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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
医師?
11/20

医師 6

 手術を終え、集中治療室への搬送を見届けた後、安藤は疲弊しきった体で医局へ戻った。 長時間の緊張と集中で全身は鉛のように重く、足取りは鈍かった。だが、その胸の奥には、不思議な軽さがあった。


 憎むべき男――深見の命を救った。 その事実は、彼の心に重い罪悪感としてのしかかることはなかった。むしろ、長年抱えてきた憎悪の鎖が断ち切られたような、解放感があった。


 安藤は、個人の感情よりも、医師としての誓いを守り抜いたことに、深い安堵を覚えた。


 椅子に腰を下ろすと、安藤は迷わず電話を手に取った。


「東病院の外科医です。現在、ICUにいる交通事故の重傷患者、深見について、身元照会をお願いしたい。彼は、七年前に起きたひき逃げ事件の、最重要指名手配犯である可能性が高い」


 受話器の向こうで、警察の担当者が緊張した声で応答する。 その瞬間、安藤は悟った。これで、すべてが終わる。 深見は命を救われた後、法の裁きを受けることになる。


 安藤の胸に、静かな達成感が広がった。 復讐ではなく、違う道を選んだこと。 そして、医師としての使命を裏切らなかったこと。


 その夜、安藤は病院の仮眠室で横になった。 目を閉じると、悠翔の笑顔が浮かんだ。七年間、憎しみの炎に焼かれて見失っていた、あの柔らかな笑顔。 涙が滲んだが、それは悲しみではなく、安堵の涙だった。


 悠翔を亡くして以来、最も深く、穏やかな眠りが訪れた。 安藤の心は、初めて未来へと歩み出す準備を整えていた。



 深い、深い闇の中から、安藤の意識がゆっくりと浮上していった。 それは、七年間、憎しみと悲しみに囚われ続けてきた彼にとって、最も穏やかな眠りだった。


 夢の中の時間は、七年前で止まっていた。 場所は、息子悠翔が最も愛した、自宅近くの小さな公園。夕暮れの柔らかな光が差し込み、風に揺れる木々の葉が、黄金色の影を地面に落としている。


 悠翔は、7歳の頃のままの姿で、ブランコに座っていた。 ふっくらとした頬、小さな笑顔――その笑顔は陽光のように明るく、安藤の心を一瞬で満たした。


「パパ」


 悠翔の呼ぶ声が、現実よりも鮮明に、安藤の耳に届いた。 その瞬間、安藤はその場に崩れ落ちた。亡き息子との再会。 それは、彼の心を支配していた最後の防波堤を打ち砕いた。


 嗚咽とともに涙を流しながら、安藤は悠翔の小さな手を握りしめた。 その温もりは、夢であるはずなのに、現実のように確かだった。


「パパ、どうしたの?」


「悠翔……ごめん」


「何かあったの? 大丈夫?」


 安藤は首を振り、言葉を詰まらせながら答えた。


「ごめん……お前の仇を討てなくて……」


 彼は、昨夜の出来事――深見の命を救ったこと、そして復讐を断念したことを、夢の中の息子に謝罪した。 憎しみを捨てることは、悠翔の死を許すことではないかと、心のどこかで恐れていたのだ。


 悠翔は、父の涙を拭うように顔を上げ、じっと安藤の目を見つめた。 その瞳には、父への非難も悲しみもなかった。 ただ、深い安堵のような光が宿っていた。


「大丈夫だよ。パパが、人殺しにならなくてよかった」


 その言葉は、まるで天からの赦しのように、安藤の心を深く貫いた。


 悠翔は、父の復讐を望んでいなかった。 望んでいたのは、父が、父親として、人間として、壊れずに生き続けてくれること。 七年間、安藤が復讐心によって自分自身を苦しめていたことこそが、悠翔にとっての最も大きな悲しみだったのだ。


 悠翔は、安藤の頬にそっと触れた。


「ぼくね、パパの、笑った顔が好きだよ」


「悠翔……」


 安藤は、自分がこの七年間、どれほど大切なものを見失っていたかを悟った。 復讐は、深見への罰ではなく、悠翔との思い出や、自分自身の未来を壊し続ける、自罰的な行為でしかなかったのだ。


 そして、悠翔は、さらに安藤の心を深く揺さぶる一言を口にした。


「ぼくね、次もまた、パパとママの家族に生まれてきたいな」


 その言葉は、安藤の胸に、未来への希望の光を灯した。 悠翔が、安藤という父親を心から愛し、次の生でも望んでくれている――その愛こそが、深見への憎しみよりも遥かに強く、尊い真実だった。


 安藤は、悠翔を抱きしめた。 その感触は、夢であるはずなのに、現実のように温かく、確かなものだった。


「ああ、もちろんだ。必ずだ……」


 その言葉は、父としての誓いであり、未来への約束だった。 安藤の心は、憎しみから解放され、初めて穏やかな光に包まれていた。


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