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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
医師?
12/20

医師 7

 深い眠りから覚めた安藤の心は、久しく感じることのなかった安堵と、夢の中で悠翔と再会した余韻に満ちていた。 復讐心という重荷が消え、視界が開けたように感じられる。 しかし、その安堵の裏側で、一つの疑問がじわじわと存在感を増していた。


 ――あの謎の医師のことだ。


 あの男がいなければ、安藤はメスを滑らせ、殺人者となっていただろう。 そして、悠翔が夢で語ったように、人殺しとなった自分自身を一生許せなかっただろう。 彼は、間違いなく安藤の命の恩人だった。


 その日一日、安藤はICUでの回診を終えるたびに、あの男の姿を探し続けた。 ナースステーション、医局、そしてあの日、自分が逃げ込んだ休憩室。


 ――どこにも彼の姿はない。


「ちょっと聞きたいんだが……」

 安藤は、ベテランの看護師に声をかけた。


「どうされました?」


「20代~30代くらいの、前髪が長くて、顔がよく見えない男性で、臨時バイトの医師を知らないか?名札をつけていなくて、名前がわからなくて……休憩室で見かけたんだが」


 看護師は怪訝な顔で首を傾げた。


「前髪が長い?……いいえ、心外にも救急にも、そんな先生はいませんよ。臨時バイトの大学生でしたら短髪の子ですしねえ」


 安藤は別の若手医師や麻酔科医にも尋ねてみた。だが、反応は皆同じだった。


「そんな特徴の先生、うちの病院にいるかなあ?大体の先生は、みんな顔がはっきり見えますよ」


 巨大な病院だからこそ、見知らぬ医師が紛れ込む可能性はゼロではない。 だが、医師であれば、必ずどこかの科に所属し、名簿に載っているはずだ。


 安藤は、事務室に足を運び、全科の若手医師の名簿と顔写真を閲覧できないか掛け合った。 しかし、個人情報の壁は厚く、許可は下りなかった。 それでも諦めきれず、休憩室の利用頻度が高い外科系の名簿をこっそり見せてもらった。


 だが――やはり、彼に該当する人物はいない。


 安藤は、廊下の窓から夜の街を見下ろした。 冷たい風がガラスを震わせる。 あの男は、どこから来て、どこへ消えたのか。



 夜が更け、再び病院の静寂が訪れていた。 安藤は、あの日の休憩室へと足を運んだ。室内の空気は昨日と変わらず、インスタントコーヒーの匂いが薄く漂っている。


 男が座っていたソファ。開けかけのクッキー袋。すべてが現実のものとしてそこにあるのに、彼の存在だけが、まるで夢の残像のように曖昧だった。


「一体、誰だったんだ……」


 安藤は、恐ろしい疑念を抱き始めた。 あの男は、本当にこの病院の医師だったのか? それとも、極限の精神状態にあった自分が、自らの良心を具現化して生み出した幻影だったのか?


 悠翔の死から七年間、復讐心という闇に囚われ続けていた安藤の心。 その心が、「医師としての使命」という光を必要とし、あの男の姿を借りて介入したのではないか、それとも悠翔が…?――そんな考えが頭をよぎる。


 だが、彼の言葉はあまりにも具体的だった。 深見の逃亡生活や、犯罪者の精神状態について、まるで見てきたかのように語った。 それは客観的な真実を含んでいた。幻影が、あれほどの知見を持ち得るだろうか?


 安藤は、ソファの前に立ち尽くした。 昨日、男が腰掛けていた場所を見つめる。そこにはただ、沈黙と空虚が広がっている。 しかし、その沈黙の奥に、確かに彼の声が残響していた。


 ――「仕返しなんてしても、後味が悪いだけです」


 その言葉が、再び胸に蘇る。


 彼は誰だったのか。悠翔が遣わした存在か、それとも安藤自身の心が極限状態で生み出した良心の具現化か。 その答えは、もはや重要ではなかった。


 重要なのは、彼が安藤を殺人者から救い、医師としての使命と、父親としての愛を取り戻させてくれたという事実。 それだけが、すべてだった。


 安藤は、静かに目を閉じた。 休憩室の薄暗闇の中で、彼の心は初めて穏やかに満たされていた。 謎の男の正体は闇に溶けていったが、その言葉と存在は、安藤の未来を照らす光として永遠に残り続けるだろう。


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