第16話貴船波子三
それはまだ、徳子が純粋な人間だった時の話だ。
戦闘だの魔術などという野蛮な行為とは無縁で、テストの点数や駅前に新しくできたクレープ屋に関心を向ける、どこにでもいる学生だった頃の話。
命短し恋せよ乙女。
クラスにいる他の多くの子供と同じように、恋やイケメンを話しの種に笑いあいからかいあい、いつか自分もとかすかなあこがれが、本物になるのはそう長い時間がかからなかった。
誠は理想の彼だった。
お金持ちで、やさしくて。いつも波子三を気づかってくれれる。
時折、女癖が悪いという黒い噂を聞くが、波子三が確認する限りそんな様子は見られず、真摯にそして誠実に愛情をもって接してくれた。
少年少女の淡い恋愛が大人の階段を登っていく。
『誠』
波子三は優しく彼の名前を呼んだ。
まだ幼い自分には将来のことは分からないけれど、優しい彼となら、このまま生涯を共にしてもいいと思った。これが真実の愛なのだと幼いながらに思う。
隣を歩くだけでも、前よりずっと彼のことが好きになる。もっともっと一緒にいたいと願っていた。
そんな幸せな日々はある日突然終わってしまう。
波子三が妊娠したのだ。
「その、おろしてくれないかな」
そういって、誠ははした金を押し付けた。
「その、もっと言うべきことがあるんじゃないのかな」
これが何かの冗談だと、波子三は純粋無垢に疑いもしなかった。
だが、誠は虫を払うように波子三を振り払う。
彼らはいまだ学生のみだ。
こうなる可能性を波子三は想定しつつも、自分たちならどんな困難も乗り越えられると信じて疑っていなかった。
「俺たち学生だろ、育てられるわけない。まったく、こんな身勝手な女とは思わなかった。もうさあ、俺たち分かれよう。お前となんか付き合ってられねえ」
だが、現実は非常だった。
唾すら吐き捨て、誠はその場を後にしたのだ。
待ってと嘆く女の声など、彼には聞こえてすらいなかった。
こうしてひとつの恋は終わりをつげ、後に残ったのは女の暗い情念と執着だ。
「どうしてだ、どうして俺がこんな目に合わないといけない!!」
結婚してもいいとすら思っていた恋人に裏切られ捨てられた波子三。しかし、捨てた側の誠もまたその生活はとてもではないが安泰とは言えなかった。
「お前ら、何適当なこと言ってんだぁ!」
自分に聞こえるように、波子三の噂話をクラスの女子がしていた。
たった一日もあれば、学校という狭い世界の中で、彼の悪行が広まるには十分。
そのせいで、学校中から自分をバカにするような噂話が聞こえた。
波子三に黙ってキープしていた『仲良し』だった、女からは関係を断ち切られる。
どうしてかと問い詰めれば、『私なんかよりも彼女のことを大事にしてあげて』などと訳の分からない説教をされた。
「どうしてだ、どうして俺がこんな目にぃ!!」
何もかもがうまくいかないこの状況に、誠は髪を掻きむしり、どうしてこんなことになったのかと自身の身に降りかかった悲劇を嘆く。
「あいつだ、あいつのせいだ」
そして最終的に、自分をこんな状況に追い込んだ元凶に怒りを向けた。
その顔には女の前では見せたことがない邪悪な笑みが浮かんでいる。
波子三はあの日から学校に通っていない。
それどころか、外出さえしていなかった。それでも、定期的に誠の家に向かうのだけは止めていなかった。
女の執念、あるいは淡い恋心が、惚れた男を諦めるという選択を取ることを拒んだ。
話し合いましょうだとか、この子のことも考えてだとか、そんなありきたりでありながら、誰の心にでも響くような当たり前の常識を語るも、門前払いされるのは今日で五度目だ。
誠の家族のほうでも子供をおろしてほしいらしく、来るたびに、より高額の金銭が積み上げられる。が、波子三は首を縦に振ることはなかった。
「お前、貴船波子三だな」
そんな失意にぬれた帰り道のことだ。
路地裏から、覆面をかぶった男が現れ波子三の名前を呼んだのは。
「やめて、やめてぇ! もう許してぇ!!」
何度も何度も男は波子三をバットで殴りつけた。
最初は助けを呼ぶ声も、しまいには許してという懇願にかわり、最終的には言葉にもならないすすり泣きに変わる。
最終的に男はバットを捨て逃げ去った。
波子三は病院に運ばれ、そこで流産を宣告された。
波子三は世界を呪った。
必ず、そう必ず復讐してやると、神に誓う。
誠を捕まえてくれと訴えるも、警察は証拠がないと拒否された。
その時間誠にはアリバイがあるのだ。
金で下手人を雇ったのだ、そのアリバイがいったい何になるのだと波子三は警察の無能さに怒りを燃やす。
あるいは地元の名士である誠の家に気を使い十全な操作をしていないのかもと、一人くらい孤独の中に囚われたていた。
とはいえ、波子三はただの学生だ。つてもなければ力もない。
この状況で有効な選択肢を思いつくことさえできなかった。
弱気な彼女が、泣き寝入りをするべきと訴えるが、ぐつぐつと煮詰まり、黒い憎悪とまでなった女の執着心は諦めるという選択肢を選ばせなかった。
そんな彼女がとった手段は呪詛だった。
退院後、どこかに消えた誠を憎悪し、丑の刻に藁人形を打ち付ける日々を送る。
その誠もまた、追い詰められていた。
「くそ、くそ、くそ!!」
今回の一件の罰として、あるいはほとぼりを冷ますために、山奥にある全寮制の学校へと、彼は無理やり放り込まれた。
「どうして、こんなことしなきゃならないんだよ!」
と当然抗議の声をあげる息子を、父親は怒りをこめ本気で殴りつけた。
ここで頭を入れ替えろ、さもなくば勘当だと、冷たく告げる。
そこまで言われれば、さすがの誠も肩を落とし、素直に言いつけを守るしかない。
こんな山奥の学校だ。
都会で育ち、都会から出たことがない彼からすればここでの日常など退屈以外の何ものでもない。
おしゃれな店や豪華な食事はもとより、カラオケやゲームセンターなどの娯楽、そして何より、奇麗な女も自分を持ち上げてくれる取り巻きもいないのだ。
「絶対、絶対にこんなところから抜け出してやるからな」
ここでの生活に飽き飽きし、脱出を考えるまで、そう長い時を必要としなかった。
虎視眈々とどうにか抜け出す方法がないか考えそして実行に移す。
誠は物資運搬をするトラックの荷台に乗り込んだ。
着の身着のまま。何も持たずの大逃走劇だ。
しかし、彼には勝算があった。
最後のチャンスとばかりにここに放り込まれたが、それでも彼は親子の絆を信じていた。
どれだけ叱られ、殴られようとも、最後には情が勝つと。
自分が一月か二月通信が取れなければ向こうからすり寄るだろうと甘い見通しを立てていた。
母が父を説得していると電話で話したことも彼の自身の源だ。
逃亡先は自分の故郷。
そのほうが両親との対話にも有利だし、多くのつてがある。
たくさん金をばらまいてきたのだ、友人たちに自分が迷惑かけようとも気にすることはないだろう。
それどころか、父が自分を許したとき再び甘い汁を吸うためにすり寄ってくると確信していた。
「まずは女だな」
再びバラ色の人生を取り戻すのに、いったい何が必要なのか。
その答えがこれだった。
電話で誠は自身の恋人、その中でも特におとなしそうなやつに話を通す。すなわち、しばらく泊めてくれと。
彼の誤算は、思っていた以上に今回の事件が話題になっていたことだ。
波子三への襲撃の黒幕が彼だとあちらこちらで噂され、恋人ですら心底から軽蔑していることを気がついていなかったのだ。
それでも、そう、彼女は善良だった。善良だからこそ、かつての恋人にはた迷惑にも厚生の機会を与えたのだ。
「波子三も話したいって言ってたし。やっぱり、事件の黒幕は誰か置いといても、当人同士で問題を解決するのが一番よね」
この選択が最悪の結果を生み出すなんて、彼女は想像すらしなかった。
「久しぶりじゃない。こうして面と向かって話すのはいったい何日ぶりかな」
ゆらりと歩くそのやせこけた女を波子三だと最初誠は判断できなかった。
きれいだった髪はぼさぼさに。頬はこけ、肌もカサカサ。
そこにかつての面影はなく。
生気を失った幽鬼のような雰囲気を漂わせているのに、目だけはらんらんと輝いていた。
「く、くるなぁこの化物ぉおおおぉぉ!!」
手に包丁を持ったその姿を見て、誠は殺されると感じた。
走り出せばすぐに騒ぎを聞きつけ、一人の親切な女が車に彼を向かい入れ、逃走を開始する。
とにかく誠は家に帰りたかった。殴られるかもしれないがそれでもすぐに家に帰りたかった。
だが、真の恐怖は続く。
車、そのバックミラーにはこちらを追ってくる何かがあった。
最初、バイクかと思ったが違う。
それは一人の人間、鬼と化した波子三だった。
到底人が出せるはずのない速度で車を追いかけ、叫び声をあげる彼女を見て殺されると誠は恐怖する。
それでも女は大丈夫、必ずあなたを救って見せると彼を見捨てなかった。
どうにか自分の家に潜り込む。すると防犯目的で設置されていた結界が起動した。
息子を勘当すると息巻いていた父も、この状況では怒りもどこかに消え、バカでどうしようもない息子を守るべく奮戦した。
波子三が捕獲されたのは三時間後のことだった。
このありさまを見れば、父も地元民も頭を冷ます。誠にも悪いところがあったとはいえ、波子三も波子三でおかしかったという風に話が流れ。
それでも、誠は己の罪。波子三への暴行の一件で警察に自首した。
この危機的状況でも自分を救ってくれた女性に、一人の人間として向き合うために己の罪と向き合うことを決めたのだ。
少年院に収監されるも、すぐに出所し、それからは心を入れ替えたという。
こうして悪い鬼は退治され、皆は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。
そんなどうしようもないおとぎ話こそが、波子三の過去だった。




