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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
薬剤師?
14/20

薬剤師?2

 国道沿いの空気は、絶え間なく行き交う大型トラックが撒き散らす排気ガスと、凍てつくような冬の湿り気を帯びていた。巨大なタイヤがアスファルトを叩きつけるたび、地響きのような振動が足裏から膝、そして心臓へと伝わり、物理的な重さを持って美咲の体内に沈殿していく。


 ドラッグストアの自動ドアを抜けた男の背中は、夜の闇に溶け込みそうなほど静かだったが、その足取りには一点の迷いもなかった。美咲は、目に見えない細い糸で手首を引かれているような感覚に陥りながら、数歩遅れて隣のコンビニへと吸い込まれる。


「いらっしゃいませ」という無機質な電子音とともに、暖房で膨らんだ店内の空気が頬を撫でた。外気の鋭い冷たさと、おでんの出汁の匂いが混じり合った生暖かい空気の境界線が、美咲の張り詰めた神経をチリチリと、まるで産毛を焼く火のように逆撫でする。


 男は真っ直ぐにレジ前へと進み、ふと足を止めた。 彼が着古した白衣のポケットに手を突っ込むと、乾いた金属音がかすかに響く。取り出されたのは、光沢を失い、人の脂で黒ずんだ十円玉や五円玉、そして薄っぺらな一円玉の群れだった。 彼はそれを、まるでお守りの石でも並べるかのように、丁寧に、かつ慎重にレジカウンターへ広げていく。


「……肉まんを一つ」


 店員が蒸し器から取り出した肉まんは、包み紙の中で白く柔らかな肌を震わせ、豊かな湯気を立ち昇らせる。会計を済ませた男は、受け取った紙袋の熱を確かめるように一度指先を丸め、それから外を指した。


 店先に置かれた、色あせたプラスチックのベンチ。

 コンビニの軒先、剥き出しの蛍光灯がジリジリと頼りない音を立てている。すぐ傍の灰皿からは、消し損ねた吸い殻が細く、濁った煙を吐き出し、それが冬の凍てつく夜気と混じり合って美咲の喉を低く刺激した。


「……あなたも食べますか?一つしか買えなくてすみません」


 男の声は、夜の静寂を切り裂くほどではないが、不思議と耳の奥まで染み通る響きを持っていた。彼が差し出したのは、たった今二つに割られたばかりの肉まんだ。


 今の自分は、裏切りという底なしの沼で足掻き、疲れ果て、魂まで泥に浸かってしまった身だ。もしこの白い塊に猛毒が仕込まれていたとしても、それはそれで構わない。むしろ、この冷え切った夫婦関係を終わらせるための、慈悲深い終止符にさえ思えた。


 吸い寄せられるように、美咲はその半分を受け取った。指先に伝わる柔らかな熱が、麻痺していた感覚を呼び覚ましていく。


「……っ」


 一口、口に含んだ瞬間、美咲の呼吸が止まった。 舌の上に広がったのは、暴力的なまでの「熱」と「優しさ」だった。 夫の浮気を確信し、日常が音を立てて崩れ去ってからというもの、彼女の胃の腑には常に冷たく重い石が居座っていた。何を口にしても砂を噛むようで、わずかな水を流し込むのが精一杯だった日々。


 だが、この肉まんの生地は、雪のようにふんわりと解け、中に閉じ込められた肉汁の濃厚な旨味が、乾ききった喉を潤していく。 熱い湯気が鼻腔を抜け、強張っていた食道が、数週間ぶりに本来の動きを取り戻すようだった。 それは、ただのコンビニの軽食であるはずなのに、今の彼女にとっては、凍えた命を繋ぎ止めるための、あまりにも過剰なまでの熱源だった。


「……私、ずっと、頑張ってたんです」


 自分でも驚くほど、声がひどく掠れて震えていた。噛み締めた肉まんの熱が喉の奥でつかえ、ひどく喋りづらい。それでも、一度決壊した言葉は、濁流のように溢れ出して止まらなかった。


「家の中を隅々まで磨いて、彼の好みの味付けを覚えて。シャツ一枚のアイロンがけだって、わずかなシワも許さなかった……。彼が家に帰ってきたとき、そこにある安らぎを『当たり前』だと思ってくれること。それが、妻としての私の、一番の幸せだと思い込んでいたから」


 隣に座る男は、相変わらず表情を読み取らせないまま、黙々と自分の分の肉まんを咀嚼している。その無言の肯定とも取れる静寂が、かえって美咲の心を曝け出させた。


「でも、違った。当たり前になるっていうことは……彼にとって、私が『透明』になるっていうことだったんです」


 美咲の手の中で、半分になった肉まんが指の力で無惨にひしゃげた。


「彼にとって、私はただの背景。壁紙や家具と同じ。そこに存在して当然で、あってもなくても気づかない、ただの便利な空気……。だから、あんな……あんな、私とは違う、若い女に……」


 吐き出した言葉が、冬の夜気の中で白く凍りついては消えていく。 視界が急激に歪み始めた。街灯の光が滲んで膨らみ、隣にいる男の白衣の白さが、まるで霧の中に浮かぶ亡霊のようにぼやけていく。


 頬を伝う熱い雫が、せっかく肉まんで温まった肌を、よりいっそう冷たく撫で下ろしていった。

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