親友 4
三度目の復讐計画も失敗に終わり、紘一の心は極度の疲労と虚無感に支配されていた。 風間たちの顔を見ても、以前のような激しい怒りが胸を焼くことはもうなかった。代わりに押し寄せるのは、深い諦めと、無力感。怒りの炎は、謎の男の執拗な「妨害」によって、確実に削り取られていた。
その男は、紘一の行動を「悪」だと断罪することは一度もなかった。ただ「心配」するという形で、彼の前に立ちはだかる。責め立てるのではなく、寄り添うような声で、しかし決して譲らぬ存在感で、紘一の復讐の決意を止めてきた。
その日もまた、紘一は放課後の人気のない昇降口で、壁にもたれかかるように一人座り込んでいた。手には、四度目の復讐計画の詳細が書き込まれたメモ用紙が握られている。だが、実行する気力は、砂のように彼の指の間からこぼれ落ちていくばかりだった。
日が落ち、昇降口の窓枠から差し込んでいた西日の赤が、次第に濃い青色の夕闇へと変わっていく。廊下の隅に伸びる紘一の影は、長く、細く、まるで彼の心の空洞を形にしたかのようだった。
「どうした?」
その声は、空気のように静かで、感情の起伏を一切含まない。紘一はもう驚かなかった。あの声が聞こえることが、今や非日常的でありながら、日常の一部になってしまっていた。
男は、ゆっくりと紘一の真正面に立ち、わずかに身体を屈めて顔を覗き込んだ。長い前髪の奥にあるその顔は、透明感を帯びていて、夕闇の中ではさらに曖昧に見えた。輪郭は確かにそこにあるのに、光と影の狭間で溶けていくようで、紘一には現実感が薄れていく。
その視線は、紘一の心の奥底――怒りと疲労、そして虚無の混ざり合う暗い深淵――を静かに覗き込んでいるようだった。
「何かあったのか? そんなところに座り込んで」
その声に、紘一はもう耐えられなかった。 これまでの数週間にわたって積み重なった苛立ち、良太を失った悲しみ、復讐を企てたことへの罪悪感、そして計画が失敗し続けた虚しさ――それらが堰を切ったように一気に噴き出した。
「うるさい! あんたに、俺の何がわかるんだ!」
紘一は叫び、顔を歪めた。声は震え、喉の奥でひび割れるように響いた。だが男は動じない。ただ、じっと紘一の疲弊しきった目を見つめていた。その無言の圧力に、紘一はとうとう耐え切れなくなった。心の防壁が音を立てて崩れ去る。
「俺は……俺は、あいつらを殺してやるんだ!」
紘一は立ち上がり、握りしめていたメモを地面に叩きつけた。紙が床に落ちる小さな音が、昇降口の静寂を鋭く切り裂いた。
「良太は自殺なんかじゃない! あいつらに、毎日毎日、心を壊されて、殺されたも同然だ! この学校も、先生たちも、全員見て見ぬふりだ! 誰もあいつらを罰しない! だから、俺が良太の仇を取らなきゃダメなんだ! 俺が、良太のために、あいつらを社会的に殺してやる!」
紘一の告白は、もはや復讐の怒りというよりも、心の奥底から絞り出された絶望的な悲鳴だった。言葉は途切れ途切れに、しかし止めどなく溢れ出し、彼の胸を引き裂いていく。
張り詰めていた緊張が解け、大粒の涙が頬を伝い落ちた。視界は滲み、握りしめた拳は震えていた。彼はただ、誰かに、この耐え難い真実を受け止めてほしかった。良太の死の重さ、孤独の深さ、そして自分の無力さを――。
紘一の言葉を、男は最初から最後まで、静かに、まるで空気のように鎮座して聞いていた。 アスファルトの床に落ちたメモ用紙。その上で嗚咽し、肩を震わせる紘一。夕闇に沈む昇降口の空気は重く、時間さえ止まったかのようだった。
男は、ゆっくりと口を開いた。
「なぜ?」
その声には、驚きも、非難も、ましてや同情もなかった。そこにあるのはただ純粋な問い――底なしの問いだった。哲学者が真理を探るような響きで、紘一の胸の奥深くまで突き刺さる。
「なぜ、って……当たり前だろ! 良太は俺の友達だったんだ! あいつらのせいで死んだんだぞ! 仇を討って、あいつらに報いを受けさせなきゃ……!」
紘一は怒りを再燃させ、涙に濡れた目で男を睨みつけた。声は震え、喉の奥でひび割れるように響いた。
「なぜ?」
再び、同じ問いが返ってきた。静かで、揺らぎのない声。紘一は苛立ちを覚えた。なぜ分かりきった理由を、これほどまでに繰り返すのか。
男の瞳は、まるで静かな水面のように揺らがない。その眼差しは、紘一自身の心の奥底――復讐心の根っこにある、最も隠したい醜い感情を覗き込むようだった。彼はさらに一歩、紘一の核心に踏み込んできた。
「なぜ、君がやつらを殺す必要がある?」
その問いは、紘一の胸を鋭く抉った。復讐の動機が、正義だけではないことを、無理矢理直視させる。
「それは……だって、俺は……」
紘一はたまらず目を逸らした。声はかすれ、言葉は途切れ途切れだった。
「……あのとき、良太がいじめられていたのに、助けてやれなかったから……」
その言葉が口から零れ落ちた瞬間、紘一の全身から力が抜けた。膝が震え、崩れ落ちそうになる。胸の奥で長く押し殺してきた罪悪感が、ついに形を持って溢れ出したのだ。
それは、彼が最も認めたくなかった、彼自身の最大の罪。 良太を守れなかったという事実。 その重さが、紘一の心を容赦なく押し潰していった。
「俺は、自分も風間たちのターゲットにされるのが怖かったんだ……」
それは、自分への悔恨と罪悪感。
「そんな自分が、一番許せない。良太が苦しんでいるとき、ちゃんと話を聞かなかった自分が、許せない!だから、良太のために、何かをしなきゃ……」
男は、その場に静かにしゃがみ込み、感情に揺さぶられる紘一の震える手を、そっと両手で包んだ。その手は冷たかったが、不思議なほど優しく、紘一の熱を帯びた手のひらに安心感を与えた。まるで、紘一の心の奥底に溜まった痛みを吸い取るかのように。
「なぜ?」
もう何度目かの「なぜ?」は、紘一を責めるものではなかった。それはまるで、重い荷を下ろすための、静かな祈りのようだった。問いかけというよりも、紘一の心を解きほぐす呪文のように響いた。
「もう、良太は本当に、いなくなってしまったんだ……」
紘一の声は途切れ途切れで、胸の奥から絞り出されるようだった。
「俺は、死ぬってことが、本当はどういうことか、わかっていなかった。もう二度と、会えないんだ。もう一緒に喋ることも、笑うことも、何もできない……それが、一番悲しい……」
紘一の涙は止まらなかった。肩が激しく震え、呼吸は乱れ、胸の奥で張り裂けるような痛みが広がっていく。
「もう少し、話を聞いてあげられたらよかったのに。もう少し、何か、してあげられたらよかったのに。もう、どんなに願っても、良太は戻ってこないのに……」
その言葉は、紘一の心の奥底に隠されていた真実を、ついに形にした。復讐の根源にある理由は、風間達への怒りではなく、助けられなかった自分への怒り。そして、親友を永遠に失った耐え難い悲しみだった。
男の問いかけは、紘一の心を責めるのではなく、覆い隠していた感情を静かに引きずり出し、彼自身に悟らせたのだった。昇降口の夕闇の中で、紘一は初めて、自分が背負ってきたものの正体を直視した。
男は、紘一が心の内をすべて吐き出し、嗚咽が静まるのを待ってから、静かに言葉を続けた。 その声は、夕闇の静けさに溶け込みそうでありながら、不思議なほど深く耳に残り、紘一の胸の奥に染み込んでいった。
「良太くんは、幸せだろうな」
「え……?」
紘一は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、男を見つめた。
「こんなふうに、深く悲しんで、惜しんでくれる君がいる」
紘一は、静かに首を横に振った。自分の悲しみが、良太にとっての幸せであるなど、到底信じられなかった。むしろ、その悲しみは、自分の無力さを突きつける刃でしかないと思えた。
「君が、もし逆の立場だったら、良太くんに、罪を犯してほしいと思うか?」
紘一は再び、静かに首を横に振った。答えは言葉にするまでもなく、心の奥底から否定の感情が湧き上がった。
その瞬間、彼の脳裏に、優しくて繊細な、親友の笑顔がまざまざと蘇った。 放課後の教室で交わした何気ない会話、互いの孤独を分け合った静かな時間――そのすべてが、鮮やかに胸に戻ってきた。
――きっと、良太は復讐など望まない。
そんな気がした。良太が求めているのは、怒りや報復ではなく、穏やかな記憶の中で生き続けることなのだ。
復讐は、良太の魂を慰めるものではなく、紘一自身の罪悪感を晴らすための行為でしかなかった。 その事実に気づいたとき、紘一の胸を締め付けていた重い鉛が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。涙はまだ止まらなかったが、その涙は怒りではなく、親友を想う純粋な悲しみへと変わりつつあった。
「罪を犯した者には、相応の罰が下る」
「……理系のくせに、非科学的なことを言うんだな」
紘一は、思わず嫌味のように呟いた。
「理系? ああ、白衣か……」
男は淡々と答える。
「白衣があると、どこへでも入りやすい」
「……? どういう意味…?」
男は紘一の困惑を意に介さず、静かに続けた。
「誰かをいじめれば、罪悪感に苛まれる。自殺まで追い込んだなら、なおさらだ。どれだけ自己を正当化しても、その事実は心から消えたりはしない。彼らは、一生、自分で自分を苦しめ続けるんだ」
その言葉は、まるで厳かな判決のようだった。
「……そして、君も、助けてやれなかった罪を背負って生きる。だが、許してやるんだ」
「許す…?誰を……?」
紘一はかすれた声で問い返した。
「自分自身を」
紘一は、男を見つめた。瞳はよく見えない。けれど、その前髪の奥には、確かに紘一と同じように、誰かを救えなかった後悔があるような気がした。
紘一は、ただ、一人の友を失った悲しみを、素直に吐き出した。
「友達だったんだ。本当に、大切な……。助けてあげられなくて、ごめんな……良太」
その言葉は、祈りにも似ていた。紘一は、復讐を手放した。彼の手に残ったのは、憎しみではなく、ただの友情の重みだけだった。
男は、その時を待っていたかのように、静かに立ち上がり、紘一に手を差し伸べた。
「ああ」
紘一はその手を握り、立ち上がった。
男は、わずかに笑ったように見えた。だがその笑みは、光の加減で生まれた幻のようにも思えた。
そして、彼はそのまま夕闇の中に、音もなく、静かに消えていった。足音も残さず、影も残さず、まるで最初からそこに存在していなかったかのように。
紘一は立ち尽くした。手のひらにはまだ、男の冷たい温もりが残っていた。




