薬剤師?5
コンビニの軒先。美咲が吐き出した毒のような告白は、白い息となって空気に混じり、誰の耳にも届かぬまま霧散していく。
男は、指先に残っていた肉まんの最後の欠片口に運び、ゆっくりと咀嚼した。喉仏が動き、それを嚥下する動作さえ、感情を排した精密機械のように静かだ。 彼は、長い前髪の奥から、美咲をまっすぐに射抜いた。
「あなたは、誰かの『特別』になりたいと願うあまり、自分自身を透明な存在へと削ぎ落としてしまったんですね」
男の言葉は、憐れみでも共感でもなかった。ただ、解剖医が死因を特定するように、冷徹な事実としてそこに置かれた。
「あなたはこれまで、他人の視線という鏡の中にしか、自分の姿を映してこなかった。両親、妹、そして夫……。彼らがあなたを映し出さないとき、あなたは自分を『存在しないもの』だと断定した。だから今、その鏡を叩き割るついでに、自分という影も消し去ろうとしている」
美咲は唇を震わせ、反論しようとしたが、喉の奥で言葉が凍りついた。 図星だった。 彼を殺して自分も死ぬ。そのおぞましい計画でさえ、結局は「和也」という観客がいなければ成立しない。死してなお、彼女は彼の人生の一部、彼の記憶の付属品になろうとしていたのだ。
「本当に大切にされたいのなら……まずはあなたが、あなた自身をこの世で『一番の特別』として扱うことです」
男の声色が、不意に変わった。 先ほどまでの絶対零度のような冷たさが鳴りを潜め、代わりに、凍えた美咲の芯を溶かすような、不思議な熱を帯びて響く。
「他人に、あなたの命の鍵を預けてはいけない。その鍵穴は、あなた自身にしか合わないようにできているんです。……誰に理解されずとも、誰の目に留まらずとも関係ない。あなた自身が、あなたの唯一の理解者であり、誰よりも尊い護り手であると決めること。あなたは、あなたを愛していいんですよ」
その言葉は、美咲の耳の奥の暗がりに潜んでいた錆びついた錠前に、正解の鍵を差し込み、カチリと音を立てて解錠した。
これまで、自分を犠牲にすることこそが愛の純度を証明するものだと信じて疑わなかった。欲しがらず、我慢し、存在を消して背景に徹すること。それが「良い子」であり「良い妻」であり、誰かに必要とされるための唯一の条件なのだと。 だが、この得体の知れない男は、彼女が守り続けてきたその聖域を、一瞬で「間違いだ」と断じた。 自分を愛せ。 自分を、誰よりも優先して「特別」にしろ、と。
美咲の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは悲しみというより、あまりに長い間、冷たい水底に沈められていた魂が、ようやく水面に顔を出して呼吸を始めたような、激しい咆哮に近い嗚咽だった。
(ああ、そうか……。私は、私を一度も守ってあげていなかった)
膝の上で拳を握りしめ、美咲は肩を震わせた。 誰かに愛されるために、自分を少しずつ削り、殺し続けてきた。自分の心の悲鳴に耳を塞ぎ、傷口に泥を塗りたくって、笑顔という仮面を貼り付けてきたのだ。 他人から与えられる「許可」を待つのではなく、自分自身を抱きしめることを、自分に許してこなかった。 夫を殺し、自分を消そうとしたあの殺意さえ、自分を救うためのものではなく、自分を「最後の一欠片まで彼に捧げる」ための歪んだ献身だったのだと気づき、美咲は愕然とした。
胃の奥に居座っていた重たい石が、少しずつ、少しずつ、形を失って溶け出していく。
「……っ、う……、ああ……」
美咲は顔を覆い、子どものように無防備に泣き続けた。隣に立つ男は、ハンカチを差し出すことも、安っぽい同情の言葉を投げることもしない。ただ、静かにそこに佇み、彼女が自分自身のために流す涙の雨が止むのを見守っていた。
(……自分で、自分を、守る)
その思考が、震える心臓の鼓動とともに全身を駆け巡る。自分を大切にするということは、これまで積み上げてきた「完璧な妻」という砂の城を、自らの手で崩すことだ。自分を透明な部品として扱ってきたこの歪んだ生活を、根こそぎ変えなければならない。 それは、殺人を犯すことよりもずっと勇気のいる、自分という存在を取り戻すための闘いのように思えた。
美咲は、冷たくなった手のひらで乱暴に涙を拭った。
「私……もう一度、自分のために考えてみます」
美咲はゆっくりと立ち上がった。膝の震えはまだ止まらなかったが、その瞳には、先ほどまでの濁った絶望ではなく、弱くとも確かな光が宿っている。 彼女は隣に立つ男に向き直り、今日、誰に対しても向けたことのないほど誠実な一礼をした。
「ありがとうございます。あなたに会えなかったら、私は……」
男は、その言葉を当然の権利として受け取るでもなく、ただ薄い唇をわずかに緩めたように見えた。長い前髪が風に払われ、一瞬だけ見えた彼の瞳は、どこか一点を見つめている。
彼は何も語らなかった。ただ、ぺこりと小さく、まるでどこにでもいる会釈の丁寧な通行人のように頭を下げると、そのまま国道沿いの道へと歩き出した。
国道を行き交うトラックの轟音は相変わらず激しかったが、もう美咲の足の裏を不快に震わせることはなかった。彼女は、男が消えていった方向とは逆の、けれど自分の意志で選んだ光の方へと一歩を踏み出した。




