薬剤師?6
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、これほどまでに暖かく、眩いものだと思ったことはなかった。
美咲は、シーツの海の中にいた。いつもならアラームが鳴る前に起き、機械のように朝食の準備を始める時間だ。けれど今朝は、重たい瞼を閉じたまま、自分を包む温もりを存分に味わっていた。
「おい、美咲! なんで起こさないんだよ!?」
和也の、尖った声が響く。時計の針はすでに家を出るべき時間を指しているのだろう。昨日までの彼女なら、心臓を跳ねさせ、平謝りでキッチンへ走ったはずだ。
しかし、美咲はゆっくりと、まるで深海から浮上するように身を起こした。
「……おはよう。よく眠れたわ」
「おはようじゃないだろ! 会議に遅れる!」
苛立つ和也の背中を、ぼーっとした視線で見送る。洗面所の鏡に映った自分は、髪もボサボサで、およそ「凛とした」姿からは程遠い。けれど、昨夜ドラッグストアの冷たい照明の下で震えていた「透明な女」は、もうそこにはいなかった。
彼女は着替えることすら後回しにした。お気に入りの、少し袖の伸びたパジャマのまま、キッチンへ向かう。
和也がバタバタと家を飛び出した後、静まり返ったリビングで、彼女は丁寧にパンを焼き、たっぷりのバターを塗った。誰かの時間を守るための家事ではなく、自分の空腹を満たし、自分の機嫌を取るための朝食。
一口噛みしめるたびに、強張っていた心が少しずつ、柔らかく解けていくのがわかった。
美咲はスマートスピーカーにお気に入りのプレイリストを流すよう頼む。柔らかなメロディが、張り詰めていた空気をゆっくりと塗り替えていった。
鼻歌を歌いながら、目につく汚れを拭き取り、散らかった雑誌を揃える。普段は義務でしかない掃除も、自分のためだけだと思うと、指先の感覚がいつもより鮮明だった。
「さて……」
ソファに深く腰を下ろし、読みかけの本を開く。けれど、数ページも進まないうちに視線は窓の外へ逃げた。 カレンダーに目をやれば、今日やるべきことが頭をよぎる。銀行へ行って振込をしなきゃいけない。夕飯の献立を考えて、スーパーで買い出しも……。
しかし、体は一向に動こうとしなかった。
「……今日は、もういいや」
誰に言い訳するでもなく、小さく独り言ちる。冷蔵庫にある残り物で適当に昼食を済ませ、淹れたてのコーヒーを啜る。外の世界は相変わらず騒がしく動いているようだが、今の美咲には、このパジャマのまま過ごす数メートルの空間が、守るべき世界のすべてだった。
湯気の向こう側で、ぼんやりと考える。 これから、和也とどうなりたいんだろう。
怒鳴られた時の萎縮するような恐怖。期待に応えようと自分を削り続けた日々。 自分を守ると決めたけれど、その具体的な「守り方」がわからない。戦うべきなのか、逃げるべきなのか、それとも、こうしてただ静かに距離を置くだけでいいのか。
「自分を大切にする」という言葉は、辞書で引くほど簡単にはいかない。
答えはまだ、霧の中にある。けれど、少なくとも今は、無理に外へ出て「正しい妻」を演じる必要はないことだけは分かっていた。美咲はもう一度、冷めかけたコーヒーを口に含み、自分の中に芽生えた小さな違和感を、丁寧に見つめようとしていた。
夜、玄関の鍵が開く音がして、和也が帰宅した。 リビングでは、美咲がずっと見たかった録画済みのドラマが流れている。画面の中の華やかな世界とは対照的に、部屋には料理の匂いがいっさい漂っていなかった。
「……飯は?」
和也はネクタイを緩めながら、不機嫌そうに低く言った。美咲は画面からゆっくりと顔を上げ、和也の目を見つめる。
「今日は作りたくなかったの。デリバリーを頼むか、近くの定食屋さんにでも食べに行かない?」
和也はあからさまに眉間に皺を寄せた。
「は? なんで作ってないんだよ。そんなことしたら金の無駄だろうが」
無駄。その言葉が、美咲の胸に冷たく突き刺さる。彼女は小さく息を吐き、静かに、けれど逃げ場を塞ぐように問いかけた。
「……じゃあ、あのレストランは?」
「は?」
「若い彼女と行くレストランは、無駄じゃないの?」
和也の身体が一瞬、硬直した。視線が泳ぎ、喉の仏が上下に動く。
「な、なんの話だよ、いきなり……」
「なんでもない。ただ、私もたまには高級レストランに行ってみたいなって」
動揺を隠せない和也をよそに、美咲は独り言のように続けた。
「高級レストランじゃなくてもいい。ただ、あなたと二人で楽しくごはんを食べたかっただけなの……」
口にしてから、それが自分の本音だったことに気づく。 付き合い始めた頃や、結婚したばかりの頃。お洒落な店じゃなくても、コンビニのアイスを半分こするだけでも、二人の間には笑い声があった。
いつからだろう。和也が食事中もスマホゲームから目を離さなくなったのは。美咲が今日あった出来事を話しても、生返事すら返ってこなくなったのは。
話しかけても、その言葉は壁にぶつかって落ちるだけ。 そう悟った日から、美咲も話しかけるのをやめた。目の前に座っているのは、愛する夫ではなく、ただ同じテーブルで栄養を摂取するだけの「同居人」に成り果てていた。
「私、今日一日、あなたとどうなりたいか考えていたの」
美咲の言葉に、和也は逃げるように視線を逸らした。
「あなたはどうなりたい? 私と別れたいの?」
「だから、なんでいきなりそんな話になるんだよ……!」
声を荒らげることで動揺を隠そうとする和也を、美咲はただ穏やかに見つめた。その瞳には、かつてあった怯えの色はない。
「私は今までずっとあなたに合わせてきた。自分のしたいことは我慢して、あなたの機嫌を取って……それが『妻』として当たり前のことだと思っていたから。でも、今日やっとわかったの。私は、ずっと無理をしていたんだって」
「……」
和也は、初めて見る妻の表情に言葉を失っていた。
「だから、これからは私自身を大切にしようと思う。自分のやりたいことを我慢せず、無理もしない。それが私の決めたこと」
「い、意味がわからん……。そんなことより、腹が減った。とりあえず飯食いに行くか……」
和也は逃げるように、話題を無理やり日常へと引き戻した。和也なりの、最大限の「譲歩」なのかもしれない。
「うん。でも、ごはんを食べているときはスマホはやめてほしい」
「え……?」
「些細なことでもいいから、ちゃんと話しながら食事がしたいの」
「あ、ああ……」
二人が向かったのは、駅前にある少し寂れたラーメン屋だった。 油の染み付いたテーブルに、手書きのお品書き。かつてデートで通ったような華やかな場所ではないけれど、夜風に吹かれて歩く道すがら、二人の間に流れる空気は昨日までとは確実に違っていた。
運ばれてきたラーメンの湯気の向こう側で、和也は落ち着かない様子でスマホをポケットに押し込んだ。
「……これ、味濃いな」
「確かに。でも、たまにはこういうのもいいじゃない」
久しぶりに見る、夫の目。 和也は気まずそうに目を逸らしたが、それでも会話が途切れるたびに、彼は何かを探すように美咲の方を見た。
高級レストランのコース料理よりも、ずっと不格好で、ずっと質素な夕食。 けれど美咲は、一口すするごとに、自分が自分の手に人生の手綱を取り戻したような、小さな手応えを感じていた。




