薬剤師?7
あの「ラーメン屋の夜」から一週間。 家の中の空気は、凪いだ海のように静か、かつ奇妙に穏やかだった。
和也は、あの日を境に妙に優しくなった。 自分から洗濯物を畳んだり、帰り際に「何か買って帰るものはあるか?」とメッセージを送ってきたりする。後ろめたさからくる罪滅ぼしなのか、それとも美咲の変化に恐怖を感じているのか。
美咲は、その理由を深く追求することをやめた。 今の彼女が最も興味があるのは、夫の心理ではなく、「自分自身」のことだった。
「私、本当は何がしたかったんだっけ」
クローゼットに眠っていたカメラを持ち出してみる。訪れたかった海まで電車に揺られてみる。ずっと食べたかった、少しスパイスの効いた多国籍料理を作ってみる。 「自分を掘り下げる」という作業は、時に過去の傷に触れて苦しくなることもあるけれど、それ以上に新しい自分を見つける発見に満ちていた。
「ねえ、次の休み。ここに行ってみたいんだけど、どうかな」
夕食のテーブルで、美咲は行きたい場所のリストを差し出した。 和也は一瞬、戸惑ったような顔をしたが、ポケットの中で鳴ったスマホには目を向けず、真っ直ぐにリストを見た。
「……いいよ。予約、しておこうか」
少しずつ、本当に少しずつだが、和也は美咲の話に耳を傾けるようになっていた。スマホの画面越しではなく、一人の人間として向かい合う時間。
もちろん、これで全てが解決したわけではない。 浮気の事実が消えたわけでも、失った信頼が完全に回復したわけでもない。今でもふとした瞬間に、「やっぱり離婚した方がお互いのためではないか」という問いが頭をよぎる。
けれど、今の美咲は焦って答えを出そうとはしなかった。 どちらを選べば「正しい」かなんて、今の時点では誰にもわからない。
大切なのは、誰かの顔色を窺って決めるのではなく、自分と向き合い、納得できるまで悩み抜くこと。
(今日のごはんは、美味しいな)
そう心の中で呟きながら、美咲はゆっくりと食事を味わった。 彼女の人生のハンドルは、今、しっかりと彼女自身の手の中にあった。この道がどこへ続くのかはまだ見えないけれど、視界は驚くほどクリアだった。
*
夕暮れ時、オレンジ色に染まり始めた街並みを抜け、美咲はあのドラッグストア『コスモス・テラス』の自動ドアをくぐった。
どうしても、あの白衣の男にお礼が言いたかった。 もし、あの日。彼が温かな肉まんを半分に分けてくれなければ。もし彼が、「自分を愛せ」という、呪いのような、そして救いのような言葉を投げてくれなければ。 今の自分は、冷たい拘置所の壁を見つめて絶望していたか、あるいは、もっと冷たくなった体で誰かに発見されていたはずなのだ。
店内は、夕食の買い出しに来た主婦や部活帰りの学生たちで活気に満ちていた。明るすぎるほどのLED照明の下、美咲はレジで品出しをしていた若い女性店員に声をかけた。
「すみません。こちらに、背が高くて前髪の長い、男性の薬剤師さんはいらっしゃいますか?」
店員はパッと作業の手を止め、怪訝そうに眉を寄せた。
「ええと……前髪の長い、男性、ですか?」
「はい。白衣を着ていて、少し物静かな感じの方です。先週、こちらでお会いしたのですが……」
美咲が必死に特徴を伝えると、その店員は隣のレジに入っていた年配の女性店員と顔を見合わせ、困惑したように首を傾げた。
「お客様、申し訳ありません。うちの店舗には現在、男性の薬剤師は一人も在籍していないんです」
「え……? でも、確かにここで。私とお話ししたんです」
美咲の指さす先には、あの日と同じ、整然と並んだ薬品の棚がある。しかし、年配の店員が申し訳なさそうに割って入った。
「うちのチェーンではスタッフ全員、指定の制服を着ているので、薬剤師であっても白衣を着ることはないんですよ」
美咲の背中に、すうっと冷たい風が吹き抜けた。
「……白衣は、着てない?」
「はい。ここ数年、そのルールは変わっておりません。他のお店とお間違いではないでしょうか?」
そんなはずはない。あの日、彼の白衣が擦れる音を、確かに聞いた。肉まんの湯気の向こう側で、少し影のある彼の瞳を見た。今でもちゃんと覚えている。
美咲は、逃げるように店を出た。 外はすっかり日が落ち、夜の帳が下りようとしていた。
ふと振り返ると、明るく輝く『コスモス・テラス』の看板が、闇の中にぽつんと浮いている。あの日、絶望の淵にいた自分を救ったあの男は、果たして実在したのだろうか。
(あれは、一体誰だったの?)
それとも、崩れ落ちそうだった自分の心が作り出した、一夜限りの幻だったのか。
美咲はコートのポケットの中で、自分の両手をぎゅっと握りしめた。 彼が実在したのかどうか、今となっては確かめる術はない。けれど、彼がくれた「自分を大切にする」という勇気だけは、今も美咲の胸の真ん中で、消えない灯火のように静かに燃え続けていた。




