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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
医師?
10/19

医師 5

 男は、立ち上がろうとした安藤に、最後の問いを投げかけた。


「なぜ、あなたは医師になったのですか?」


 その言葉は、まるで鋭いメスのように、安藤の心臓を直接抉るようだった。 七年間、憎悪の炎に焼かれ続けた心の奥底に、忘れ去られていた原点を突きつける問いだった。


 ――父親が医師だった。 それは単純明快で、わかりやすい理由だ。だが、それは跡を継ぐということではない。


 幼い頃、父が深夜に叩き起こされ、緊急手術に向かう背中を見た。 その背中は、疲労に覆われながらも、命を救うという「やりがい」があるように思えた。 絶望の淵にある人間に、希望を与えることができる――その姿は、幼い安藤にとってまさに聖なる行為だった。


 その記憶こそが、安藤が医師を志した純粋な原点だった。 だが悠翔を失って以来、憎悪の炎がその原点を焼き尽くし、長らく忘れ去られていた。


 深見を殺すことは、息子を奪った男への復讐であると同時に、父を尊敬し、自ら誓った医師としての信念を、自らの手で殺す行為に他ならない。 復讐は、彼自身の魂を、永遠に地獄へ引きずり込む、最も重い代償となる。


「仕返しなんてしても、後味が悪いだけです」


 男の言葉が、再び脳裏に響いた。

 安藤は、大きく息を吸い込んだ。 体中の力が抜け、同時に、心を縛っていた憎しみの鎖が断ち切られたのを感じた。 胸の奥に、静かな光が差し込む。


「ああ、ありがとう。頭がすっきりしたよ。……もう、そろそろ行かなければ」


 それは、憎しみから解放された、心からの安堵の言葉だった。


 男は、それ以上何も言わなかった。 ただ立ち上がり、ドアの方へ向かう。その仕草は、驚くほど静かで、まるで水面に波紋を立てないようだった。


 安藤が、その男の存在に深く感謝し、改めてその顔を注視しようと顔を上げたとき、男の姿はもう、休憩室の入り口から音もなく消えていた。 いつ出て行ったのか、一瞬の隙もなかったはずなのに、まったく気づかなかった。


 憎しみは消えた。 残ったのは、医師としての揺るぎない使命感と、息子への深い愛情だけだった。 安藤の心は、初めて、未来へと向き始めていた。



 安藤は、休憩室を出て、手術室へと続く廊下を歩き始めた。 蛍光灯の白い光が、彼の心を覆っていた暗い膜を一枚ずつ剥がしていくようだった。 その先に待つのは、一人の人間――裁かれるべき罪人であると同時に、今はただ救いを待つ命。 そして、その命を救える唯一の存在が、自分自身なのだ。


 手術室の前で立ち止まり、安藤は深く息を吸い込んだ。 「俺は、医師だ」 心の中で強く繰り返す。 復讐のためにメスを握るのではない。使命のために、人の命を救うために、メスを握るのだ。


 扉を開けると、冷たい空気に満たされた手術室が広がった。 手術台の上では、深見が静かに麻酔で眠らされている。 その顔には、もはや憎悪は感じられなかった。そこにあるのは、ただ一人の重篤な患者の姿だった。


 安藤は術着に着替え、手洗いを済ませ、青いサージカルマスクを装着する。

「安藤先生……!」

「……ああ、大丈夫だ」

 冷静に答え、メスを受け取った。


 その冷たい鋼の感触は、もう殺意の道具ではない。 それは、ただの医療器具だった。


 手術が始まる。 深見の損傷は激しく、出血は多い。破裂寸前の脾臓の摘出、複雑な血管の再建、肝臓の止血処理――どれも一歩間違えれば致命的なミスとなる。 だが、安藤の集中力は最高潮に達していた。


 復讐の誘惑という重い枷から解放されたことで、彼は純粋な外科医としての能力を最大限に発揮できた。 悠翔の顔も、今は頭に浮かばない。 目の前にあるのは、ただ救うべき命だけ。


 数時間に及ぶ大手術。 安藤の神業的な手腕により、血管は繋がれ、臓器は修復され、出血は止まった。 スタッフの緊張した空気が、次第に安堵へと変わっていく。


「止血、確認。……よし、安定しています」

 麻酔科医の声が響いた瞬間、手術室全体に静かな安堵が広がった。


 安藤は、深見の命を救った。 それは、復讐を超え、医師としての誓いを取り戻した証だった。

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