嘘つきの花束
第一話「赤いカーネーション」
玄関のチャイムが二度鳴って、私は包丁を流しに置いた。魚の血を洗い流したばかりの指先で、インターホンの受話器を取る。
「お届けものです」
モニターの矩形に、若い配達員の額が切れて映った。
受け取ったのは、思っていたより重たい箱だった。白い段ボールに薄い金色のリボン。底で水が揺れる音がする。手書きの丸い字で、私の旧姓まで添えられている。
封をひと筋、はがす。薄紙をめくる。赤い花の層が脈のように重なっていた。
カーネーション。十月の終わり、私の誕生日にしては、季節外れだ。
テーブルに置いた途端、花弁が一枚、音もなく外れた。薄い舌のような赤。濡れた指で拾い上げると、指先に塩素の匂いが残った。私はふいに、洗い忘れた流しの血を思い出して、指を拭いた。
同梱のカードは簡潔だった。
《あなたを愛しています》
署名も連絡先もない。私が愛される対象であることを、誰かが断言している。
「何それ」
背後で夫の徹が声を落とす。スーツの上着を椅子の背にかけ、靴下のかかとを器用に返して座った。
「花。誰かが送ってきたの」
「誰かって?」
「わからない」
「職場のサプライズじゃないの? 最近、課長になったんだっけ」
私は笑わなかった。私の部署に、こういう冗談を好む人はいない。昇任はまだ先の話だ。
花瓶を探して戸棚を開けると、去年の記念日に買ったガラスの器が見つかった。水を張り、茎を切り戻す。赤だけが息をしているみたいに、部屋の色温度が上がる。
徹はスマホをいじりながら、視線だけで花を検分した。
「赤いカーネーションって、どういう意味だっけ。母の日?」
「母の日はカーネーションだけど、赤は……“あなたに愛を”とか、そういうのじゃない?」
「へえ。ぴったりだ」
徹はそう言って、口の端だけで笑った。褒められた気はしなかった。
花束の結び目に、別の薄紙が挟まっているのに気づいた。私はそっと引き抜いた。薄紙の内側から、ポラロイド写真が滑り落ちる。
私と、男が映っている。
土手の斜面。冬の堤。風で髪が乱れて、私は笑っている。男の横顔は、笑っているのに目元が強情だった。
尚人。名前を心で呼んだ瞬間、喉に棘が刺さったように痛んだ。
写真の隅に、ボールペンで古い日付。三年前の二月。
尚人が死んだのは、その年の三月だ。
「誰?」
徹の声が、私の肩越しに落ちる。
「……同級生」
「へえ。随分、親しそうだね」
彼は写真を取らない。代わりに、花束の茎を一本一本見ている。外科医が臓器の状態を確かめるみたいな視線で。
「送り主は?」
「書いてない」
「じゃあ、悪いけど推理はやめて、魚の血、ちゃんと流して。匂う」
徹は立ち上がり、袖をまくって流しに向かった。いつも通りの動作が、なぜか私を責めている。
夜、リビングの灯りを落とす前に、写真をもう一度見た。私は笑っているのに、口の端だけが持ち上がっている。不自然だ。尚人の指が私のコートのポケットに差し込まれている。二人の間に白い息が重なって、境目が曖昧だ。
私はアルバムを持たない。写真は、真実を厚塗りする。私が三年前にそう決めたからだ。
引き出しを開ける。紙の封筒に写真を戻そうとして、底に硬い感触があるのを知る。封筒の角に、小さなメッセージカードが縦に差し込まれていた。
《少しずつ、戻ってきます》
誰が。何が。私はしばらく、文字の輪郭だけを見た。眠りは薄く、夢は赤い。
翌朝、花は開き切っていた。花弁の縁がわずかに黒ずむ。台所で徹がコーヒーを淹れ、カップを二つ、雑に並べた。
「今日、遅くなる。取引先と会食」
「わかった」
彼はふと花を見る。「これ、どこで買ったんだろうね」
「注文票は入ってなかった」
「入ってたよ」
徹がテーブルの端を指で叩く。昨夜、私が気づかなかった白い紙片。濡れたグラスの輪が透けて、文字が滲んでいる。
《ご注文、誠にありがとうございます》
店名は印刷されていない。電話番号もない。「配達代行」とだけある。
「ネットかな」
「私、してない」
「へえ」
彼はカップを持ち上げた。湯気越しに、私を見ない。
午前中、私は花瓶の水を替えた。茎の切り口から、白い泡が静かに上がる。私は台所の排水口に耳を寄せ、泡が消える音に聞き入った。
スマホが震える。非通知。
出ると、息の音が最初に来た。
「届きましたか」
女の声。掠れてはいるが若い。
「どなたですか」
「おめでとうございます、誕生日」
私は無言のまま、指先に汗を集める。
「赤は似合わないと思ったんですけどね。でも、これしか残っていなかったから」
「どこで番号を」
「いえ、こちらからは言えません」
通話は、私の問いを避ける弧を描いて切れた。
残ったのは、呼吸の形だけ。
午後、私は最寄りの花屋を三軒回った。どこも首をかしげる。束ね方が違う、紙が違う、リボンの縫い目が違う。
「これは、うちのやり方じゃないですね」
最後の店の老女が、花束の写真を見て言った。
「どこのですか」
「どこでもない、です」
老女は言葉を選ぶ。「ほんの少し、古いの。やり方が。今は、水袋の結び目に針金は使わない。跡が残るから」
私は礼を言って外に出た。冷たい風が頬に刺さる。赤い何かが目尻に残像を残していく。
信号待ちの間に、非通知からメッセージが届いた。
《写真、見てくれましたか》
私は打ち返す。
《あなたは誰》
返事はすぐに来た。
《あなたが知っています》
指先が冷えて、スマホが滑りそうになる。
夕方、私は花を一輪ずつ抜いて、茎に異物がないか確かめた。三本目の茎の切り口に、薄い紙が巻かれていた。細く、見落とすように。
広げる。小さな文字が並ぶ。インクが水でにじんでも、読み取れる。
《嘘は、時間で薄まる。でも消えない。だから、染みを広げておきました》
染み。私は花が置かれていたテーブルの木目を見る。ほんのわずか、色が赤く沈んでいる。昨夜、花瓶の水がこぼれたのだと思っていた。
その瞬間、自分の舌の奥に鉄の味が走る。三年前の冬の午後、土手で尚人と飲んだ安い缶コーヒー。彼が笑って言った、「ねえ、麻衣、嘘ってさ」。
続きが思い出せない。思い出したくないのかもしれない。
夜遅く、徹は会食から戻らなかった。私は灯りを絞り、ソファに浅く座って、花束の影が壁に落とす形を見ていた。
非通知が鳴る。
「はい」
「どうして、いままで黙っていられたんですか」
女の声は、今度は少し近い。
「何のこと」
「写真の後ろ」
「後ろ?」
「裏を、まだ見ていないんですね」
通話が切れる音の中に、舌打ちのような短い笑いが混じった。
私は机に走って、写真を取り出した。表の私たちは笑っている。裏返す。
裏には、細い字でこうあった。
《あなたの娘の父親は、誰ですか》
私は写真を落とした。膝の上で、紙が音を立てる。
娘の菜摘は八歳だ。今夜は母の家に泊まりに行っている。赤いランドセルの内ポケットには、身元票が入っている。父親欄には「塚本徹」。私の字で、はっきりと。
写真の裏の問いは、私の字ではない。けれど、書いた人間の手首の角度だけは、薄く知っている気がした。
深夜になっても徹は帰らなかった。玄関の暗がりに花の匂いが溜まり、家のどの部屋にも同じ温度の空気が満ちる。
私は花束の結び目に指をかけた。金色のリボンの裏側に、ほんのわずかな縫い目の盛り上がり。爪を差し込むと、縫い糸が切れた。
中から、小さな紙片がまた一つ。
四角い紙の中央に、たった一行。
《罰は、贈りものとして届きます》
私は花束を抱えた。腕の中で、茎が骨のように当たる。
見えない差出人が、私に向けた笑いが、暗闇の奥で形になる。
——誕生日、おめでとう。あなたが選んだ日付に、あなたが選んだ色で。
第二話「沈黙のリボン」
朝の光が、赤い花を透かして壁に影をつくる。
夜の間に咲き切った花弁は、端が黒ずみ、紙のように乾いていた。
私は洗面所の鏡に映る自分を見た。寝癖を撫でつけても、どこか違う顔。
花束を置いたままにしておけば、誰かの視線がこちらを覗いているようで落ち着かない。
午前九時。私は近くの花屋を再び訪ねた。
「この花束、御社で扱ってますか」
昨日と同じ質問を繰り返すと、店主は首を傾げた。
「違うねえ。リボンの結び方が古い。最近はこんな金糸使わないよ」
老眼鏡越しにじっと花の写真を見つめる視線が、私の手元を一瞬止めた。
「どこかで手に入れたの?」
「誕生日に届いたんです」
「誰から?」
「わかりません」
答えながら、私は自分でも驚くほど平静な声を出していた。
家に戻ると、リビングのテーブルの上で夫の徹が花束を見つめていた。
「切り戻しておいた。水が濁ってたから」
「ありがとう」
彼の指先には、ほんの少し赤い染み。
「この色、君が嫌いじゃなかったっけ。血みたいだって」
私は口を閉じた。昔、尚人に言った言葉だった。
徹は花束のリボンを指でつまむ。
「凝った結び方だね」
そして、ほどいた。
金糸の内側から、小さな紙片が滑り落ちる。
《嘘をついた罰です》
彼は紙を指先でつまんで、私の顔を見た。
「これ、何?」
「知らない」
「ほんとに?」
彼の笑い方が、尚人に似ている気がして、思わず目を逸らした。
夜。徹が眠ったあと、私は紙片をもう一度読んだ。
細い文字が、まるで茎の繊維に沿っているように見える。
罰。何の罰?
罪を犯した覚えはある。けれど、それは——まだ、誰にも知られていないはずだった。
スマホが震えた。非通知。
「……もしもし」
「まだ、嘘を守るつもりですか」
昨日と同じ声。だが今夜は囁きに近い。
「あなた、誰?」
「名前なんて要らないでしょう。もう一度だけ言います。花はまだ咲ききっていません」
「意味がわからない」
「いずれ、わかります」
通話が切れたあと、耳の奥で音が残った。低く、湿った呼吸。
私は花を抱えて庭に出た。夜風に触れた瞬間、花弁がばらりと落ちる。
その一枚一枚に、かすかな筆跡のような模様がある。
まるで、誰かが上からなぞったような。
私は花を握りつぶした。花弁が手のひらに張りつき、指の間を赤い汁が伝う。
血ではない。けれど、その温度はやけに生々しかった。
明日、私はもう一度確かめに行く。
花束の「注文者」を。
——もし、それがもうこの世にいない人だったとしても。
第三話「ガーベラの約束」
午前十時、玄関のチャイムが鳴った。
インターホンのモニターには、配達員の制服を着た女が映っていた。
「再配達です。花のお届け」
私は言葉を失った。昨日の花束は、もう庭の隅に埋めたはずだ。
受け取った箱は前回より小さい。中を開けると、白いガーベラが一輪。
添えられたカードには、たった一行——
《遅くなってごめん、約束の花だよ》
私はその文字を見た瞬間、膝の力が抜けた。
——尚人。
三年前、最後に会った日。
彼がポケットに挿していた花も、ガーベラだった。
「来年の誕生日、これを渡す」
彼はそう言って、照れくさそうに笑った。
その数週間後、あの事故が起きた。
「……どうして今になって」
私は呟きながら、カードの裏を見た。
紙の縁が焦げたように黒ずんでいる。文字の跡が裏まで滲んでいた。
まるで、火の中から救い出されたような。
その夜、沙耶からメールが届いた。
——尚人の妹。葬儀以来、連絡は取っていなかった。
《お久しぶりです。兄の荷物を整理していたら、あなた宛のメモを見つけました》
《『花は、三年後に咲くよう頼んである』と書いてありました。意味がわかりますか?》
私は返信できなかった。
三年後。まさに今だ。
夜更け、台所で花を見つめる。
茎の先端に、わずかに赤い色素が滲んでいた。
白い花弁の中に、一本だけ赤い筋が走っている。
まるで、誰かが血で染めたような。
私は花瓶の水を捨て、ガーベラを新聞紙に包もうとした。
そのとき、指先に紙の感触。茎に細い筒のようなものが仕込まれていた。
慎重に抜くと、中には丸められたメモ。
《沙耶を許すな。俺を殺したのは——》
そこで文字が途切れていた。
ペン先が走る途中で止められたように。
私は冷蔵庫のドアに手をかけた。金属の冷たさが掌に食い込む。
呼吸が浅くなり、胸が波打つ。
——尚人を殺したのは、事故じゃない?
頭の中で、沙耶の声が蘇る。
《兄は死ぬ前、あなたに花を贈るつもりだった》
それは、優しい妹の追憶ではなかったのかもしれない。
翌朝、徹が出勤する前に私を見た。
「また花、届いたんだって?」
「……どうして知ってるの」
「ポストに入ってたよ、配達票。差出人は“サヤ・ノート”」
「……沙耶?」
「違うかもしれない。でも、サヤって名前、珍しいよな」
徹は笑って、玄関のドアを閉めた。
その笑いが、どこか“確信している者”のように見えた。
私はもう一度、花束の茎に残った水滴を指でなぞる。
それは血にも似たぬめりを帯びていた。
その夜の夢の中で、尚人が囁いた。
「嘘を咲かせたのは、君だよ」
目が覚めたとき、花弁はすべて落ちていた。
床の上に散った白と赤の欠片。
光の加減で、まるで“誰かの顔”の形をしていた。
第四話「夫の影」
夜の十一時を過ぎても、徹は帰らなかった。
冷めた味噌汁の表面に、薄い皮膜が張っている。
ガーベラの花瓶はテーブルの端で傾き、茎が折れかけていた。
私は手を伸ばし、水を替えようとしたが、指先が止まった。
花弁の陰に、黒い小さな点。針のようなものが差し込まれている。
抜くと、それは極細の録音用マイクだった。
電池は切れているが、誰かが確かに“家の音”を拾っていた。
私は息を呑み、辺りを見回した。
——徹の仕業だろうか。
あるいは、沙耶?
玄関のドアが静かに開いた。
徹が帰ってきた。
「起きてたのか」
「遅かったね」
「会食が長引いた。少し歩きたくて」
彼は笑いながらネクタイを外したが、その目の奥は冷めていた。
「誰かから連絡、あった?」
「え?」
「沙耶さんとか」
私は目を見開いた。
「どうしてその名前を?」
「今日、電話が来たよ。“兄の死をちゃんと話したほうがいい”って」
徹は淡々とした口調だった。
「事故じゃなかったんだってな」
私は立ち上がった。
「……違う。彼は、あの日、自分で——」
「嘘だ」
徹の声が低く響く。
「お前は、あの日、あいつと一緒にいた。警察には言わなかったけど、俺は知ってる。お前のスマホの写真フォルダに、あの堤防の位置情報が残ってた」
私の喉が乾く。唇が震える。
「じゃあ、なぜ黙ってたの」
「お前が言うのを待ってた」
徹はコートのポケットから一枚の紙を取り出した。
それはDNA鑑定書のコピーだった。
“父親:未一致”。
菜摘の名前の横に、細い赤線。
「これ、どこで手に入れたの?」
「沙耶さんがくれたよ。兄の遺品の中にあったって」
私は後ずさった。
徹の目に、怒りも悲しみもなかった。ただ、観察するような静けさ。
「お前が俺を選んだのは、罪悪感のせいか? それとも保険金か?」
「違う! 私はただ——」
「ただ、嘘を選んだ」
徹はテーブルの花瓶を倒した。
ガーベラの花弁が飛び散り、水が床にこぼれる。
「もう、俺たちの家には“花”はいらない」
ドアが閉まる音が、心臓の奥に響いた。
私は濡れた床に膝をついた。
花弁のひとつが、足元に張りつく。
そこに、細いインクの線が走っていた。
——“罪は、香りで隠せない”。
夜明け前、非通知の電話が鳴った。
「見たでしょう?」
沙耶の声だ。
「兄のことも、あなたのことも、全部わかってる」
「何が言いたいの」
「私が兄を殺した。そう思ってるんでしょう?」
「違う。私は——」
「でもね、麻衣さん。あなたも同じよ。
兄を殺したのは、あなたの“沈黙”だから」
通話が切れた後、私はスマホを床に落とした。
スピーカーから、わずかにノイズが流れる。
それは誰かの笑い声のようでもあり、花が咲く音のようでもあった。
窓の外で、夜明けの光が赤く滲んでいく。
その赤が、まるで花弁の色のように見えた。
——“花は、三年後に咲くよう頼んである”。
尚人の言葉が頭の中で繰り返される。
そして私は気づいた。
三年前の彼の死も、この家に届く花束も、
最初から“仕組まれた贈り物”だったのだと。
第五話「花のない部屋」
朝、花の匂いが消えていた。
リビングのテーブルには、昨夜倒れた花瓶の跡だけが濡れた輪となって残り、そこから水がゆっくりと乾いていく。
床に散らばっていたガーベラはすべて無くなっていた。
私は無意識に、指先で輪の跡をなぞった。冷たい。
部屋に漂うのは、花の香りではなく、漂白剤のにおいだった。
玄関に出ると、靴箱の上に小さな白い花が一輪置かれていた。
——菊。
仏花のような冷たい白。
それを見た瞬間、背筋に氷のような感触が走った。
私は指先で花をつまみ上げると、花弁の裏側に文字が書かれていることに気づいた。
《見つけた?》
その日、徹は帰ってこなかった。
連絡もない。スマホも留守電のまま。
代わりに、ポストに封筒が入っていた。差出人はない。
中には、一枚の紙——コピーのようなぼやけた画像。
そこには、私と尚人が抱き合う姿が写っていた。
背景は、あの堤防。
写真の隅に、“3/13 午後2時15分”というタイムスタンプ。
その時刻、彼は死んだ。
崩れた堤防の下で、頭を打って。
事故死とされたけれど、私は知っている。
——あれは、私が突き飛ばした。
風が強かった。
ほんの出来心だった。
「嘘つき」と彼が言ったとき、なぜか笑われた気がして、手が勝手に動いた。
そのあと、彼が転がる音。鈍い衝撃。
私は助けようとした。でも、体が動かなかった。
そのまま、警察に「その日は会っていない」と答えた。
——あれが最初の嘘。
白い花を見つめていると、頭の中で尚人の声が蘇る。
《罪は、香りで隠せない》
そう、言った。確かに。
夜になり、沙耶からまた電話があった。
「麻衣さん、兄の写真、届きました?」
「あなたが送ったのね」
「違います。でも、もうすぐ全部咲く頃です」
「何が?」
「あなたの中の花」
通話が途切れた。
その瞬間、家の電気が一斉に落ちた。
暗闇の中で、何かが動く音がした。
リビングのテーブルの上。
さっきまでなかったはずの場所に、また花があった。
——白い菊が三輪。
私は手探りでスイッチを探す。
灯りがついた瞬間、息が止まった。
花の根元に、小さな紙。
《娘さん、今日、帰りませんでした》
菜摘のランドセルは玄関にあった。
靴も、上着も。
いない。
私は外に飛び出した。夜風が耳を切る。
近所の通りを呼びながら走る。
菜摘の姿はどこにもない。
そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
非通知。
「……どこにいるの!」
「静かに、麻衣さん」
女の声。沙耶だ。
「菜摘ちゃんは無事。でも、花はもう渡したでしょう?」
「何を——」
「“贈り主”を、間違えてはいけないの」
通話が切れた。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
花のない部屋、
花のある罪。
私はようやく理解した。
——“贈ったのは、私だ”。
第六話「嘘つきの花束」
雨が降り出していた。
窓をたたく音が、心臓の鼓動と重なる。
部屋の隅には、昨夜の白い菊がまだある。
茎の根元は乾いて、まるで骨のようだった。
私はその花を抱き上げた。手のひらに棘のような冷たさが刺さる。
——あれほど嫌っていたのに。
気づけば、私は花に触れていなければ落ち着かなくなっていた。
菜摘のことを考える。
いまどこにいるのか、誰といるのか。
けれど、探すよりも先に、ある確信が胸を締めつけた。
“私が贈った”。
この花も、あのカーネーションも、すべて。
テーブルの上の花瓶を見た。
ガーベラの茎を切ったときのナイフが、まだそこにある。
刃の根元には、乾いた赤い筋。
それが何の色か、もう確かめなくてもわかる気がした。
机の引き出しを開ける。
封筒、メモ、カード、写真。
どれも私の字。
《あなたを愛しています》《嘘をついた罰です》《少しずつ、戻ってきます》
どの文字も同じ筆圧。同じ角度。
私は嗤った。
——全部、私。
鏡の中で、私は知らない女の顔をしていた。
頬がこけ、目の下に深い影。唇の端には赤い染み。
花弁の色と同じ。
そのとき、スマホが震えた。
非通知。
「……菜摘?」
「いいえ、あなたよ」
聞こえたのは、私自身の声だった。
通話口から、同じ息づかい、同じ抑揚。
「花を贈ったのは、誰?」
「私……」
「違う。“あなたがなりたかった誰か”が贈ったの」
「何を言ってるの」
「三年前、尚人を殺したあと、あなたは自分を許せなかった。だから、罰を“形”にしたのよ」
通話の向こうで、水のはじける音がした。
「贈り主の正体を知らないままで、狂えば楽でしょう?」
電話が切れた。
私は受話器を落としたまま、しばらく動けなかった。
雨が強くなり、外の音が遠ざかる。
すべてが薄れていく中で、テーブルの上の菊がふいに揺れた。
誰もいないのに。
白い花弁の奥に、何かが隠れている。
指で裂くと、黒いフィルムが出てきた。
写真。
そこには、笑っている私と、菜摘がいた。
菜摘の手には、赤いカーネーション。
裏には、細い字。
《From Mai》
その瞬間、すべての花の意味がわかった。
私は尚人に贈りたかった愛を、形にできず、
代わりに自分自身に送り続けていた。
——嘘をつくたび、花を。
——罪を思い出すたび、花を。
玄関の外で、子どもの声がした。
「ママ?」
私は立ち上がり、ドアを開けた。
菜摘が立っていた。ずぶ濡れの手に、小さな包み。
「これ、知らないお姉さんが渡してくれたの」
包みの中には、一輪の真紅のカーネーション。
そこに添えられたカードを見て、私は息を飲んだ。
《おかえり。これで終わりです——沙耶》
花弁が一枚、落ちた。
それは血のように床に広がり、
赤い輪が、あの日の堤防の形を描いた。
私は花を抱きしめた。
花の香りに混じって、涙の味がした。
もう、嘘はつけない。
でも、嘘でしか生きられない。
その矛盾の中で、ようやく私の“花束”は完成したのだ。
(完)




