薬剤師?4
三歳下の妹、美織。彼女は生まれた瞬間から死の影を背負い、人生の半分を消毒液の匂いが漂う病院のベッドで過ごしていた。透き通るような白い肌、折れてしまいそうなほど細い手足、そして何かに怯えるように潤んだ瞳。美織は、親族という名の観客全員にとって、慈しむべき「可憐な悲劇のヒロイン」だった。
「両親の視線は、いつも私を透明な壁か何かのように通り過ぎて、その先にいる美織だけを捉えていました。私の記憶にある母は、いつも病院の硬い椅子で丸まって寝ているか、神様に縋るように泣いている姿ばかり。父は父で、深夜まで働き詰め。たまに家にいても、重苦しい溜息を吐き出すだけの抜け殻でした」
美咲は、奥歯が軋むほど唇を強く噛み締めた。 幼い日の自分。通知表でオール5を取り、先生の絶賛を背負って帰宅しても、その紙を差し出す相手はどこにもいなかった。
「『美咲はいいわね、健康で。手がかからなくて助かるわ』……それが母の唯一の口癖でした。でもそれは、褒め言葉なんかじゃない。私にとっては、『お前に構う余分な時間も感情も一切ないから、勝手に一人で生きていろ』という非情な宣告と同じだったんです」
美咲は「できて当たり前」という、逃げ場のない荒野で生きてきた。 高熱を出しても、喉が焼けるように痛んでも、それを隠して微笑んだ。美織の看病で憔悴しきった両親に、自分の不調という「余計な荷物」を背負わせる勇気など、あるはずもなかった。転んで膝を血に染めても、一人静かに水道水で洗い流し、救急箱から絆創膏を盗むようにして貼った。自分の存在価値は、両親に「心配をかけない」という消極的な一点にしか存在しないと思い込んでいたから。
「手のかからない、便利な子。それが私という人間を形作る、最も古くて呪わしい定義です。だから、結婚しても同じ過ちを繰り返した……。和也に『手のかからない完璧な妻』だと思われたかった。私が機械のように完璧に家を回していれば、彼は私を必要としてくれる、私の価値を認めてくれるって信じていたんです」
美咲は、自らの愚かさを嘲笑うように、歪んだ笑みを浮かべた。
「でも、皮肉ですよね。彼が選んだ浮気相手は、かつての妹に生き写しだったんです。守ってあげなきゃ壊れてしまいそうな、自分がいなきゃ何もできないような……そんなか弱いタイプ。私がこれまで必死に切り捨て、排除しようと努めてきた『弱さ』や『隙』で、私の居場所を奪っていった」
心の中に、冷たく濁った泥が逆流してくる。和也に裏切られたという事実以上に、彼女を打ちのめしたのは別の感覚だった。和也という鏡を通じて、かつて自分を置き去りにした両親から、もう一度「お前は不要だ、お前の代わりはいくらでもいる」と引導を渡されたような心地だった。
「私は誰にとっても、規格品でしかない。家政婦でも、便利屋でも、名前のない部品でもいい。私である必要なんて、この世界のどこにもなかった」
男は、美咲が吐き出す毒々しい呪詛を、微動だにせず受け止めていた。長い前髪が夜風に不規則に揺れ、時折、その奥にある瞳が凍結した湖面のように、鈍く青白く光る。
「……だから、殺したいんですか?」
「ええ」
美咲の声から、震えが消えた。代わりに、鋼のような硬質な決意が宿る。
「あいつを殺して、自分も死ぬ……。そうすれば、私は和也の記憶の中で『一生消えない最悪の特別』になれるでしょう?忘れ去られ、背景に溶けていくくらいなら、憎悪を刻みつけたまま死んでやりたい」
美咲は、ベンチからゆっくりと立ち上がった。 彼女の瞳からは、もはや社会的な正気の色は失われていた。美咲にとっての殺人は、単なる復讐ではない。それは自分を「唯一無二の存在」として世界に刻み込むための、血塗られた自己証明の儀式だった。
「ようやく私は自由になれる。誰の期待にも、誰の便利にも、誰の眼差しにも応えなくていい、きっと静かな場所へ行けるから」
告白を終えた美咲の顔は青白く、それでいて憑き物が落ちたような晴れやかさがあった。
男はゆっくりと腰を上げた。
「……なるほど。あなたは自分の価値を、他人の眼差しという曖昧な鏡の中にしか見出せなかったわけだ」
男の声が、夜の底を這うような重低音となって響く。美咲は、その冷たい声の主を真っ向から見据えた。




