親友 5
復讐という、執着を断念したあとの紘一の心は、自分でも驚くほど、嘘のように穏やかだった。
あの男との対話を経て、胸の奥で荒れ狂っていた烈火のような怒りは、跡形もなく消え失せていた。あんなに自分を焼き焦がし、突き動かしていた衝動が、今はもう遠い冬の日の幻灯のように頼りない。
教室の空気も、少しずつ変わりつつあった。
いじめの首謀者として君臨していた風間は、いつの間にか学校に姿を見せてなくなった。主を失った取り巻きたちは、自分たちの居場所を誇示するように相変わらず騒々しく振る舞っていたが、その声にはどこか空虚な響きが混じっていた。盾も矛も失った彼らの虚勢は、以前のような鋭さを欠き、教室の隅で力なく霧散している。
以前の紘一であれば、彼らの笑い声が耳に入るたび、腹の底から灼熱の憎悪がせり上がってきたはずだ。全身の血が沸騰し、視界が真っ赤に染まるような、あの身を焼く衝動。
しかし、今の紘一は違った。
騒ぎ立てる彼らを、紘一は視界の端に入れることすらしなかった。かつて自分を苦しめた加害者たちは、今や背景に溶け込む無意味な点に過ぎない。
彼らが何を喋り、誰を嘲笑おうと、紘一の心を揺らすことはもうできない。その存在は、窓の外を通り過ぎる風の音や、遠くで鳴る工事の響きと同じ――取るに足らない、ただの「雑音」へと成り下がっていた。
憎むことさえ、エネルギーを必要とする。今の紘一にとって、その貴重な心の灯火は、彼らのような存在に浪費するためのものではなかった。彼はただ静かに教科書をめくり、自分の中にある良太との穏やかな記憶だけを見つめていた。
紘一の日常は、ゆっくりと動き出した。
これまで彼の世界を覆っていた灰色のフィルターが、一枚ずつ剥がれ落ちていく。 見上げた空の青さは、吸い込まれそうなほどに深く、澄み渡っている。窓から差し込む午後の陽光は、埃のひとつひとつを黄金色に輝かせ、彼の机の上に柔らかな体温を落とした。
かつては耳を塞ぎたくなるほど不快だった教室の喧騒でさえ、今は生命の拍動として届く。遠くで響く部活動の掛け声、ページをめくる音、誰かの屈託のない笑い声――。そのすべてが、自分が今、この世界の一部として生きていることを証明しているようだった。
「……綺麗だな」
不意にこぼれた独り言に、自分でも驚いて視線を落とす。 これまでは、足元の影ばかりを見つめて歩いてきた。憎しみに囚われていた頃の世界は、平坦で、冷たく、どこか作り物のようだったのだ。
だが今、紘一の瞳に映る世界は、瑞々しい鮮やかさを取り戻している。 良太を失った悲しみという「痛み」さえも、彼にとっては自分がまだ心を持っていることを教える、温かな体温の一部になっていた。
「……良太」
小さく呟いた声は、風に溶けて消えた。 彼の中に残されたのは、ただ真っ直ぐな哀悼の念だけだ。それは、良太と過ごした日々の記憶を、汚さぬように大切に抱きしめるように。
復讐のために握りしめていた拳を解き、空いたその手に、彼はようやく温かな思い出を拾い集めることができたのだ。紘一の瞳に映る景色は、いつの間にか、かつて二人で眺めた空のように澄み渡っていた。
*
紘一の胸にふとした疑問が芽生えたのは、ある昼休みのことだった。
(……そういえば、あの男を一度も見ていない)
あの日を境に、彼の世界から「あの男」の気配がぷつりと途絶えていた。気づくと同時に、紘一は突き動かされるように席を立っていた。
喧騒に満ちた廊下を抜け、彼は男を探し始めた。 まずは、静寂の澱む図書室。埃の舞う書架の間を歩き、窓際の席を覗き込んだが、そこにあの無機質な白衣の姿はない。 次に、冬の冷たい空気が滞留する体育館裏。影が長く伸びるその場所にも、誰の姿もなかった。
「どこに、行ったんだ……?」
そこには、男がそこにいたという痕跡すら、何一つとして残されていなかった。
男との対話によって救われた今、紘一は確かめたかったのだ。あの男が何者だったのか、そして、あの日最後に交わした言葉の続きを。だが、探せば探すほど、男の存在は霧のように薄れ、記憶の彼方へと溶け去っていくようだった。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
紘一は立ち尽くした。胸の奥に、奇妙な空白が広がる。 あの男は本当に教師だったのか、それとも――。
しかし、答えはどこにもなかった。残されたのは、彼が紘一の心に刻んでいった言葉と、復讐を手放した後に訪れた静かな安らぎだけだった。
紘一は、彼にもう一度会って、伝えたいことがあった。 あの静かで、執拗な「なぜ?」という問いかけが、彼を救ってくれたこと。 そして、良太との友情が、復讐という狂気よりもずっと大切で、決して手放すべきではない宝物だったことを改めて気づかせてくれたことへの、心からの感謝を。
だが、紘一が持っている情報は曖昧だった。白衣を着ていて、前髪が長くて顔がよく見えない――それだけ。
教室の喧騒を背に、紘一は藁をも掴む思いでクラスメイトたちに声をかけ始めた。かつて孤独の殻に閉じこもっていた彼が、自ら他者に歩み寄る。それは、本来ならば彼にとって大きな一歩のはずだった。
「あの、こんな先生を知らないか? たぶん理系の先生で、いつも白衣を着ていて……前髪が長くて、顔がよく見えないんだ」
必死に記憶の断片を言葉にするが、返ってくるのは困惑の表情ばかりだった。
「誰のことだ? そんな先生、いたかな……?」
「もしかして隣のクラスの担任か……?いや、白衣なんて着ないか」
「悪い、うちの学校でそんな奴、一度も見かけたことないよ」
誰もが首を振る。まるで見えない幽霊の話をされているかのような、薄気味悪さを孕んだ沈黙が流れる。
紘一は諦めきれず、職員室の重い扉を叩いた。長年この学校に勤めているベテラン教師なら、風変わりな同僚の一人や二人、把握しているはずだ。しかし、老教師は眼鏡の奥の目を細め、記憶を辿るように天井を見上げるだけだった。
「いつも白衣を着ている者は数人いるが、前髪が長い……? いや、心当たりがないな。そもそも、この学校にそんな先生いたかな……?」
言葉を濁す教師の反応に、紘一の胸に得体の知れない焦燥が込み上げる。
放課後、紘一が駆け込んだのは図書室の最奥にある資料コーナーだった。
名簿を見ることなど叶わない。ならば、過去の記録を遡るしかない。彼は書架の隅に並ぶ、重厚な装丁の「卒業アルバム」を数年分、机に積み上げた。
めくる指が微かに震える。昨年度、一昨年度、さらにその前。教職員の紹介ページを、一人残らず網膜に焼き付けるように確認していった。 理科、数学、実習助手――。整然と並ぶ証明写真の中に、あの男の、静寂を纏ったような顔を探す。
だが、どこにもいない。
どれだけページを繰っても、あの長く伸びた前髪も、すべてを見透かすような虚ろな瞳も、見つからなかった。
「……一体、誰だったんだ、あの人は」
紘一は力なくアルバムを閉じた。 パサリ、という乾いた音が、静かな図書室に虚しく響く。
復讐の炎に身を焼かれていた時は、あんなにも疎ましく、遠ざけたいと思っていた存在。なのに、本当の自分を取り戻した今、どうしようもなく彼に会いたいと願っている。
もしや、彼はこの学校の教師ですらなかったのではないか。 あの男が語った言葉、差し出した救い、そして最後に昇降口で見せた、どこか物悲しい微笑。それらすべてが、追い詰められた自分の心が作り出した白昼夢だったとでもいうのだろうか。
『なぜ?』
静かに、けれど逃れようのない重みで問いかけ、自分の復讐を押しとどめたあの男。 その正体が、この世界のどこにも繋がっていないのだと突きつけられた瞬間――。 背筋に走った寒気は、やがて鋭い氷の破片となって、紘一の胸の奥深くに突き刺さった。
彼は、自分の見ていたものが、憎悪という狂気に蝕まれた精神が生み出した「都合のいい幻影」だったのか。あるいは、もっと別の、人知を超えた何かだったのかを自問する。
図書室の窓から差し込む斜陽が、誰もいない机の上に長い影を落としていた。 その影を凝視していた紘一の脳裏に、不意にある記憶が重なる。 あの男の、表情を隠した前髪。自分を諭すような、どこか懐かしくも寂しげな響き。
「……もしかしたら、お前だったのか。良太……?」
唇からこぼれた呟きは、確信に近い響きを持っていた。 あの男が口にした、憎しみの虚しさや、遺された者の苦しみ。それは、志半ばで逝った良太が、道を踏み外そうとしていた親友を救うために、誰かの姿を借りて現れた奇跡だったのではないか。
そう考えると、すべてに合点がいった。 自分が最も必要としていた瞬間に現れ、心が平穏を取り戻した瞬間に消えていった、あの影のような男。
「……ごめんな。ありがとう」
紘一は溢れ出す涙を拭おうともせず、ただ、かつて親友と笑い合った空を仰いだ。 頬を伝い落ちる雫には、もう自分を焼き焦がすような怒りの熱はない。 それは、深い謝罪と、それを上回るほどの純粋な感謝が混じり合った、温かな涙だった。
夕闇が迫る教室に、復讐の黒い影はもうどこにも見当たらない。 紘一の心に静かに、そして力強く根を下ろしたのは、奪われた命への怒りではなく、共に生きた証としての「友情」という名の光だけだった。




