海防艦の戦い
最終話です。
初期に[ズルツァー]の技術が持ち込まれた海防艦の他に、そのままのレーダーを装備した海防艦がいる。国後と八丈である。
津軽海峡警備に当たる両艦は青函航路が悪天候になると呼び出されることが多かった。連絡船のみならず通常の貨物船までが津軽海峡では両艦を頼ってきた。
そして御蔵級の就役に伴い占守や択捉級各艦が北方警備に戻ってくると警備活動範囲が広がり北は新知島、南は宮古沖までが活動範囲に入った。
ある時、国後が択捉島沖でレーダーに見えた艦影を追うと見えなくなったので敵性潜水艦と断定。敵影は見失った。しかし、美幌空の協力を仰ぎ頭を押さえ続けた為か、それとも水中稼働時間の限界か反撃に出てきた潜水艦を探知。美幌空と合同で撃沈している。
北海道より北方で沈めた潜水艦はその1隻と終戦までに3隻の計4隻だったが、改めてレーダーの威力が確認された。
その時に、大湊にいて出動が間に合わなかった択捉艦長から「何故本艦を待たなかった」とイヤミを言われた国後艦長だった。
国後と八丈はさすがのレーダー性能で条件が厳しいオホーツク海や千島沖、冬の日本海で活躍をした。
米軍の記録によると、日本海に侵入した潜水艦は2隻。宗谷海峡まで到達した潜水艦は10隻にも上った。結局宗谷海峡を抜けるのは諦めた艦が多かったらしい。その2隻の戦果は内航貨物船を6隻撃沈したが結局追い回されて沈められている。
津軽海峡は防潜網と警戒が厳重なために選択肢に入らなかったようだ。
昭和19年11月。
『煙草盆出せ』
スピーカーから艦長の声が聞こえた。一番危険な海域を抜けた次の日の夜。ホッとするのかみんな顔が緩い。しかし、戦時の航海中だけに『酒保開け』まではいかないか。
シンガポールを出航したシマ24船団は、マニラ港で補給と再編を済ましマヨ28船団となっていた。
船団は計24隻の民間商船と軍の輸送船に護衛の海防艦2個戦隊6隻が付いている。交代で本土に帰還する部隊を乗せた船の他、貴重な原油や航空揮発油の他、天然ゴムやマニラ麻、ニッケル鉱石、鉄鉱石などを積んでいる。鉱石を積んだバラ積み貨物船の船足が遅く船団速力は10ノットも出ていない。さらに言えば時々不定期に変針しているから余計に航海時間が長い。
バシー海峡を抜けたのが昨日の午後。台南や台北の海軍航空隊対潜哨戒機が上空を時々通過した。心強い。
船団は今、宮古島北方海域にいて沖縄の航空援護下にあるはずだが、夜間なので見えない。あいつら夜間も飛ぶのかな?*
*(電探やらなんやら電子装備てんこ盛りの東海や九六陸攻が飛んでおります)
明日、明け方奄美大島に達しそこから太平洋に出る。明け方から厳戒態勢に入ると思う。この航路は4回目だ。だいたいの具合は水兵でもわかる。
00:20 艦橋に先任が来た。
「先任」
「はっ、艦長」
「明け方まで頼む」
「艦をお預かりします」
汗を流して艦長室に戻ると、01:00になっている。疲れる。避けられない事務仕事や書き物をしてから眠る。800トンに満たない223号海防艦とはいえ艦長だ。大尉のやる職ではないと思うが、少佐が足りない。御蔵級と日振級で40隻も就役し丙型と丁型も60隻を超えた。まだ増えると聞く。少佐も足りなくなるよな。他にも士官・下士官不足は深刻で予備役を呼び戻してもいる。
この艦の航海も中尉だが実家の都合で兵学校卒業後中尉になる前に退役した3期上の先輩だ。やりにくい。
さすがに先日まで実家で家業をしていた人に夜間当直を任せられず、先任(砲術長の中尉)とふたりで夜間はやっている。
05:00。黎明前の艦橋に行くと先任が目をしばたかせている。きついのだ。俺もそうだが、一応3時間仮眠ができただけ良い。
「先任、替わるぞ」
「艦長、まだ時間には早いです」
「そんな目で見張れるのか。良いから眠ってこい」
「ありがとうございます。艦を返します」
「おう」
05:30になると見張り員が当直の交代に次々と上がってきた。当直の交代時間は艦長の専権事項でもあり、俺は夜明け前30分に交代できるよう合わせている。疲れ切った時間に見張るよりもいいだろうという考えだ。
夜明けは06:15だ。そろそろ白み始める。危険な東側が日の出でよく見えない。なんでこの時間にここを抜けるのか。バシー海峡通過時間と到着予定時間の関係なのはわかっている。電探が頼りだ。
見張り員に遅れること少し、航海も上がってきた。
「遅れました」
「まだ早い…」(困る。俺が四号の時に一号生徒だっただけに)
「貴様は大尉で艦長だ。勤務中は上官として振る舞え」
「では、そうする」
顔で笑い合う。さすがに声は出せない。
ここら辺は南西諸島航空隊の哨戒範囲だが安心はできない。
その後、鹿屋の哨戒範囲に入り豊後水道沖で数隻と分離し、高知の哨戒範囲をくぐり大阪方面へとまた数隻分離する。勿論駆潜艇のお迎え付きだ。安心はできない。鈴鹿の哨戒範囲に入り、また2隻分離する。あの2隻には陸軍さんが乗っているはずだ。ついに館山の哨戒範囲に入った。東海が頼もしい。
もう富士山が見えている。行会い船も増えてきた。船団の先頭にいる護衛戦隊旗艦の倉橋が船団を避けるよう行会い船に指示しているはずだ。だが油断は禁物。ここまで来て衝突も敵潜からの襲撃も勘弁だ。
今回も高速航行がなかったので油が持った。いくら船団速力が8ノットとはいえ対潜対空で高速航行を強いられれば丁型の航続力だとマニラ横浜間の航行は無理で、途中で交代しなければいけなかっただろう。
19年11月23日。
マヨ18船団は欠けることなく横浜港に入港した。
20年4月
マヨ22船団 遠州灘でアメリカ海軍機動部隊の襲撃を受ける。
護衛の軽巡1隻、駆逐艦2隻、海防艦4隻と船舶27隻であったが、生き残ったのは駆逐艦1隻、海防艦2隻、船舶2隻であった。
20年6月
タヨ15船団 高知沖で大規模な敵潜水艦部隊の襲撃を受ける。
護衛の海防艦4隻と船舶18隻であったが、海防艦2隻と船舶8隻が失われる。
海防艦と対潜哨戒機は敵潜水艦6隻を撃沈している。
戦後の情報公開によると、
マヨ22船団の被害は浜松空襲を企図した機動部隊の攻撃隊に発見され、目標を輸送船団に変更されたためだった。襲撃は一回のみで遁走を許している。全機対地装備のために生き残りがいるが、対艦装備だったら全滅していたという見方もある。
タヨ15船団は偵察結果からこの航路を必ず通過すると、あらかじめ網を張っていた12隻の潜水艦による。
19年6月、大陸よりB-29襲来。
重層的に配置された迎撃網によって効果的な迎撃を行う。
数回の襲来で損失が増えすぎたのか以降姿を見せず。
19年8月、トラック島沖海戦。トラック島壊滅。トラック島放棄。
敵正規空母3隻撃沈も翔鶴・飛鷹を失う。
20年2月、マリアナ沖海戦。連合艦隊敗れる。
主力艦多数沈没または長期ドック入りが必要な損傷を受ける。
20年3月、マリアナ諸島陥落。
マリアナ陥落後、アメリカ海軍がグアム・アプラ軍港を策源地とし始めた。これにより潜水艦発見回数が増加した。また、正規空母2隻から4隻基幹の機動部隊複数が活発に日本近海で活動し始める。日本海軍も太平洋岸側対潜哨戒網を強化して対抗するが敵機動部隊接近の報が出ると対潜哨戒機の出撃は難しくなる。マリアナ沖海戦で一敗地に塗れた日本海軍にアメリカ海軍機動部隊を補足撃退する力は無かった。輸送船団も退避が必要となり、補足され大被害を被ったり大きな遅延など輸送路の混乱が酷い。
マリアナ陥落後、急速に膨れ上がっていく船腹喪失量。
海防艦の損失も増えている。
20年6月、マリアナよりBー29襲来。各地に空襲を始める。迎撃機活躍する。
20年7月、日本無条件降伏。
もっと頑張るはずであったが、
6月にドイツが降伏するとヤルタ会談の内容が日本政府にリークされた。
さらに
ソ連が条約を無視して参戦してくる可能性大
アメリカが1発で都市を壊滅できる超強力爆弾を使う可能性大
等の様々な情報のリークが確証付で有ったためと思われる。
リークにはソ連と米大統領の行動を気に入らない複数の勢力が加担したと思われる。
海防艦は占守級以降、合計228隻が就役し160隻が失われた。
占守級・択捉級。就役14隻。喪失8隻。
御蔵級。就役28隻。損失22隻。
日振級。就役48隻。損失28隻。
丙型。就役61隻。喪失48隻。
丁型。就役77隻。喪失54隻。
お読みいただきありがとうございました。
架空の航路ですが、シンガポール=マニラの航路はあったんでしょうか。マヨ、マニラ=横浜とか。
速力と距離がおかしい気もしますが、気にしないように。所詮この作者です。
電探と海防艦の活躍で19年冬でもシンガポールと本土の輸送路は維持されています。
之字運動が読まれ被害が拡大したため、船団指揮官が時間と油の許される範囲で不定期に進路を変えています。