七章*悪妻、休暇を満喫する(4)
「オリバー様……」
呟かれた名前に、私は「なぬ!」と睨みをきかせた。
視線の先にはふたりの男がいた。貴族風の青年と、従者のようだ。ふたりとも足元はボロボロで、革靴が無残な姿になっている。登山列車に乗ることができず、山道を歩いてきたにちがいない。私たちが滞在中は、登山列車に客を乗せないように命じてあったからだ。
シオン様の声に振り向いたのは、オリバー・モーリオンだった。シオン様のふたりいる兄のひとりだ。様付けで呼ぶのは、彼らがシオン様を弟と認めず、兄と呼ぶと折檻したからである。
「シオン! ローレンス王子殿下の命令で迎えに来た! 早く帰るぞ!!」
怒鳴りながらツカツカとシオン様の前にやってくる。
私はシオン様とオリバーのあいだにはだかった。
「あら? どちら様? 私の愛する夫になんて口をきいてくださいますの?」
横柄に尋ねると、オリバーは眉間に皺を寄せる。
「モーリオン男爵家、次男のオリバーと申します。ローレンス王子殿下の命を受け、シオンを迎えにまいりました」
「お断りしますわ」
私は即答する。
(思ったより早い迎えね……。モーリオン男爵が住む町は王都よりここに近いと知っていたけれど、まさか兄弟がしゃしゃり出てくるとは思わなかったわ)
シオン様の生家モーリオン男爵は、田舎を治める侯爵家に代々使える家柄である。
結婚に諸手を挙げて賛成していたから、まさか、モーリオン男爵家から迎えが来るとは思わなかったのだ。原作でもモーリオン男爵家は、失踪したシオン様を捜索しなかったこともあり、油断していた。
「ローレンス王子殿下は、王都で開かれる新大聖女就任パレードにシオンの出席を――」
「あーあーあーあー!!」
私はとっさにシオン様の両耳を塞ぎ、オリバーの言葉を大声で遮る。
(ローレンス殿下はシオン様をそのパレードに参加させるつもりだったの? 無神経にも程がある!!)
私は怒り心頭だ。
「その件でしたらお断りしますわ。そもそも、シオン様はすでに宮廷魔導師ではありません。王家の行事に参加を強制されるいわれはありません!」
キッパリと私が断る。
するとオリバーはニヤリと笑った。
「やはり、ローレンス王子殿下のお考えどおりのようですね。シオンは王都のパレードのことを知らされずに、この旅行に連れ出されたのでしょう!」
私はギクリとする。
「王子の依頼を、本人の意志を確認せずに勝手に出欠を決めるとは悪妻もいいところだ!」
「はん! 悪妻で結構ですわ! シオン様は私の夫。私が自由にいたします!」
私が答えると、オリバーは新聞記事をシオン様に投げつけた。
「悪妻の言いなりで恥ずかしくないのか。シオン! いくら公爵家の財産に目がくらんだとしても、男としての矜恃を示せ!」
シオン様はその新聞を受け取り、開く。一面には新大聖女就任パレード開催決定の記事がデカデカと掲載されている。
幸せそうなローレンス殿下がエリカの肩を抱いている写真まで一緒だ。
(……すべてが無駄になった……)
私は脱力して、シオン様の耳から手を放した。
(きっと、シオン様のことだもの。エリカとローレンス殿下の願いなら聞き入れてあげるでしょうね。自分がどんなに傷ついても……)
きっと見物客はシオン様をあざ笑うだろう。
エリカを取られた男として。
シオン様は新聞を畳むと、オリバーに返そうとした。しかし、オリバーは受け取らず、従者に受け取らせる。
「そうだ、シオン。その悪妻に思い通りにならないところを見せつけろ! 王都に戻るんだ!」
オリバーは勝ち誇ったように私を見た。
シオン様は私を見る。
(行かないでと言ってもいいの? でも、私が呼び止めても無理よ)
私は唇を噛んで俯いた。
「私は帰らない」
シオン様がキッパリと答え、私は顔を上げた。
「妻との旅行中だ。戻れないと伝えくれ」
「な! ローレンス王子殿下のたっての願いだぞ? それを無視するのか? そんなにその悪妻が怖いのか!」
「ルピナは悪妻ではない。私の愛する妻だ」
オリバーはそれを聞き、顔を真っ赤にしてワナワナと震えた。
私も真っ赤になって、プルプルと震える。
動揺する私の前で、オリバーが怒鳴る。
「な! 馬鹿な! 本気か! 洗脳でもされているのか!」
(悲しいけど、完全同意よ!)
すると、シオン様はスッと顔から表情を消した。
気温が一気にさがるようだ。
その気迫に戦いてオリバーが一歩さがる。従者はさらに五歩ほど後退していた。
(怖いけど……それ以上に美しい……)
私は思わず見蕩れてしまう。
シオン様は冷たい顔で、静かにオリバーを見おろした。
「オリバー様、ルピナを侮辱するのか?」
ヒュッとオリバーの喉が鳴った。
強風が吹き、シオン様の長い黒髪が風にたなびく。
カラスの鳴き声が響いてくる。
「であれば、私も容赦はしない」
そう言って懐から魔法の杖を出し、オリバーに向けた。
「な! 私闘に魔法を使えば罪に問われるぞ!」
オリバーはジリジリと後ずさりながら、呻くように批難した。
「私闘ではない。セレスタイト公爵家ご息女に対する非礼を罰するだけだ」
そう告げられ、オリバーは私を見た。
「オリバー様は田舎で過ごしているから知らないのかもしれないが、男爵家ごときの者がそのような態度を取って良い相手ではない」
私は鷹揚に頷いた。
「っな! 俺はお前の兄だぞ!? 兄を見捨て悪妻を選ぶというのか? 金に目がくらん――」
オリバーの足元めがけ、シオン様が杖を振った。するとつま先にあった石が真っ二つに割れる。
「ひぃ!」
声をあげたのは従者だ。
「兄? 私に兄などいない。私はモーリオン男爵家の方々から、そのように呼ぶことを許されてはいない。父は私を子と認めず、あなた方は私が兄と呼べば殴った。それなのに、いまさら家族といわれても」
シオン様は鼻先で笑う。恨みも憎しみもない、諦め突き放した目だ。
オリバーの指先は震えて力が入らないようだ。手元の新聞は強風に煽られ、夕暮れに飛んでいってしまった。
「シオン……」
助けを請うような声でシオン様を見るオリバーに、私は微笑みかけた。
「シオン様、よ? 私の婿となったのです。彼は、シオン・セレスタイト。男爵家の令息ごときが呼び捨てできる相手ではなくってよ?」
ゴォと風が吹く。
オリバーはその場で膝をついた。







