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第5奏パート5 後編:London Bridge is Falling Down


夏のロンドンは、どこまでも無機質だ。


コンクリートとガラスで組み上げられた巨人たちが、真昼の光を反射している。


スーツ姿の男たちとヒールの女性たちが、影を求めて早足で歩き、誰も他人の物語には興味を示さない。


空は澄み切っているのに、胸の奥には薄い緊張だけが張りついていた。


カフェのテラスから、休憩中の笑い声が断片的に聞こえる。


ガラス越しの陽光が、オフィスのデスクとディスプレイを白く照らし、忙しない日常の中に、夢の欠片だけを落としているように見えた。


——これが、“僕の日常”だ。


「いや〜悠真さんのおかげで、今回も大成功ですよ」隣で、新井山支部長が満面の笑みを浮かべた。


恰幅の良い身体を揺らしながら、握った手を何度も上下させる。


「僕はたいしたことはしてませんよ」そう返すと、新井山は慌てて眼鏡を外し、目頭を押さえた。


「これも、日々現地で汗水流してくれている皆さんのおかげです——新井山支部長」名前を添えると、彼はさらに顔をくしゃりと崩す。


無理もない。


第3世代AI搭載型スマートフォン開発は、辰巳グローバルテック社の命運そのものだ。


2020年以降、AIは急速に進化した。


世界的に“大流行した風邪”を、AIによる最適化とシミュレーションが鎮めた——と、公式にはそう語られている。


それ以来、New World Orderは各国にAI技術の促進を求め続けている。


出生率の回復。


紛争の「平和的解決」。


エネルギー効率の最大化。


人々が“理想”と呼ぶものの多くを、AIは既に肩代わりし始めていた。


そして次の一手が——第3世代AI搭載型スマートフォン。


専属AIによる、“魂の協奏者ソウル・コンダクター”計画。


NWOに選ばれたトップAI企業だけが、試作機500台の開発を許された。


そのデータを蓄積し、2039年の一般発売を目指す。


各国の企業は、睡眠時間を削ってまでその競争に身を投じている。


辰巳グローバルテックも、例外ではない。


中枢に据えられるのは、自律学習型AIコア──《Trinity Seed》。


人とAIの境界を曖昧にする、新しい“心臓”だ。


今日、僕はロンドンのテック企業《Apex Robotics Ltd.》との会談を終えた。


産業用AIマシンの新型制御ユニット。


その共同開発契約に、ようやく双方が合意したところだ。


固い握手。


交わされる笑顔。


新井山は後に「あれは夜明け前の空みたいだった」と表現したが、


当人の僕には、そこまでロマンチックな余裕はなかった。


ロンドン支部のオフィスを出ると、さっきまで柔らかく感じていた日差しが、今は刃物のように瞼を刺してくる。


思わず右手で額をかばった。


「キンコーン、カーンコーン」ウェストミンスター・チャイムが、正午を告げる。


街のノイズが一段高くなり、人々の足取りが一斉にランチタイムの方向へ流れ出す。


セント・ジェームズ・パークで、今日は “Battersea Park in Concert” がある


——そんなニュースを思い出す。


人々は芝生に座り、昼からビールを片手に笑い合い、夜には焚き火と音楽の温度が、都市の喧噪を上書きするだろう。


オフィスのすぐ近くの屋台でフィッシュ&チップスを買う。揚げたてのタラと熱いチップス。


モルトビネガーをたっぷりかけると、独特の酸味のある香りが立ち上る。


会計の横では、小さな子どもが慣れない手つきでテイクアウト用の袋を詰めていた。


その姿に、少しだけ頬が緩む。


ズボンのポケットから財布を取り出し、チップを一枚、彼の前の小さなボウルに落とした。


「Thanks, sir!」


無邪気な声を背中に受けながら、僕はセント・ジェームズ・パークへ歩き出す。


途中、テムズ川沿いでストリートミュージシャンが古い童謡を口ずさんでいた。


“London Bridge is falling down, falling down…”


幼い頃、日本語訳で耳にしたことのある歌。この街の歴史と一緒に、何度も壊されては作り直された橋の歌。


——橋は、落ちる前にきしむ。


世界も、同じだ。そんな考えを頭の隅で追い払いながら、僕は歩を進めた。


セント・ジェームズ・パークは、近代化の進むロンドンに残された数少ない“古い影”だ。


湖、木々、ペリカン、ピクニック。


観光客と家族連れが、AIでも数値化しきれない時間を過ごしている。


湖畔のベンチに腰を下ろし、テイクアウトのアイスコーヒーを一口。


雲ひとつない空が広がっていた。


例年より気温が高く、日照時間も長い——そんなニュースを、今朝XRモニターから聞いたばかりだ。


何も考えずに瞼を閉じると、夏の風が木々を揺らし、その擦れる音が額と頬を撫でていく。


……こういう時間も、僕は嫌いじゃない。


ふと瞼を開けると、イベントの準備をするスタッフや、芝生で遊ぶ子どもたちの姿が見えた。


その光景をぼんやり眺めていると、向こうからランニングウェア姿の男がやって来て、僕のいるベンチの反対側に腰掛ける。


彼は左手に持っていたペットボトルの水を一気に飲み干した。


横目で、その姿を確認する。


汗をぬぐう仕草。


視線は決してこちらを正面から捉えない。


思わず、短くため息が漏れた。


「……2038年にもなって、まだこんなアナログな手段をとるのか」少しだけ嫌味を混ぜて言うと、男は表情を変えずに肩をすくめた。


「ええ。私たちは常に監視されていますからね。こうでもしないと、物理的に“ライン”を越えられないんですよ」淡々とした口調だった。


彼はペットボトルを潰しながら続ける。


「すべては、第3世代AIが誕生したあの日から……それは、貴方が一番よく知っているはずですよ、 Mr.XXX」


「買いかぶりすぎだよ」


口ではそう答えながら、内心では否定していなかった。


「それで——“彼”は、何と言っている?」男は、さりげない仕草で一枚の紙をベンチの隙間に滑り込ませた。


あたかも自分のポケットから取り出したイベントチラシであるかのように、それを手に取って広げる。


その瞬間、最初に空気の変化に反応したのは鳥たちだった。


近くの木々に止まっていた鳥たちが、一斉に羽ばたいて離れていく。


野生の勘は、いつだって人間より早い。


紙面に目を走らせた途端、胸の奥で何かが軋んだ。


「……これは、本当なのか」できるだけ声を抑えたつもりだったが、言葉の端に怒気が滲む。


「私はあくまでメッセンジャーです」男は視線を前に向けたまま言う。


「閲覧権限はありませんので、その質問にはお答えできません」僕は左手でチラシを握りつぶした。


パリ、と薄い紙が軋む音が、やけに大きく聞こえる。


「周囲に不審がられるので、そろそろ戻ります」男は立ち上がり、軽くストレッチをするふりをして続けた。


「あくまで私の仕事は、“彼”の言伝を貴方に届けるところまで。ただの末端ですから」


そう言って歩き出そうとしたところで、


僕は胸ポケットからマルボロを一本取り出し、指で軽くトントンと叩いて口に咥えた。


ジッポライターの蓋をはじく前に、男が小声で告げる。


「先月から、このパーク内は完全禁煙になりました。……しまっておくことをおすすめします」


「ふぅ……本当に、どこもかしこも世知辛いな」独り言のように呟き、タバコを胸ポケットに戻す。


彼の姿は、すぐに人波に紛れて見えなくなった。残されたベンチで、僕は握り潰した紙を見下ろす。


——まさか、予定がここまで早まるとは。


「僕も、そろそろ覚悟を決めないといけない、ってことか……」湖面を渡る風が一段と強くなる。


遠くで子どもの笑い声がして、さっき聞いた童謡のフレーズが、頭の隅でまた再生された。


ポケットの中で、右のスマートフォンが震える。


画面には「佐倉 美波」の文字が、着信のリズムに合わせて揺れていた。


5度目のコールで通話ボタンを押すと、XR通話のウィンドウに、美波の姿浮かび上がる。


内容は、どこにでもある夫婦の会話だ。


『ねえ、湊の件なんだけどね——』湊が、自分の意思で欲しいと言ったこと。


スーパーカブの話。


僕は、それを聞きながら自然と口元が緩んでいくのを止められなかった。


「もちろんだよ、美波さん。湊が自分から欲しいと思ったことなら、できる限りやらせてあげてほしい」画面の向こうで、美波が安心したように笑う。


「ああ、もちろん。お土産はクリスマスプレゼントと一緒に持って帰るよ」


「……湊にも、よろしく伝えておいてくれないか。それと——“彼女”にも」


“彼女”という言葉に、美波が一瞬だけきょとんとして、すぐにくすりと笑う。


通話が終わるころには、胸の奥に、ささやかな温かさが灯っていた。


息子の成長を聞いたあとの、あの満ち足りた感覚。


——けれど、その熱は長くは続かない。


通話ウィンドウが消えると同時に、顔から余計な感情が引いていくのがわかる。


視界の色が一段薄くなり、代わりに研ぎ澄まされた冷たさが戻ってくる。


僕はベンチから立ち上がり、握り潰した紙を内ポケットに押し込んだ。


セント・ジェームズ・パークを後にし、再び街の喧騒へと紛れ込んでいく。


スーツの背中に当たる風は、さっきより少しだけ冷たく感じられた。


僕の背中が何を語っているのか——この時点で、それを知る者はまだ誰もいない。


「キンコーン、カーンコーン」ウェストミンスター・チャイムの鐘の音だけが、変わらないリズムで空に響き渡っていた。




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