異例中の異例だった。


「先生、患者の容態が……」


「わかっている! 処置は進めろ。すぐに戻る」


安藤は、術衣を脱ぎ捨て、手術室のドアを開けて外へ飛び出した。


廊下を走り抜け、誰もいない休憩室へと逃げ込む。自動ドアが閉まる音が背後に響き、室内の薄暗さが彼を包み込んだ。


安藤は壁際に駆け寄り、その場に崩れ落ちた。そして、両手で自分の頭を抱え込み、荒い息を吐いた。

七年間、法の裁きから巧妙に逃げ続けた男に、今、神でも法でもない、一人の父親として、裁きを下す絶対的な権利が与えられたのだ。


(なぜ……なぜ今、俺の前に現れる……しかも、患者として!)


こんな運命があるだろうか。なんという非情な、そして皮肉な巡り合わせだろうか。


(一体、どうすればいい……? 俺は、医師だ。だが、俺は……あの子の父親でもあるんだ……)


彼の肩は震え、呼吸は乱れ、心臓は胸を突き破るほどに脈打っていた。

その瞳には、医師としての冷静な使命感は完全に消え失せていた。

宿っているのは、ただただ、七年間凍らせてきた、父親としての純粋な殺意だった。

深見を殺せば、誰も構うまい。いや、むしろ、息子の仇を討った英雄として、世間は彼を賞賛するかもしれない。

だが、彼は医師だ。

葛藤が、脳髄を切り裂く。彼の心は、医師の誓いと、父親の慟哭という、二つの激流に引き裂かれ、もがき苦しんでいた。

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